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の居る場所



 寒昴の章  捌


「あら、蝶子さん」
 不意に呼びかけられた声に、蝶子の細い肩がびくりと跳ねた。長い廊下の端で佇んでいた彼女が振り向くと、そこには姑である雪寿尼の姿があった。
「雪寿尼様……?」
「ちょうど良かったわ。あなたのお部屋に案内してくださらない?」
 どうやら雪寿尼は到着したばかりのようで、蝶子への取次ぎを待つ為に控えの間に案内されるところであった。 蝶子は傍らに控えていた侍女に茶を準備するように伝えて、姑と共に自室へと向かった。


「雪寿尼様、本日はいかがされましたか?」
 自室に戻った蝶子は、雪寿尼と向き合って座ると遠慮がちにそう問うた。特に約束など交わしてはいなかったが、何か急ぎの用事でもあったのだろうか。
「当分は蝶子さんに寺まで来てもらうのは難しいでしょうから、わたくしが参ることにしました」
 雪寿尼の寺に向かう途中で蝶子が襲われたのは二日前のこと。 犯人の男は守之介が捕えたものの、隙をついて逃走してしまったらしい。姑は蝶子の様子を心配して訪れたのだろうが、この状況で城を訪れるのは危険だと蝶子は不安げな表情を見せた。
「雪寿尼様にお会いできるのは嬉しゅうございますが、犯人が捕まらぬ中を外出されるのは危険かと存じます」
「うふふ、心配してくれるのね。でも、わたくしのような出家した年寄りなど襲っても無意味ですから大丈夫ですよ」
 確かに蝶子に比べれば狙われる危険性は低いが、それでも事件からまだ二日しか経っていないのだ。心配する蝶子をよそに、雪寿尼はいつもの朗らかな笑顔で熱い茶をすすっていた。

「それより蝶子さんは大丈夫なの? 少し顔色が悪いようだけれど」
「わたくしは大丈夫でございます」
 雪寿尼の言葉に、蝶子はぎこちない笑みを浮かべた。
「桔梗はどこへ行ったのかしら。ちょっと呼んで来ましょうか」
「本当にわたくしは、あっ……」
 なかなか戻らない侍女を訝しがる姑の言葉に動揺した蝶子は、茶の入った湯呑みを倒してしまった。慌てて手近にあった布巾で畳を拭く。 茶を飲む気が失せて、空になった湯呑みに注ぎ足すことはしなかった。
「心配しなくても大丈夫。じきにあの男は捕まるわ」
 蝶子が逃げた男に脅えていると思ったのだろう。雪寿尼はまるで幼子に言い聞かせるように、蝶子の顔を覗き込んだ。
「それにあの守之介と申す者は、穂積でも腕が立つことで有名であったと聞いております。虎之新も捜索に加わっているようですし、彼らがすぐに捕えてくれますよ」

「雪寿尼様は、お屋形様がわたくしに守之介をつけて下さっていることをご存じでいらっしゃいましたか?」
 当然のことながら、守之介の存在はごく限られた者しか知らされていないようだが、雪寿尼は知っていたのだろうか。 蝶子が素朴な疑問を口にすると、彼女は微笑みながら首を横に振った。
「いいえ、わたくしは出家した身。すべては伊織に一任しており、あの子があなたの為に決めたことです」
「わたくしの為?」
「ええ、そうです」
 小さく聞き返した蝶子に対し、雪寿尼はそうきっぱりと断言した。本当はもっと状況は複雑で、伊織も守之介も互いの国を守る為に決断したことであろう。 けれども、蝶子の為というのも理由のひとつであることに間違いはないので、余計な口は挟まずに黙って姑の言葉に耳を傾けた。
「当初わたくしは、蝶子さんがひとりの侍女もつけずに輿入れすると聞いて反対しました。 蒼山家との信頼関係を築く為に父君である和孝殿が決められたと聞いても、年若い姫がその身ひとつで他国に嫁ぐ心細さはいかばかりかと気を揉んでおったのです」
「え?」
 続いた雪寿尼の言葉は予想外の内容で、蝶子は驚きのあまり思わず声を発した。
 最近は染乃での暮らしに慣れて忘れかけていたが、嫁いで来た当初、蝶子はずっと孤独であった。 対等な婚姻であれば侍女や付き人が従うのは当然のことであるが、蒼山家に嫁いだあとも蝶子に仕えたいと言ってくれた茜子の帯同は許されなかったのだ。 兄の仇である伊織は鬼のように冷酷で、気弱な父はその申し出をあっさり了承したのだと当時の蝶子はずっとそう信じていた。 けれども雪寿尼は、それは和孝の決断であると言う。確かに父は、蒼山家の人間になるのだから穂積の者を仕えさせるわけにはゆかぬと、そう蝶子に言い放った。 何よりも、伊織の人となりを知った今では夫がそのような要求をしたとは到底思えない。
 それならば、己は何故あんなにも強く伊織が決めたことであると信じていたのだろう。蝶子の心の奥には、じわじわと違和感が広がり始めていた。

