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の居る場所



 寒昴の章  玖


 先日、正体不明の男たちに襲われかけた蝶子であったが、けれどもその後は淡々と日常が繰り返されていた。 逃げた男の行方は未だ知れぬ為、城の外に出ることは控えてはいるものの、もともとそれほど頻繁に外出していたわけではないので殆ど影響はない。 唯一の変化は、これまで会わぬ日の方が多かった夫と、あの日から三日連続で顔を合わせていること。ただそれだけだ。


 冬の夜は、まるで世界のすべてから隔離されたかのように静かだ。そんな静寂の中、油皿に灯された小さな火が仄かに照らす部屋の中で、蝶子は伊織と向き合っていた。
「今日は母上が見えられていたそうだな」
 熱い茶をひと口飲むと、伊織はいつもの穏やかな声でそう問うた。
「はい。わたくしを気遣って、わざわざお越し下さりました」
「姫は余程、母に気に入られているようだ。姫と会えさえすれば、息子のことなどどうでも良いらしい」
 珍しくそのような軽口を叩くと、まなじりを下げた。昼間に雪寿尼が蝶子を訪れた際ちょうど伊織は家臣らとの評議に入っていたのだが、母親はそれが終わるのを待つこともなくさっさと帰ってしまったのだ。 小さく否定をしてみるも、どうせ先日会ったばかりだから息子の顔など見ずとも良いなどと言って、あっさり帰ったのであろうと言い当てられる。 実際にそのとおりだったから思わず口ごもると、蝶子の困ったような顔を見て伊織はくっと声を出して笑った。
 そのような表情は見せないで欲しい。思わず蝶子は夫から視線を逸らした。どうしようもなく顔が赤らんでくるのを感じて、己の想いが伝わってしまうのではないかと恐ろしくなった。
「どうかされたか?」
 そんな蝶子の不自然な様子に、伊織は心配げな表情を浮かべながらそう尋ねてくる。
「いえ、何でもございませぬ」
 何でもないことなどありえないのに、蝶子は作り笑いでごまかした。 いつも表情を変えない伊織がどこか嬉しそうに見えるのは、間もなく形ばかりの妻を穂積国に帰し、愛する瑠璃を正室として迎え入れるからであろうか。 伊織が己を気遣って訪れてくれるのは嬉しかったけれど、同時にとても辛かった。

 あの日、寺まで妻を迎えに来てくれた伊織は、怯える蝶子を優しく抱き締めてくれた。伊織のもとに嫁いで既に半年が過ぎたが、夫に触れられたのは野分の時と先日の二回だけだ。 野分の際は風雨の中を帰還した夫の行動があまりにも予想外で、蝶子はただただ驚くばかりであった。けれどものちに熱があったことを知り、きっと意識が朦朧としていたのだと己を納得させた。 二度目の今回は蝶子を落ち着かせる為の行為であり、それは夫としてというよりも、人としての情であると思っている。 そう己に言い聞かせねば、政略結婚である筈なのに蝶子は伊織の愛情を求めてしまいそうになるのだ。
 一度目の抱き潰すような強い抱擁も、二度目の包み込むように優しい抱擁も、どちらも蝶子を激しく動揺させた。体温が上がり、鼓動が早まり、呼吸が苦しくなる。 初夜を迎える前、あれほど夫に触れられることを嫌悪していた筈なのに、今はその温もりに包まれたいとそう願っているのだ。

 蝶子は己に触れようとしない伊織に対し、はじめは心の底から安堵した。けれどもやがて、虚しさが襲ってくる。 はるばる隣国から嫁いで来たのに、自分は正妻である筈なのに、指先にすら触れられることはない。 嫁ぐ前から戦を終わらせる為の政略結婚だと理解してはいたが、ひとりで庭を眺めていると、己の存在とは何だろうという気持ちが湧き上がってくる。
 けれど、蝶子が傷ついていたのはそれだけが理由ではなかったのだ。そしてそのことを蝶子に気づかせたのは、伊織の従妹であり想い人でもある、瑠璃の存在であった。
「そう言えば、前に姫と植えた水仙はいつ頃花を咲かせるのか?」
 ふと思い出したように、伊織がそう尋ねてきた。
「まだもう少し先にございます」
 蝶子の答に楽しみだなと小さく呟くと、夫はゆっくりと立ち上がった。そうして音をたてながら板戸を開くと、庭を臨む縁側に立つ。 すっかり夜の帳がおり、濃藍の空の向こうには冴え冴えと星が煌いていた。
 もしかしたら自分は、あの時から夫に魅かれはじめていたのかも知れない。嫁いで来たばかりの頃、ふたりで茜色の空が夜の色に染まってゆくさまを眺めたことを蝶子はふと思い出した。 宵の口の空の色は染乃の色だと、それが己の一番好きな色だと、そう語った伊織のことがあの時から気になっていたのかも知れない。青白く輝く星を見上げる夫の横顔を、蝶子はそっと盗み見た。


