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の記憶



02. 言葉の鍵


「雨音、帰る?」
 ホームルームが終わり、俄かに活気づいてきた教室で智子が声をかけてきた。
「ううん、今日は当番の日だから」
「そっか、今日水曜だったね。毎週毎週、面倒だねえ」
 智子の同情的な言葉に、雨音は小さく肩を竦めて仕方ないよと答えた。
「わたしも今日は一緒に帰れないから」
 ふたりが話していると、背後から美雪が割り込んでくる。
「知ってる。赤点だったから山下に呼び出されたんでしょ」
「だーかーらー、委員会の話だっつーの!」
 美雪が智子に食ってかかるのを見ながら、雨音は教科書をつめた鞄を手に取った。
「じゃ、行くね。美雪、山下先生に次のテストは頑張りますって、ちゃんと謝るんだよ」
「もう、雨音まで!」
 ぎゃあぎゃあ騒いでる美雪とその隣で腹を抱えて笑っている智子に手を振ると、雨音は図書室のある特別棟へと向かった。

 図書委員である雨音は、毎週水曜日が当番の為、放課後は図書室に残らなければならない。雨音の通う宇野辺高校では昼休みと放課後に図書室が解放され、その運営を図書委員が行っているのだ。
 放課後の当番は一年が担当し、二年は昼休みの担当となる。三年は実質仕事がない為、図書委員には三年間通して就く生徒が多い。一、二年で面倒な仕事をさせられて、三年だけ別の人になられたら何だか損した気分になるからだ。運悪く一年生で図書委員になった者はそのシステムを口外せず、三年間立候補し続ける。仕事のない三年になってちょっと得した気分を取り戻しながら、とりあえず三年間委員を務めたという内申書の評価を手に入れるのだ。周りは本好きなのだろうという理由で納得するので、代々それが繰り返されることになる。
 雨音は職員室から取って来た鍵の束から一番長いものを選び、図書室の扉の鍵穴に差し込んだ。扉を押しながらゆっくりと鍵を回す。古い校舎なので建てつけが悪く、コツがいるのだ。
 扉を開けると、少し湿ったような空気に触れた。紙とインクの匂いがする。薄暗い室内で深く息を吸うと、雨音は電気のスイッチを入れた。
 智子は面倒だねと同情してくれるけど、雨音も仕方ないよと答えるのだけど。けれども、雨音は別にこの仕事が嫌いではなかった。図書館に漂う雰囲気が、雨音には何となく心地良かったのだ。

 カウンターの上には本が三冊置かれていた。昼休みぎりぎりに返却されて、本棚へ戻す暇がなかったのだろう。雨音はそれらを抱え、背表紙に貼られているテープの番号を見ながら本棚へ戻してゆく。
 ガラリと扉が開き、男子生徒が入って来た。常連の三年生だ。
 ひと駅先に市立図書館があり、本を読む生徒は殆どがそちらを利用しているので、実はこの図書室の利用数は極めて少ない。市立図書館の方は自習室が混み合うことが多いので、それを嫌う生徒が何人か利用するくらいだ。
 しんと静まり返った室内に、運動部のかけ声が聞こえてくる。最後の一冊を戻すと、雨音は何気なく窓の外に視線をやった。
「あ……」
 思わず小さく声が漏れた。校門に向かって歩くふたり組の男子生徒は、凪と、同じクラスの奥田和也だ。
 不意に、友人が昼休みに放った言葉が頭の中に蘇った。美雪は何故、唐突にあんなことを言い出したのだろう。和也と談笑している凪の後ろ姿を見やりながら、雨音はひとりごつ。
 答が出ないまま、ふたりの背中が校門の向こうに消えて行くのをぼんやり見送ると、彼女はカウンターへと戻って行った。



「お、何調べてるんだ?」
 夕食後、クーラーのきいたリビングで雨音がパソコンを起動していると、いつもはアルバイトで家にいることの少ない兄の大輔が、背後からモニターを覗き込んできた。
「何でもいいじゃん」
「隠すってことは、怪しいサイトか?」
 雨音が適当にあしらうと、大輔は面白そうにからかってくる。
「お兄ちゃんと一緒にしないでよ」
「何だと、失礼な妹だな」
 自分から言い出したくせに、一体どちらが失礼なのかと雨音は兄を睨んだ。

「レン? ミカゼ? なんじゃこりゃ」
 雨音の視線をさらりと無視し、大輔はパソコンの画面に打ち込まれている単語を読み上げる。マイペースな兄に向かって盛大に溜息を吐くと、雨音は仕方なく説明した。
「おばあちゃんが昔、わたしに読んでくれていた物話の主人公の名前。どうしてもその話のことが気になって」
「ふうん。で、何かわかったのか?」
 そう言いながら、大輔がマウスを奪ってクリックさせる。
「ううん。全然ヒットしないんだよね……」
「それは、雨音が登場人物の名前を間違って覚えているからじゃないのか?」
「やっぱりそうかなあ。ねえ、お兄ちゃんは本当にあの話覚えていないの?」
 そう言うと、雨音は兄の顔を見上げた。