 そんな蝶子をよそに、雪寿尼は言葉を繋ぐ。情を交えずあっけらかんと、己の息子である伊織のことを語っていた。
「敵国であった染乃と穂積が信頼を深めるのに、あなたがその身ひとつで来られたことはとても意義深いことでした。 可愛い娘にそのようなことを強いた和孝殿もさすがは穂積の当主、立派なお方と存じます。 なれどわたくしは、伊織はその申し出を断るべきだと申しました。そんなことをせずとも、これから信頼関係を結ぶ方法はいくらでもあるだろうとそう思っておったのです」
「雪寿尼様……」
「結局、あの馬鹿息子はわたくしの言うことを聞かずあなたに心細い思いをかけたけれど、どうやらあの子なりに何やら算段があったようね。 あなたの兄君の右腕であったという守之介が身分を隠してあなたを守っていたと知り、合点がゆきました」
 その口ぶりからして、雪寿尼は伊織と忠孝が和解を結ぼうとしていた顛末を知らぬようだ。けれども守之介の存在が明らかになり、彼女なりに何かを察したらしい。 さすがは前当主の正室だと、蝶子は心の内で舌を巻いた。そして想像以上に蝶子のことを案じてくれていたようで、何よりもそれがありがたかった。

「我が息子ながら、無口で何を考えているのか分からずにずっと案じておりましたが、あなたを大事に想うておることだけはよく分かり安堵しました」
 やがて、しみじみとした口調で雪寿尼がそう呟く。その言葉に、蝶子の頬が朱に染まった。
「いくら縁談を持ちかけてものらりくらりとかわしていたあの子が、紅野の姫君を嫁に迎えると聞いた時は驚いたものです。 先代が病で急逝して若くで家督を継いだせいか、伊織は年輩の家臣らに見くびられないよう常に領内を駆け回っていて。 その働きについてはあまり心配しておりませんでしたが、当主のもうひとつの務めである跡取りを育てることには無頓着で、そちらは大いに心配しておったのです。 母としては、民の幸せだけでなく己の幸せも考えて欲しいと思うておりましたが、女子を想う幸せにようやく気づいたようで安心しました」
 そう言って息子の嫁を見つめる雪寿尼の目は慈愛に満ちていて、いたたまれなくなった蝶子は俯いた。赤く染まった頬は、いつしか血の気が失せて青白くなっていた。
 確かに、姑が言うように己は夫に大切にされていると思う。父により茜子の帯同は許されなかったが、実は守之介にずっと見守られていた。 藍染について学びたいと言えば、自由に外出することを許され腕の立つ護衛をつけてくれた。蝶子が襲われた際には、伊織自らが寺まで迎えに来てくれた。 そして彼女が虚勢を張っていたことを見抜き、優しい言葉をかけてくれた。
 けれども、触れた手の温もりを誤解してはならない。夫の心の中には瑠璃が住んでいて、蝶子への優しさは政略結婚による夫としてのものであるのだ。