 ――それだけ伊織があなたのことを大切に想うておるということです。

 姑は昼間この庭で、蝶子にそう告げた。
 雪寿尼が意図するところと意味合いは少し違うが、その言葉自体を否定するつもりはない。 なぜなら実際に、夫は七つ離れた年若い妻のことをいつも気遣ってくれているのだ。たまに部屋を訪れて穏やかな会話を楽しみ、外出したいと言えば腕の立つ護衛をつけてくれる。 何よりもこの庭を、彼女が愛する花々に満ちた庭を用意してくれていたことが、蝶子を大切にしてくれているという何よりの証だ。 微かな予感はあったものの、本当に夫が蝶子の為に花の咲く庭を用意してくれたと知って、心が震えぬ筈がない。嬉しくて嬉しくて、勘違いしてはならぬと己に言い聞かせることが難しいくらいに嬉しかった。
 けれど、何も蝶子だけが伊織に大切にされているわけではない。家臣のことも民のことも、彼は周りのすべてを大切にしていた。 そのような誠実な人だと分かったからこそ蝶子は伊織に魅かれたのだが、夫には瑠璃という想い人がいて、だから彼の優しさを特別なものと勘違いすると己が傷つくことになるのだ。

 伊織は母である雪寿尼にすら瑠璃への想いを明かしていないようで、何も知らぬ姑は蝶子に対し、もう少し我侭になりなさいとそう言ってくれた。 その言葉は嬉しかったけれど、蝶子が我侭を言ってしまえば伊織が苦しむことになる。国の為に婚姻を結んだ形だけの妻でなく、本物の妻にして欲しい。 そのような願いを口にするなど、到底できる筈がなかった。
 伊織のことだから、蝶子を穂積に帰そうとしているのも、蝶子が故郷へ戻った方が幸せになれるという思いからだろう。 己が瑠璃を迎え入れたいという気持ちからではなく、床に臥せっているという蝶子の父を思ってのことだろう。ならば彼女にできることは、その優しさを受け入れることだけであった。


「星が美しゅうございます」
 やがて蝶子は静かに立ち上がると、縁側に立つ夫の隣に並んだ。
「あれが昴だ」
「昴?」
 空気が凛と澄んでいる冬の夜空にはたくさんの星が見えているが、伊織が指さす方向に青白く瞬く六つの星の集まりがあった。
「統ばる星だから昴。ひとつにまとまって見える、あの星たちの名だ」
「統ばる星が昴……。まるでこの国のようでございますね」
「染乃が昴?」
 夫が教えくれた名前の由来に、蝶子はふと思いついたことをそのまま口にした。
「はい。六つの輝く星々は染乃の民で、昴のように美しく輝きながら国としてまとまっております。そして濃藍の夜空のように、美しい藍を生み出しているのでございます」
 六連星が美しくまとまって見えるのは、伊織という当主が国を上手く統べているからだ。我ながら美しい例えだと満足しながら、けれども蝶子は同時に寂しさをおぼえた。 なぜなら自分は、星たちのまとまりに加わることはできない。穂積の蝶はせいぜい庭の花から花へ飛び回るのが関の山で、夜空に輝く昴まで辿り着くことはできぬのだ。

「ならば姫は、中心で凛と輝く星であるな」
「え?」
 予想外の言葉に驚いて思わず夫を見上げると、予想以上に優しい視線がこちらに向けられていた。
「野分の際には誰よりも民の身を案じ、藍染について学びたいと言っては熱心に藍師のもとを訪れる。染乃を大切に思うてくれる姫の輝きに、我らは光を見出すことができたのだ」
 蝶子もあの星たちの中にいるというのか。言葉が見つからず、ただ白い息だけが漏れる。そんな蝶子を黙って見つめると、やがて伊織は遠慮がちに妻の手の指先に触れた。
「すっかり冷えてしまったな」
 そうひとりごちると、まるで熱を分け与えるように掌で包み込む。
「これ以上は風邪をひきそうだ。今宵の星見はここまでとしよう」
「……はい」
 本当はもう少しふたりで星を眺めていたかったが、さすがに上掛けを羽織っていても体の芯まで冷えている。蝶子が小さく頷くと、夫は握った手に力を込めた。
「姫、そなたに話がある」

 無言で伊織を見上げると、彼はそっと蝶子から手を離す。胸の奥がどくどくと音をたてるのを感じながら、蝶子は夫が板戸を閉める姿をぼんやりと眺めていた。 話とは一体何だろう。白々しくそう問うてみるも、答は分かりきっていた。穂積の父のもとに帰すと、そう言われるに違いないのだ。
「わたくしは、お屋形様にお渡ししたいものがございます」
 ならば最後にひとつだけ、小さな我侭を言ってみよう。蝶子は部屋の奥へ戻ると、行李の蓋をそっと開けた。
「私に渡したいもの?」
 蝶子の突然の申し出に、不思議そうに伊織が問いかけた。このようなものを渡すとあとで瑠璃が気を悪くするかも知れないが、別に他の誰かにやってくれても構わない。 ばたばたとしてすっかり渡す時機を逃し、そもそも渡すべきではないのかもと怖気づき始めていたが、今なら伊織の優しさに甘えてささやかな我侭を言える気がしていた。

