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の記憶



05. 決して晴れない日


 日付が変わる頃に降り始めた雨は朝になってもやむことはなく、玄関のドアを開けると雨音はピンク色の傘を開いた。
 結局、今年も雨だ。そう思いながら、霧雨の中を足早にバス停へと向かった。


「誕生日おめでとう!!」
 雨音が教室に入ると、彼女の席で待ち構えていた智子と美雪がそう声を揃えて出迎えてくれた。
「えー、何? ふたりとも朝からテンション高いよ」
 朝一番のお祝いが照れくさくて、わざと冷静なふりをしてふたりのもとへ行く。しかし、どうやっても自然と零れる笑みは抑え切れず、雨音の頬はすっかり緩んでいた。
「うちら三人の中で一番乗りだね。どう、十六歳になった気分は?」
 智子がマイクを持つ振りをして、右手を向けてきた。
「全然実感がないよ。今朝も家族は、何かのついでみたいなおめでとうしか言ってくれなかったし」
「うちもここ数年はそんな感じだなあ。子供の頃と違って、アピールしないとおめでとうすら言ってくれないよね」
 忙しい朝のあっさりした家族の反応に対し、友人たちのテンションの高さは予想以上で何だか嬉しい。だから素直にありがとうを伝えると、目をきらきらと輝かせながら美雪が尋ねてきた。
「雨音はもう結婚できちゃうんだよ。ねえ、どんな気持ち?」
 美雪らしい質問に、雨音は思わず苦笑する。法律的に認められてるというだけで、高校生の自分が誕生日を迎えたからといって結婚を実感できるなんてある筈がない。
「あんたってば、つくづく発想が恋愛がらみだよね」
 呆れたように美雪を見やりながら、しみじみと智子が零した。
 三週間前に雨音が不快感を示したあと、美雪は雨音と凪をくっつけるような話をするのをやめた。彼女は特に謝らなかったけれど、悪いと思っている様子ではあった。雨音も謝ることはしなかった。そして、自分の大人げない態度はしっかりと反省した。
 相変わらず美雪は何かにつけて恋愛に結びつけるのが好きで、智子はすっかり呆れ果てているけれど、自分にはない発想だから雨音は面白がって聞いているのだ。

「ところで、やっぱり雨音の誕生日は雨なんだね」
 ちらりと窓の外を見やると、智子が言った。朝から霧雨が降り、窓の外は灰色の景色が広がっている。
「うん。実は毎年なんだよね」
「はあ、毎年!?」
 智子と美雪の声が、見事に揃った。
「名前からして雨の日に生まれたんだろうなとは思っていたけど、まさか誕生日が毎年雨とはねえ」
「それ、本当に? 一年も欠かさず?」
「もちろん赤ちゃんの頃のことは覚えていないけど、家族が言うには毎年らしいんだ。少なくとも物心ついてからはずっと」
 雨音がそう言うと、ふたりは信じられないという表情で顔を見合わせた。
「まさか、美雪も誕生日は毎年雪って言うんじゃないでしょうね?」
「ない、ない、ない、ないっ!!」
 智子が訝しそうに尋ねると、美雪は一瞬きょとんとした表情を見せ、即座にぶんぶんと手を振って否定した。その様子が可笑しくて、雨音と智子は思わず声をあげて笑った。

「でも、別に雨女というわけではないよね? 春の遠足も良い天気だったし、この間の体育祭も晴れたし。三人で遊びに行く時も雨が降ったことはないよね?」
 美雪が意外そうに言った。
「そうなんだよね。子供の頃から、行事ごとが雨で延期や中止になったことってないような気がする。もしそうなっていたら、男子におまえの名前のせいだとか言われていただろうけど」
「うわあ、小学生の男子って絶対そういうこと言いそう!」
 智子が、さもありなんと大きく頷く。
「雨音って、晴れ女か雨女かわかんないね」
 不思議そうな顔で美雪が呟き、でも、と言葉を繋いだ。
「やっぱり、雨音の誕生日プレゼントはこれしかないでしょ!」
 そう言って教室のカーテンの陰から何やらごそごそと取り出すと、ふたり並んで雨音の目の前に差し出した。
「十六歳の誕生日おめでとう!!」

 それは、水色の傘だった。
「え、嘘……?」
 予期していなかったプレゼントに、雨音は上手く言葉を紡げない。
「開いても、いい?」
 教室の隅で、そっと傘を開く。爽やかな水色の地に、青の水玉がぽつぽつと入っている。まるで雨の滴ようだ。
「可愛い」
 思わず感嘆の声をあげると、雨音は何度もふたりにありがとうと言った。
「わりと最初から雨音のバースデープレゼントは傘って決めていたんだけど、まさか誕生日にばっちり雨が降るとはね」
 智子と美雪が満足そうに笑うと、賑やかな教室に予鈴が鳴った。