「蝶子さん?」
 俯いたままの蝶子に対し、雪寿尼が気遣わしげに声をかける。
「申し訳ござりませぬ」
 顔を上げることなく、蝶子は消え入る声で姑に詫びた。
「それは何に対しての謝罪かしら?」
 雪寿尼は、そう静かに問いかけた。
 先程、跡取りを育てることも当主の務めであると姑は語っていたが、蝶子にはそれを果たすことはできない。 けれどもその事実を告白するわけにもいかず、蝶子は唇を噛んだままそっと頭を下げるだけであった。きっとこの先、瑠璃が立派な跡取りを産むだろう。 己を慰める為にそう考えてみたが、その想像は蝶子の心を深く抉っただけであった。


 ――姫をそのまま父君のもとにお返ししようと思う。

 朝餉のあと蝶子は桔梗に確認したいことがあったのだが、侍女は片づけに出たままなかなか戻って来なかった。 ならば侍女頭に尋ねようと向かっていたところ、とある一室から桔梗の話し声が聞こえた。 誰かに呼び出されていたのか。そう納得してその場を離れようとした蝶子の耳に、聞き慣れた夫の低い声が聞こえてきた。
 盗み聞きなどはしたない。そう自分を諌めるも、己のことを話題にしているようでつい気になって耳をそばだててしまった。聞かなければ良かったと後悔しても、もう遅い。 床に臥している父の為に蝶子を穂積へ連れて行ってくれると聞いた時は心が弾んだが、すぐに奈落へと突き落とされた。形だけの妻としても、傍にいられるのはあと僅かであった。


 沈黙が落ちる部屋で、やがて雪寿尼が立ち上がった。お帰りになられるのか。そう思いながらそっと顔を上げると、姑は襖ではなく障子の方へ足を向けていた。
「蝶子さんのお庭、見せて下さる?」
 蝶子の方を振り返ると、雪寿尼はそう言って笑いかけた。その言葉に蝶子は慌てて立ち上がると、そっと障子を開いた。
「今日はいつかの約束を果たす為に、こちらへ参ったのですよ」
 興味深げに見渡すと、やがて雪寿尼は庭へと下りた。確かに姑は、蝶子がはじめて挨拶に訪れた際にこの庭を見せて欲しいと言っていた。 穂積と染乃の良さが両立することの素晴らしさを説いた雪寿尼の言葉を思い出しながら、蝶子は姑のあとに続いた。
 冬の庭は他の季節に比べて花が少ないが、それでも椿や山茶花が艶やかな紅や清廉な白で彩っている。 けれども以前、蝶子が伊織と植えた水仙はまだ開花の時期には早く、すらりと伸びた茎には蕾すらついていなかった。 もしかすると、水仙の花を見ることないかもしれないな。そう思うと蝶子の心は沈んだ。穂積へ発つ前に花が咲かなければ、もう目にすることはできないのだ。 伊織が植えてくれた花だから、せめて出発までに咲いて欲しい。心の内でそう祈るも、叶うかどうかは蝶子に知る由もなかった。

「蝶子さんは、この庭がお好き?」
 姑の問いに、沈んでいた蝶子ははたと我に返る。視線を上げると、椿の花の前で雪寿尼がじっとこちらを見つめていた。
「はい」
 そう即答すると、雪寿尼は嬉しそうに微笑んだ。好きなどという言葉では言い表せない。花を愛する蝶子にとって、花が溢れる穂積流の庭の存在には何度も心を慰められてきたのだ。 そこで蝶子は、ふと今のやりとりに既視感を覚えた。いつ誰と交わした会話であっただろうか。記憶を手繰ると脳裏に垂れ目の男の顔が浮かんできて、虎之新であったと思い出した。 夏の暑さで体調を崩した際に世話になり、それを機に会話を交わすようになった虎之新からも、今の雪寿尼と同じ質問をされたのだ。
 懐かしく思いながら、今は花をつけていない百日紅の木に視線をやる。そんな蝶子に対して、雪寿尼が静かに口を開いた。