「だってそれ、女の子向けの話だろう。ばあちゃんも俺には聞かせないさ。そうだ、悦子なら知ってるんじゃないか?」
 大輔が名案だとばかりに、ぽんと手を打つ。
「前にえっちゃんにも聞いたけど、知らないって」
 三歳年上の従姉は幼い頃、祖母のいるこの家によく遊びに来て雨音のことを可愛がってくれた。けれども、彼女もそんな話を祖母から聞かされた記憶はないと言うのだ。
「俺も悦子も大して興味を示さなかったけど、雨音だけがその話を気に入って、何度もばあちゃんに聞かせてくれとせがんだってことかな」
「うーん、たぶんそうだよね」
 昔、親戚が集まった時にも聞いてみたことがあるのだが誰も覚えておらず、それしか考えられないなと、雨音自身も大輔が今言った結論に辿り着いている。
「それか、ばあちゃんが雨音にだけ聞かせたか」
「え、どういうこと?」
 予想もしなかった兄の仮説に、雨音は驚いたように目を瞬いた。
「ばあちゃんが、雨音を一等可愛がっていたってことさ」
 少し目を細めて、大輔が懐かしそうに笑う。
「それはないよ。確かにわたしはおばあちゃんっ子だったけど、でも、おばあちゃんはみんなに優しかったじゃん」
「ああ、それはそうだよ。俺たち孫はみんなばあちゃんに可愛がってもらった。でも、その中でも雨音のことは特別可愛がっていたような気がするんだ」
 兄の発言に、雨音は軽く混乱した。雨音の記憶の中の祖母は誰にでも優しく平等で、ひとりにだけ特別といったことが想像できないのだ。
「まあ、今となっては知る術もないけどな」
 そう言って雨音の頭をぽんと叩くと、風呂でも入るかと呟きながら大輔は浴室に向かって行った。

 いきなり兄は、何を言い出すのだろうか。カーソルを合わせて先程打ち込んだ文字をデリートしながら、雨音は呆れたように苦笑を浮かべた。突拍子もない大輔の発言に一瞬驚いたけれど、よくよく考えてみればあの祖母に限ってそれはありえないのだ。
(でもなあ……)
 キーボードの上で手を止める。ひとつもそれらしいものにヒットしないのは、一体どういうことだろうか。
 やはり自分が間違って覚えていたのかと、祖母の声をもう一度耳の奥に蘇らせてみる。確かに記憶の中の祖母は、“レン”と“ミカゼ”と言っていた。自分が大好きな話で、何度もせがんでいた話なのだから記憶違いはないと思う。
 けれど、もしも祖母が間違えていたら……?

 実際、祖母は本を読み聞かせてくれていたわけではない。最初の頃は本を開いていたような気もするが、あまりにも頻繁に雨音がせがむので、いつもその場で話し出してくれたのだ。その語り口がいつも同じだったから、きっとそらで暗記していたのだろう。
 しかし、祖母が誤った名前を正しいと思い込んだまま、ずっと語っていたら。もしくは、本によっては人名の読み方の表記が変わる場合があるから、そういったことも考えられるのではないだろうか。
「ああ、もう! 考え出したらキリがないな」
 押入れの奥からあの本が出てきたらなあと、雨音は溜息をつく。中学生の頃に家中を探してみたけれど、結局見つからなかった。母に尋ねてみても、本当に存在していたのかどうかさえわからなかったのだ。ただ、絵本類は親戚に相次いで子供が生まれた時に譲ったらしく、いとこのうちのどこかへ渡っていったのだろうということであった。

 とりあえず雨音は思いつくキーワードを手当たり次第に入れてみようと決め、手始めに“レン”と“童話”を入力してみた。しかし、まったく関係なさそうなものばかりがヒットする。次は“童話”を“絵本”に変えてみる。やはりそれらしきものは出てこない。“レン”を“ミカゼ”に変えて同様に検索してみたが、結果は同じだった。
「もう、何で出てこないのよ!」
 一縷の望みを込めて、今度は“レン”と“水”で調べてみた。
「やっぱり駄目か」
 小さく溜息をつく。もう無理だろうなと諦め半分で、“ミカゼ”と“風”でも検索してみる。
「あ……!」
 画面をスクロールしながら目を走らせていた雨音が、小さく声をあげた。心臓が、とくりと鳴った。