 結局、その日は一日中雨だった。
 図書室の窓は白く曇り、外の景色を見ることができない。窓の外は灰色で、蛍光灯をつけていても室内は薄暗く感じられた。
「せっかくの誕生日なのに、当番なんて最悪だね」
 ホームルームが終わったあとの、智子の言葉が甦る。図書室で閉館まで一緒にいると言ってくれたのだが、予備校に通ってるのを知っているのでそれは雨音が断った。
 雨の日は嫌いじゃない。雨の音も、空気も。そして、それを静かに感じられるのが図書室なのだ。
 雨音は、十六歳の誕生日にすっかり満足していた。そして、下校するまで雨が降り続くことを祈っていた。あの水色の傘をさして帰るのだ。

 カウンターに座ると、雨音は数学の問題集を開いた。来週から中間テストだが、どうしても苦手な教科はあと回しになって進まない。若干の焦りを感じながら、雨音はテスト範囲の最初から問題を解き始めた。
 いつも通り眼鏡の三年生が入ってくるが、彼は黙々と受験勉強をするだけなのでカウンターに来ることはない。だから雨音は気にせず数学の問題に集中した。最初は順調に解けていたが、応用問題になると途端に躓く。ついに手にしていたシャーペンを放り出すと、数学なんてなくなればいいのにと心の中で悪態をついた。
 すっかり集中力が途切れ、雨音はカウンターの隅に置いていた分厚い本を手元に引き寄せると、おもむろに表紙を開く。その装丁は色褪せ、どれだけ長くこの図書室の本棚にあるのかその年月を感じさせられるけれど、ページを捲ると紙は若干黄色く変色しているものの綺麗だ。目次に目を走らせていると、不意に扉が開いた。

 既に常連の人たちは全員来ている。誰だろうと思って入室した人物を見やると、クラスメイトの和也だった。
「お邪魔しまーす」
 そう言って真っ直ぐにカウンターに向かって来る和也を、雨音は意外そうに見つめた。静かに本を読むよりも体を動かすことの方が好きそうなイメージの和也は、正直図書室と結びつかない。そんな彼女の表情に気を留めるでもなく放った和也の一言に、更に雨音は驚かされた。
「凪、こっちに来てない?」

「ううん、来てないけど」
 数秒の間をおいて、雨音が小さく答える。
「あれ? じゃあ、あいつどこに行ったんだ?」
「奥田くん、もうちょっと声を落として……」
 和也の声は、図書室で発するものとしては大きい。申し訳なさそうに雨音が囁くと、ごめんと決まり悪そうに頭を掻いた。
「本当に来てない?」
 そして、疑うように雨音の目の奥を覗くともう一度、今度は先程よりもトーンを落として同じ質問をした。

「来てないよ。そもそも、わたしが当番の日は来たことがない」
 他の曜日は知らないけれど、と心の中で小さく付け足す。
「絶対にここだと思ったんだけどな。澤田ちゃん、今日誕生日なんでしょ?」
 和也の発言に、雨音の頭の中は疑問符でいっぱいになった。今日が雨音の誕生日だということは、殆どのクラスメイトが知っているだろう。あれだけ智子と美雪がおめでとうを連呼してくれたのだ。事実、数人の女子からも声をかけてもらった。
 しかし、凪が図書室に来ることと雨音の誕生日は、まったく関連性がないのだ。
「ごめん奥田くん、全然意味がわからないんだけど」
「だから、澤田ちゃんの誕生日を一緒に過ごそうとしてるのかと思ったんだよ」
 予想もしない発言に、雨音は口をぽかんと開けたまま、何も言えずただ和也の顔を凝視した。
「え、待って。本当に付き合ってないの?」
 雨音の間抜けな表情を見て、今度は和也がぽかんと口を開けた。はあー、と雨音は大きく息を吐く。
「嘘でも本当でも、谷岡くんとは付き合ってないよ」
 きっぱりと雨音は言った。当然だ。そんな雨音の様子に、和也は混乱した表情を見せた。
「そもそも奥田くんは、何故そんな風に思ったの? 付き合っているどころか、クラスメイトの中でも一番会話することが少ない人なのに」
 雨音が苦笑まじりに問いかける。
「そうかも知れないけど、それはカムフラージュと言うか、隠しているだけだと思っていたんだよね。凪の視線の先にはいつも澤田ちゃんがいて、よくふたり目が合っているっぽくて。でも、全然言葉を交わさないし、付き合ってることは内緒なのかなあと思っていたんだ。俺が部活の日はひとりで図書室に通っているみたいだし、それも澤田ちゃんと一緒にいる為なのかなあと」
 それは単なる偶然で、しかもそのあとに速攻で目を逸らされているのです。そう反論しようかと思ったけれど、雨音は黙っていた。予想通り他の日は図書室に通っていて、雨音が当番の水曜日だけは一度も来たことがないのに彼女だと勘違いされるなんて、何て皮肉な展開なのだろう。
「凪は中学の時から妙にもてるんだよなあ。だから、女子のやっかみから澤田ちゃんを守る為に付き合っていることは秘密にしてるんだとばかり思っていたのに、俺の勘違いだったのかあ……」
 がっかりしたように肩を落とす和也の姿を見ていると、何だか可笑しくなってきて、雨音は我慢できずに吹き出した。

