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の記憶



03. 教室の中の距離


 女子高生の昼休みの会話はとりとめがない。恋愛の話、テレビの話、漫画の話……。
 興味の向くまま気の向くまま、目まぐるしく話題を変えながら会話を楽しんでいる。

「雨音ちゃん」
 雨音が智子と美雪と昨晩観たドラマの展開で盛り上がっていると、不意に背後から名前を呼ばれた。振り返ると、隣のクラスで、同じ中学出身の矢野千春が立っていた。
 千春とは中学時代一度も同じクラスになったことはなく、共通の友人もいなかった為に言葉を交わしたことはなかったが、この高校を志望したのが女子ではふたりだけだったので受験を機に親しくなったのだ。
「千春ちゃん、いらっしゃい」
 そう言いながら、雨音は机の上に広げていたチョコレートの箱を差し出す。千春は歓声を上げると、一粒つまんで口の中に放り込んだ。
「実は、雨音ちゃんにお願いがあるんだけど」
 ゆっくりチョコを味わったあと、やがて神妙な顔つきで千春が切り出した。
「どうしたの?」
「あのね。ものすごく申し訳ないんだけど、今日の図書委員の当番を変わって欲しいの」
 そう言って顔の前で手を合わせ、拝むような格好でお願いしますと頭を下げた。あみだくじで負けたと言う千春もまた、雨音と同じく図書委員なのだ。

「別にいいよ。今日は何も予定ないし」
「うわーん、雨音ちゃんありがとう! 来週の水曜は、わたしが雨音ちゃんの当番変わるからね」
「いいよいいよ。水曜は料理部の活動日でしょ? わたしはクラブ入ってないし、いつも暇だからさ」
 実際、部活などで当番を担当できない者もいて、そのあたりは色々と取引が交わされている。学食の食券やテスト前のノートなど、様々なものを当番の対価とし、そういった交渉が第一回目の委員会で互いに取り交わされるのだ。
「雨音ちゃんラブ! じゃあ今度、お礼にクッキー焼いてくるからね」
「やったー、楽しみにしてる」
 お菓子作りが趣味の千春に何度かクッキーをもらったことがあるが、店で買うものと遜色ないくらい美味しいのだ。千春はもう一度雨音に礼を言うと、次は移動教室だからと慌てて戻って行った。


「うーん、やっぱわかんないな……」
 黄色く焼けた本のページをパラパラと捲りながら、雨音は溜息まじりにひとりごちた。放課後の図書室で歴史の本を数冊カウンターに持ち込み、室町時代の記述に目を走らせているのだ。昨晩見つけたサイトの主張について調べてみようと思ったのだが、高校の図書室では蔵書が少なく、手がかりになりそうな本は見当たらない。そもそもテーマがマニアック過ぎて、どうやって調べたら良いのか皆目見当がつかなかった。
 直接あのサイトの管理人に、コンタクトをとってみようか……。
 ふとそう思った。サイトに管理人のメールアドレスが載っていたのは確認済みだ。一番手っ取り早い方法ではあるけれど、見ず知らずの人にいきなりメールで質問することに雨音は強いためらいをおぼえていた。

 雨音が本のページを捲りながら考え込んでいると、前触れもなくガラリと扉が開いた。
 条件反射で扉に視線をやる。その瞬間、あっと小さく声が漏れた。雨音の視線の先の人物も、彼女と同様に驚いた表情を見せていた。きっと、雨音がいるとは微塵も思っていなかったのだろう。

 不意に図書室に現れた凪は、気まずそうに会釈するとカウンターから一番遠い席に腰を下ろした。雨音もぎこちなく頭を下げる。
 小さく息を吸った。図書室の空気が、急に薄くなった気がした。ただの顔見知りくらいならいっそ気づかないふりもできるけど、同じクラスとなるとそういうわけにもいかない。教室の外で親しくないクラスメイトと接触することほど、気まずいものはないのだ。
 雨音は開いていた歴史の本を閉じ、足元に置いてある鞄から英語の教科書とノートを取り出した。いつもの当番の日と同様に、今日もカウンターで予習を済ませることにする。しかし手元の英単語は頭の中を素通りし、ただの記号と化していた。ちらりと凪を盗み見ると、ノートを開いて何かを書いている。
(はじめてちゃんと目が合ったな……)
 再び教科書に視線を落とすと、雨音はぼんやりとそう思った。