  「この庭は、伊織が蝶子さんの為に用意したのよ」
 雪寿尼がそう告げた瞬間、冬の庭を木枯らしが吹き抜けた。落ち葉が乾いた音をたてながら、地面の上でくるくると舞っている。
「わたくしの、為?」
 呆然と立ち尽くす蝶子の口からは、白い息とともに掠れた声が漏れた。
 季節ごとに庭を彩る可憐な花々は、蝶子の為に植えられたというのか。確かにそれならばすべて合点がゆく。 花を愛でるよりも簡素なものの中に美を見出す染乃の、しかも城内に、花が溢れる庭が存在するということ。けれどもその庭を、先代の正室である雪寿尼は見たことがないということ。 虎之新も雪寿尼もこの庭が好きかと蝶子に問い、好きだと答えると満足げな表情を見せたこと。 蝶子を迎えるにあたり伊織が用意したとすれば、そのすべてに辻褄が合うのだ。
「何故ここまで……」
「それだけ伊織があなたのことを大切に想うておるということです」
 まるでひとりごとのように零れた問いを、雪寿尼がすかさず拾い上げる。けれども、その答にはまったく現実味がなかった。 蝶子が戸惑いの表情を浮かべると、姑は呆れたように大きな溜息をついた。
「あなたたち夫婦は一体何をしているの。あの朴念仁が悪いのでしょうが、蝶子さんも蝶子さんです。いつまでも遠慮し合っていないで、きちんと本音で会話をなさい」
 姑の突然の説教に慌てて頭を下げると、苦笑まじりの優しい言葉が振ってきた。
「あなたはもう少し自信を持ちなさい。そしてもう少し我儘になりなさい。正面からぶつからないと、本当のことは何も見えてこないのですよ」



* * *   * * *   * * *



「光宗からまだ連絡はないの!?」
 香が焚かれた部屋に、瑠璃の甲高い声が響いていた。苛立ちを隠すことなく問いかけてきた主に対し、侍女は怯えたように首を横に振る。 その様子をちらりと一瞥すると、瑠璃は乱暴に筆を置いた。

 数日前、瑠璃は父の門下生である篠田光宗との結婚を言い渡された。 けれども、幼い頃から従兄である伊織のもとに嫁ぐことだけを夢みてきた瑠璃にとって、それは到底受け入れることのできない話であった。 幸いにも幼い頃から瑠璃のことを知る光宗も彼女の気持ちを理解しており、願いは叶うと言ってくれた。 己は伊織の供として不在にするが三日間待って欲しいと、そう瑠璃に告げて出かけて行ったのだ。
 けれど、三日を過ぎても光宗からは音沙汰がない。あまりにもきっぱりと言い切ったから本当に願いが叶うのだと信じたのに、嘘だったというのか。 父もこのところ城に詰めたまま戻って来ず、放置されたままの瑠璃はもはや我慢の限界であった。

 ――紅野の姫が嫁いで来なければ、今頃は己が伊織の腕の中にいたというのに。
 そう歯噛みする瑠璃の中で、ふと黒い疑念が浮かんできた。もしかすると、光宗は何者かに邪魔をされたのではないだろうか。思い至った瞬間、瑠璃はそうに違いないと確信した。 そして同時に、あの日彼が瑠璃に語った噂話を思い出した。思い起こすだけで腹立たしい話だが、噂の主のふたりが光宗を阻止したとすれば辻褄が合う。 貧相な小娘のくせに権力と愛情の両方を手にしようとは、何と強欲な女であろうか。
 瑠璃は立ち上がると、勢いよく板戸を開けた。既に日は落ち、凍えるような空気が肌を刺す。明日、城に行こう。瑠璃はそう決心した。 伊織を救うことができるのも、あの女と対峙できるのも己だけだ。憎しみに燃える愚かな娘の頭上で、冬の星が冷ややかに瞬いていた。

 


2015/12/6 


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