「笑うなよー」
「しーっ!!!」
 思わず声のボリュームを上げた和也に、雨音は人差し指を立てる。
「あ、ごめん」
 慌ててふたりで室内を見渡す。眼鏡の三年生がじろりとこちらを睨むと、再び机の上の問題集に視線を落とした。
「凪の奴、昔からちょっと秘密主義なところがあるけど、こんなことまで俺に秘密にしやがってと内心腹を立てていたんだ。でも、ちゃんと味方になってやろうと思っていたのにさ」
「奥田くんってば、面白い。想像力豊かなんだね」
 雨音の肩がくつくつと揺れる。大きな声を出したらいけないと思うと、余計に可笑しさがこみ上げてくる。
「あーあ。俺、馬鹿みたいだなあ」
「そんなことないよ。すごく友達思いってことじゃない。ちょっと想像力が逞しすぎるけど」
「澤田ちゃん、それ全然褒めてないよ」
「ちゃんと褒めてるよ」
「じゃあ、そういうことにしとくか。あのさ、凪にはこのこと内緒にしといてよ。絶対怒られるから」
 心配しなくても、会話をすること自体がないから大丈夫だよ。そう思ったけれど、余計なことは言わずに笑って頷いた。

「ところでさ、その本、今流行ってるの?」
 ふと思いついたように、和也は雨音が読んでいた本を指さして尋ねてきた。意外な質問に驚きつつ、色褪せた表紙に行書体で書かれた『室町時代の人々』というタイトルを思わず見やる。
「どうして?」
 今日は和也から予期せぬ質問を受けてばかりだなと思いながら、雨音は逆に問い返した。
「いや、凪もその本を読んでたからさ」
 さらりと言った和也の答に、雨音の心臓がとくりと鳴った。

「この本を? 似てる本とかじゃなく?」
「いや、同じ。手にとって見たから自信あるよ。あいつ頭良いけど理系だからさ、歴史の本を読んでいるのがちょっと意外ですごく印象に残ってる。今、室町時代がブームだからって言ってたけど」
 確かに歴史本はブームだけれど、室町ブームは聞いたことがない。
「そう言えば最近、室町ブームきてるみたいだね。先週も借りてる人がいたよ」
 思わず雨音の口から嘘が零れていた。
「何だ、そっか。同じ本読んでるから、やっぱり付き合ってるんだって確信したのに」
「奥田くん、そのネタひっぱるねー」
 早まる鼓動を隠すように、雨音は和也を茶化した。
「じゃ、俺帰るわ。邪魔してごめんな。それから変なこといっぱい言ってごめん」
「いいよ、気にしないで」
 雨音が笑いながら答えると、思い出したように和也が手に持っていたポスターを差し出した。
「あっぶね。手に持ってるのに危うく忘れるところだった。さっき職員室で鈴木につかまって、澤田ちゃんに渡してってさ。掲示板に貼っておいてくれだって」
 ありがとうと言って受け取ると、和也は軽く手を上げて図書室から出て行った。



 図書室の戸締りをして特別棟と本館を結ぶ渡り廊下に出ると、果たして雨はまだ降っていた。
 先週の衣替えの時は暑いと思った冬服も、この雨ですっかり気温が下がり、上着なしでは逆に肌寒いだろうと思われる。

 ――凪もその本読んでたからさ。
 和也の言葉が、先程から雨音の脳内をぐるぐる回っている。凪と付き合っていると勘違いされたことよりも、何故か彼が同じ本を読んでいたことに雨音は動揺していた。
 表紙が色褪せた古い本。なのにはじめてページを捲られたかのように綺麗な本。要するに、人の目に触れることが殆どなく、じっと本棚で眠っている、そういう類の本なのだ。凪が読んでいたのは恐らく私物か、市民図書館のものだろう。和也が返ったあとで貸出履歴を確認したが、一度もあの本は貸し出された形跡がなかった。
(室町ブーム、だってさ……)
 何故こんなにも自分は動揺しているのか、何に対して動揺しているのか。

 職員室に鍵を返し、校舎の外へ出る。疲労を感じ、雨音は溜息をついて空を見上げた。鉛色の空からは飽きもせず、無数の雨粒が落ちてくる。今日は朝から天気が悪かったので、自転車ではなくバスだ。
 急に考えることが面倒になって、雨音は傘を開いた。灰色の空とは対照的な爽やかな水色の傘をさし、反対側の手には中学時代から使っているピンク色の傘を持つ。
 バスを待つ間、雨音はその水色の傘をくるくると回しながら、青い水玉が回るのをただぼんやりと眺めていた。



2010/10/21

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