雨の記憶
01. 誰も知らない物語
水曜日の午後の教室はいつも気だるい空気が漂っていると、澤田雨音は思う。
週の前半はそれなりにやる気が溢れ、週の後半は休みが見えてきてテンションが上がってくる。けれども週の真ん中の水曜日は、まだ一週間も半分かというネガティブな気持ちしか湧いてこないのだ。
「あーもう、何でよりによって水曜の五限と六限が家庭科なのよ」
弁当を食べ終わると、坂本美雪が口を尖らせた。毎週水曜日の恒例行事だ。
「ただでさえだるい水曜日の、しかも眠気を誘う午後の授業が家庭科なんて、何かの修行としか思えないわ」
大袈裟に頷きながら、手嶋智子も同調する。
「確かに。調理実習とか被服実習とかなら全然オッケーなんだけど、家庭科の講義は睡魔との戦いになるよね」
雨音もふたりに同意した。
「夏休み前にずっと栄養学やってたじゃん。午前中に体育の授業があって疲れているし、お昼食べたばっかりでお腹はいっぱいだし、栄養素とかそんなのどうでもいいわとか思ってしまって。一応板書とってるんだけど、自分で自分の字が読めないんだよね」
そう言いながら、美雪がおもむろに机の中から家庭科のノートを取り出す。
「うわ、これ何語!? まったく解読不可能なんだけど」
「わたしも人のこと言えないけど、これはちょっとひどすぎるわ」
美雪が開いたノートを覗き込んだ智子と雨音が、ふたり同時に吹き出した。
「だって、林女史がアルファ波を出すんだもん」
自分にはまったく非がないという風情で、美雪は口を尖らせる。家庭科教諭らしい真面目さを漂わせる林の声は抑揚がなく、ただでさえ眠気を誘う午後の授業に何とも耐えがたい試練の時間を与えるのだ。
「栄養学もだるいけど、保育の講義も眠いよねえ」
昼休みのまったりとした空気の中で、食後のヨーグルトの蓋を開けながら雨音が呟いた。長い夏休みが明けて二週間。暑さと休みボケで、未だ教室の中はだらりと緊張感に欠けた雰囲気が漂っている。
「そうだ、今日は子供の頃に読んだ本の内容を発表するんだよね」
「げ、忘れてた。智子は何読んでた?」
「カギっ子だったから、カギっ子のところに来てくれる不思議なおばあさんの話とか好きだったなあ」
「それ、わたしも読んでた!」
「本当に? 真似しないでよ」
智子が疑わしそうな目で美雪を見やる。
「本当だって。お姉ちゃんが好きだったから、シリーズの殆どがうちにあったもん。あと、もうちょっと大きくなって読んだクレヨンの国の話とか小人の国の話とかも好きだった」
「ああ、あったねえ。雨音は何読んでたの?」
「え、わたし?」
急に話を向けられた雨音は、少し驚いたようにヨーグルトを口に運ぶ手を止めた。
「本好きなんだから、小さい頃からいっぱい読んでたんじゃないの?」
「そうだよ図書委員」
図書委員はあんまり関係ないのではないかと思いながら、雨音は美雪の台詞に苦笑した。
「大好きな話はあるんだけど……」
そう言って、口ごもる。歯切れの悪い雨音に、勿体ぶるなとふたりの目が説明を促してくる。
「うーん。作者名もタイトルも、何もわからないんだよね」
「へえ、どんな話?」
美雪が興味津々と言った様子で尋ねてきた。記憶を手繰り寄せるように宙を見つめると、雨音はぽつりぽつりとあらすじを説明し始めた。
「昔、森の奥に水を操る一族と風を操る一族と火を操る一族がいて、それぞれ敵対してたのね。そんなある日、火の一族が戦いを仕掛けてきたの。それに対抗する為に水と風の一族は同盟を結び、その証としてそれぞれの姫と王子が政略結婚することを決めるの。でも実は、結婚の話が出る前にふたりは出会っていて、正体を知らずに恋に落ちていたのよ。政略結婚の話が出てふたりは悩むのだけれど、結局相手が自分の好きな人だとわかって幸せに暮らしましたっていう話」
「へえー、雨音のお気に入りは王子様とお姫様の話なんだ」
美雪が目を輝かせながら、身を乗り出してくる。
「わたしは聞いたことない話だなあ。それは絵本? それとも児童書?」
「それも覚えてないのよね。この話が大好きで、毎日おばあちゃんにせがんで読み聞かせてもらっていたのは覚えているんだけど」
「そんなに好きだったんだ?」
「うん。ちょっと切ないけど最後はハッピーエンドで、子供心にすごく主人公ふたりに憧れていたの。あと、おばあちゃんの口調が何とも優しくて、それもお気に入りになった理由かも知れないなあ。わたし、おばあちゃんっ子だったから」