 雨音の検索に引っかかったのは、どうやら歴史を研究している大学院生のサイトのようだった。洗練されたサイトデザインに似つかわしくなく、何と古代日本には自然を操る力を持った一族がいたという持論を熱く展開していた。
 まさかと、雨音は呆れた声を漏らす。あまりにも奇想天外な意見を大真面目に語っているのについていけず、とりあえずミカゼに関してだけ調べようと、スクロールしながら流し読みしていった。ふと、とある箇所でマウスを持った右手が止まる。
「嘘……」
 思わず小さく掠れた声が零れた。



 古来、不思議な力を持つ一族が日本各地に存在した。巫女などもその類で、神に仕える者として人々は彼らを崇め、また彼らは雨乞いなどを行い人々の為にその不思議な力を使った。
 自然と共存していた時代は少なからず皆、不思議な力を身につけていたが、道具に頼ることを覚え、その力は限られた者たちだけが持つようになる。すると力を持たざる人々は彼らを畏怖し排除するようになり、やがて人里離れた森や山の奥に一族でひっそりと住まうようになった。
 しかし、彼らの力を利用しようとする者もまた存在した。権力を手にする為に、戦で彼らの力を借りて戦ってきたのだ。彼らの中にも逆に権力者を利用し、陰で政を操ろうと画策していた者たちも少なからず存在していた。つまり、歴史の表舞台には登場しないが、常に戦には彼らの力が作用し、都には様々な思惑と力が渦巻いていたのだ。



 雨音は先を急ぐように目を走らせ、次のページをクリックして開いた。


 歴史の中で時として重要な役割を果たした彼らが、まったく史実に残っていないのは一体どういうことだろうか。それは彼らが、文書を一切残さない文化を持っていたからである。
 無論、彼らも仮名文字や漢字を駆使する教養は兼ね備えていた。けれども人々から排除されてきた歴史を持つ彼らは、他者に力を悪用されたり侵害されることを恐れ、その力についての詳細を一切公にしない為に、一族の儀式や決まりごとに関するすべては口承で伝えられていったのである。彼らの力を利用した権力者側もその存在を隠蔽することを望んだ為に、歴史書に彼らのことが記載されることはなく、歴史上彼らの存在はないものとされて今に至るのである。
 しかしながら、まったく彼らの存在を示す書物が残っていないのかと言えば、そうではない。だからこそ、我々が彼らの存在を知り得るのだ。次に挙げるのは、室町時代の地方の役人の日記である。その役人は風を操る一族と交流を持ち、彼らの文化や歴史について色々と調べていたようである。



 その文章の下にボタンがあり、それをクリックすると、その役人が記したと思われる日記の原文が載っていた。雨音にはおおまかにさえ意味を掴むことができず、とりあえずその下に記載されている現代語訳に目を通す。


 宇美の東に広がる森の奥には、風を操る一族がいた。その長の名は千風(チカゼ)と言い、その嫡男は弥風(ミカゼ)と言った。
 彼らは多くの書物を読み、森の奥にいながら都のことについてもよく知っていた。古の時代、彼らの祖先は海の近くに住み、船乗りが安全に航海できるよう風を送っていたらしい。しかし数々の戦で村を追われ、森の奥に居を構えることになったのである。




「ミカゼ……」
 無意識のうちに、雨音は画面に手を伸ばし、弥風という文字を指でなぞった。
 “ミカゼ”は“弥風”という漢字を書き、実在の人物だったのかも知れないのだ。予想もしなかった展開に雨音の掌はじっとりと汗ばみ、鼓動がどんどん早くなってゆく。
 ――ならば、レンも実在していたのだろうか?

 専門的な知識を持たない雨音には、このサイトの管理人が示す文献の信憑性を見極める術はなく、ミカゼが実在していたと言われても俄かに信じることはできない。しかし、もし仮にそれが真実ならば、レンも実在していたことになるだろう。
 だが、それよりも雨音は別のことが気にかかった。祖母は一体、どこでこの話を知ったのだろうか。
 どうやら雨音が幼い頃に祖母から聞かされた話は、童話などではなさそうだ。ならば、祖母が生まれ育ったこの辺りの土地に伝わる民話か何かだろうか。レンについては何も触れられていないが、このサイトの管理人なら何か知っているだろうか。

「雨音、明日も学校でしょう。いい加減に寝なさい」
 不意に背後からかけられた母の声に、びくりと我に返る。画面右下の時計を見やると、間もなく日付を越えようとしていた。もっと調べたい気持ちでいっぱいだったが平日なのでそういうわけにもいかず、雨音はとりあえずこのページをお気に入り登録し、慌ててパソコンをシャットダウンした。



2010/10/05

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