「雨音ちゃん、昨日はごめんね」
 翌日の体育の授業中に、千春が雨音のもとに寄って来た。体育の授業は、雨音のクラスと千春のクラスの合同で行われる。
「いいよ、気にしないで。どうせ帰ってもだらだらしてるだけだし」
「急用だったから、本当に助かったよ。週末にクッキー焼く予定だから、月曜日に持って来るね」
「やったあ、楽しみにしてる」
 今日の授業はバレーボールで、運動場のコート二面を使用して試合をしてるのだが、現在雨音と千春はボール拾いだ。男子はグラウンドの反対側でハードルをしている。足首を回しながら順番を待っている凪の姿が視界に入ると、雨音は慌てて目を逸らした。

「ねえ、千春ちゃん」
「何?」
 ボールの行方に視線を送りながら、千春が答える。朝晩はようやく涼しくなってきたが、昼間の日差しはまだ強い。体操服から伸びる腕を、太陽の光がじりじりと焦がしていた。
「あのさ……」
 雨音は言い淀んだ。
「どうしたの?」
 千春が振り返る。雨音は曖昧に笑った。
「いや、大したことじゃないんだけど、千春ちゃんが当番の木曜日って図書室を利用する人多いのかなと思って」
「もしかして昨日忙しかった?」
「違う違う、殆ど誰も来なかった」
 焦る千春に、雨音は慌てて否定した。
「そうじゃなくてさ、わたしが当番の日は来る人が殆ど決まってるから、千春ちゃんの日もそうなのかなあと思っただけ」
 ああ、と安心したように千春が笑う。
「木曜も同じだよ。三年の眼鏡の先輩は毎週来て、いつもかりかり勉強してる」
「ああ、学年トップの人だよね。水曜も毎週来るよ」
「たぶん毎日来てるんだろうね。あとは文芸部の人がたまにまとめて借りに来るかな」
「そっか」

 他には、と雨音が聞こうと思った瞬間、誰かが打ったサーブが大きく逸れた。慌てて千春が追いかける。コートへボールを返すと、千春は小走りで再び雨音のもとへ戻って来た。けれども何となく元の話題へ戻すのが不自然な気がして、雨音は出かかった言葉を飲み込んだ。
「あ、そうだ」
 ふと思い出したように、千春が声をあげる。
「雨音ちゃんのクラスの人もよく来るよ。谷なんとかっていう、あの女子に人気のカッコいい人」
「えっ?」
 千春の不意打ちの発言に、雨音の声は小さく裏返った。
「ああ、谷岡くんね。確かに昨日も来てたけど、毎週来てるんだね」
 何気ない風を装って、雨音はさらりと返した。
「そうそう、谷岡くんだ。うちのクラスの女子も、谷岡くん狙いの子いるみたいだよ」
 そう言う千春はあまり凪には興味がないようで、周囲の女子の様子を観察して楽しんでいる風情だ。
「へえ……」
 雨音は相槌を打ったが、千春の言葉の最後の方は頭の中に入っていなかった。


「ねえ美雪、智子は?」
 ホームルームが終わると、雨音はそそくさとノートや教科書を鞄につめて美雪に声をかけた。
「日直だから、さっき集めた古典のノートを職員室に持って行ったよ。谷岡くんと一緒に行ったんだよ、智子め」
 羨ましそうに美雪が口を尖らせる。そんなの同じ日直なんだから仕方ないじゃんと、雨音は呆れたように笑った。
「じゃあ、わたし先帰るね。智子に言っといて」
 自転車通学の雨音は、電車通学のふたりとは登下校は別だ。
「オッケー。じゃあね、バイバイ」
「バイバイ、また来週」
 美雪や他のクラスメイトたちに手を振り、雨音は教室を出た。

「雨音、帰るの?」
 扉を閉めた瞬間、背後から声をかけられる。振り返ると、職員室から戻って来た智子と凪が立っていた。
「あ、うん、ちょっと用事あるから」
 そんなものないのに、何故か雨音は小さな嘘をついていた。ただ訳もなく、早くこの場から逃れたかった。
「そっか。じゃあ、また月曜にね」
「バイバイ」
 そう言って手を振ると、雨音は足早に廊下を進み階段を下りた。智子と言葉を交わしている間に、凪はさっさと教室の中へ入っていた。



2010/10/11

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