そう言いながら、雨音は穏やかな祖母の語り口を思い出していた。
「登場人物の名前とかは覚えてる?」
「女の子がレンで、男の子がミカゼだったと思う」
「ふーん、わたしも知らないなあ。でもさ、その名前と何かキーワードを入れてネットで検索したら、すぐにタイトルや作者名を調べられるんじゃないの?」
美雪があっさりと言い放つ。
「おお、たまには美雪も冴えたこと言うじゃん」
「失礼な。わたしはいつも冴えたことしか言いません」
智子のからかいに、馬鹿にするなと頬を膨らませてみたものの、美雪の表情はまんざらでもない。
ふたりのやりとりを聞きながら、雨音は目から鱗が落ちたような気分だった。何故そんな簡単なことが、今まで思いつかなかったのだろうか。
雨音にとっては幼い頃からずっと特別な話で、でも家族に尋ねてみても誰も知らなくて。ずっと自分で読んでみたいと思っていたのに、いくらでも調べられる方法はあったのに、どうしてそれが思い浮かばなかったのだろう。
「早速帰ったら調べてみるよ」
今すぐにでも調べたい衝動にかられながら、雨音はふたりに笑顔を見せた。
「坂本さん、数学の山下先生が放課後職員室に来いって言ってたよ」
そのあと話題は新発売のチョコレートへと移り、俄かに女子三人のテンションが上がり始めた時、不意に後方から声がした。名前を呼ばれた美雪につられて雨音も振り返ると、クラスメイトの谷岡凪が教室の扉の近くから声をかけてきていた。
「えー、今日は早く帰ろうと思ってたのに」
凪の言葉に美雪は嫌そうに眉をひそめると、口を尖らせて不平を漏らした。
「俺に言わないでよ。たまたま廊下ですれ違った時に、伝言頼まれただけなんだからさ」
「この間の小テストの結果、悪かったんじゃないの?」
横から智子が楽しそうに口を挟む。
「失敬な! 山下は文化祭実行委員の担当だから、きっとそっち関係の話だよ」
そう言うと、ぺしりと家庭科のノートで智子の頭を叩いた。
「あ、谷岡くんありがとうね」
美雪がひらひらと手を振ると、おう、と片手を上げて、凪は教室後方にいる男子の輪の中に入って行った。
「はあー。やっぱ谷岡くん、カッコ良いよね」
「また始まった」
呆れたように美雪を見やると、智子はわざと大きく溜息をついた。
「だって勉強できるし、クールでとっつきにくいかと思ってたけど話しかけたら意外と喋りやすいし、優しいんだもん」
「まあ確かにそれは認めるけど、でもあんた彼氏いるじゃん」
「それはそれ。退屈な学校生活にトキメキがなかったら致命的だよ、ねえ雨音?」
「へ?」
急に話を振られて、雨音は思わず間抜けな声を発してしまった。
「ちょっと、全然わたしの話聞いてなかったでしょう?」
「ちゃんと聞いてたよ」
「じゃあ、雨音は同意してくれるよね」
「え、何に?」
「高校生活にトキメキは、必須アイテムだってことに」
大真面目な美雪の台詞に、雨音は堪え切れず吹き出してしまう。
「ちょっと何よ、その馬鹿にしたような笑いは。てゆうかさ、わたし雨音と谷岡くんってお似合いだと思うんだけどなあ」
「なっ、美雪ってば何言ってるのよ!? わたし、殆ど喋ったこともないんだよ」
美雪の予期せぬ発言に、思わず雨音の声のボリュームが上がる。発した声の大きさに自分で驚いて、凪の耳に入らないように慌てて声をひそめた。
「同じクラスなんだし、話しかけたらいいじゃん。こっちから声をかけたら、色々喋ってくれるよ」
「まあ、雨音はあんまり自分から男子と話すタイプじゃないからね」
智子が苦笑まじりに助け舟を出してくれた。
「そういうところも似てると思うのよ。上手く言えないけど、雨音と谷岡くんには同じ空気を感じるんだもん」
尚も美雪が食い下がる。
「そんなことないよ」
雨音は軽く笑った。その瞬間、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
結局そこで話は終わり、三人はそれぞれの席に戻って行った。やがて五限の始まりを告げるチャイムの音と同時に教室前方の扉が開き、厳しい残暑にも関わらず紺色のスーツをきっちりと身に纏った林が入って来た。
(そんなこと、ありえないのに……)
窓際の席に座る凪の後ろ姿にそっと視線をやると、雨音は心の内で自嘲気味に呟いた。
2010/10/03