「伊織、すまぬ。少し良いか?」
 夫に渡すべく蝶子が行李の中にあるその物に触れた瞬間、廊下を歩く荒々しい足音が聞こえてきた。蝶子の部屋の前で止まったかと思うと、虎之新が申し訳なさそうにそう呼びかけてきた。
「……」
「……」
 思わず蝶子と伊織は見つめ合う。当主が正室のもとを訪れているところに声をかけるとは、余程火急の用件なのであろう。蝶子は行李の蓋を閉じると、小さく微笑みながら伊織と向き合った。
「河合殿がお急ぎのようにございます」
「ああ」
 物言いたげな表情で妻をじっと見つめた伊織だったが、やがて勢い良く立ち上がった。
「また参る」
「はい、お待ちしております」
 短くそう告げると、伊織は襖を開けて出て行った。 ようやく覚悟を決めたのに渡すことのできなかったことは肩透かしをくらったような感じであったが、穂積へ帰ることについての宣告が先延ばしになったことは嬉しかった。 伊織の大きな手の感触が残る右の指先に触れると、蝶子はほっと大きく息を吐いた。



* * *   * * *   * * *



 蝶子ができれば顔を合わせたくないと思っている人物が登城して来たのは、翌日の午後のことであった。
「申し訳ござりませぬ。奥方様がお見えになるまで、何時まででもお待ちになると申される故……」
 目の前では、まだ幼い侍女が床に額をすりつけんばかりにして頭を下げ、細い声で何度も謝罪の言葉を繰り返している。面を上げさせると、あどけない顔が蒼白になっていた。
「瑠璃様にお会いいたします」
「奥方様……」
 脇に控えていた桔梗が思わず口を挟む。けれども蝶子はそれ以上何も言わせず、幼い侍女に向き合った。
「すぐに参ります故、そのままお待ちいただいて頂戴」
 侍女は微かにほっとしたような表情を見せると、もう一度深く頭を下げて退室して行った。

 突然訪ねて来た瑠璃は、対応した年若い侍女に蝶子への取次ぎを依頼した。 約束もなかった為に桔梗が一旦は断ったのだが、その旨を伝えたところ、ひどく立腹した瑠璃が侍女に威圧的に接したらしい。 すっかり怯えた侍女が再び桔梗のもとを訪れたのを聞いて、蝶子は瑠璃に会うことを承諾した。
「恐れながら、お会いになる必要はないかと存じます」
 蝶子の気持ちを察してくれているのだろうか。桔梗はそう気遣ってくれたが、当主の正室が苦手な相手という理由だけで面会を拒むわけにもゆかぬだろう。 けれども自室に招く気にだけはなれなくて、待たせている控えの間に蝶子が向かうことにした。夫が己の為に用意してくれた庭に夫と共に植えた水仙を、瑠璃の目に映したくはない。 それだけは、どうしても譲れなかった。


「単刀直入に申し上げます」
 久しぶりに会った瑠璃は相変わらず同い年とは思えぬ大人びた雰囲気を纏っており、蝶子は思わず萎縮しそうになる。 気持ちを奮い立たせるように凛と背筋を伸ばして向き合うと、高圧的にそう切り出された。
「両立しないもの双方を手に入れようとすることは、あまりにも傲慢だと思います」
「それは、どう意味にございますか?」
 瑠璃から伝わってくるのは蝶子に対する嫌悪だけで、言葉の意味はさっぱり理解できない。蝶子は瑠璃の真意を問うた。
「もちろん、地位と愛情のことにございますわ」
「……」
 けれどもその答は抽象的で、ますます意味が分からずに困惑する。そんな蝶子の表情を眺めながら、瑠璃は紅を引いた唇を歪めて意地悪く笑った。
「他の殿方のもとにお心がありながら、当主の正室の座も手放すつもりはないのでございましょう?」

「お言葉を慎んで下さりませ」
 感情を抑えるように毅然と告げた言葉は、けれども想像以上に低い声となって静かな部屋に響いた。
「あら、申し訳ございません。ご気分を害してしまいましたか?」
「瑠璃様が何をどう勘違いされていらっしゃるのか存じませぬが、今のお言葉は聞き捨てなりませぬ。どうぞ撤回下さりませ」
 この心は伊織のもとにあるというのに、決して報われないと分かっていながら伊織のもとにあるというのに、気持ちが他にあると疑われるとは何と皮肉なことだろうか。
「今更隠さなくとも良いではござりませぬか。城内の者は皆、蝶子様のお噂についてとうに聞き及んでおります」
「噂……?」
 掠れた声で、そう聞き返す。一体誰が何を噂しているというのだろうか。その内容を知れば絶対に傷つく予感はあったけれど、蝶子は聞き返さずにはいられなかった。
「城内の者は皆、蝶子様のお心が河合殿のもとにあることに気づいておりますよ」

 


2015/12/15 


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