乗り込んだタクシーの車内さえも、クリスマスの色に染まっていた。
カーラジオからはクリスマスソングが流れている。どうやらFM局の番組のようで、クリスマスにまつわるエピソードをリスナーに募集しており採用された人はリクエスト曲を流してもらえるらしい。
中学時代に流行ったドラマの主題歌が流れ始めたので果恵はちらりと隣に座る同級生を見やったが、彼は窓の外を眺めたままだった。
コーヒーショップを出た聡はすぐにタクシーをつかまえると、強引に果恵を乗せて自分も隣に乗り込んだ。
彼が運転手に伝えていた行き先は果恵が聞いたことのない地名で、彼女には自分たちが何処に向かっているのか皆目見当がつかない。
先程からずっと黙りこんでいる聡に声をかけるのも躊躇われ、彼女はそっと窓の外に視線をやった。
大通りの両脇に並ぶ街路樹には無数の電球がつけられ、タクシーで走るとまるで夜の闇にきらきらと光の川が流れているようだ。先程掴まれていた手首は既に解放され、彼の手はポケットの中にあった。
果恵はそっと自分の右の手首に触れてみる。思いのほか強く握られた感触が、今もまだ残っていた。
沈黙の中で音を絞ったカーラジオを流しながら、タクシーは夜の街を走り続けた。
標識に目を凝らしてみるものの、メジャーな場所以外の東京の地理に疎い果恵には、東西南北どちらへ向かっているのかさえ分からなかった。
―― 好きになる前のようには振る舞えないから、長い時間を一緒に過ごさない。
聡に会う前はそう心に誓っていた筈なのに、自分は一体何をしているのだろう。彼の婚約者に対して、微かな罪悪感が湧き起こる。
たとえ彼の方に気がなかったとしても、自分の婚約者を想っている女と一緒にいることを知れば不愉快になるだろう。果恵に気持ちがある以上、一緒の時間を過ごすべきではないと思っていた。
なのに、彼に気持ちを告げたあとも自分は彼とふたりきりでいる。拒もうと思えばいくらでも拒絶できたのに、強引にタクシーに乗せられたという体を装って隣にちゃっかり座っていた。
結局、果恵がもう少し聡と一緒にいたかったのだ。いつも穏やかな聡が見せた強引な一面に驚きつつ、まだ果恵が知らない彼の顔を知りたいと思っている。
綺麗ごとばかりを吐きながら、自分は何と諦めの悪い女なのだろうか。果恵は窓ガラスに映る自分の姿から、そっと目を逸らした。
「お客さん、そろそろだけどどの辺まで行きましょうか?」
三十分程走っていただろうか。赤信号で停車すると、それまで黙々とハンドルを握っていた運転手がおもむろに口を開いた。どうやら聡が告げた目的地に近いらしい。
「次の信号を左折するとすぐコンビニがあるので、その辺りで降ろして下さい」
聡が穏やかな声で淡々と運転手に指示を出す。結局、彼が何処へ果恵を連れて行こうとしているのか、最後まで彼女には分からなかった。
やがて聡が言った通りコンビニが見えてきて、タクシーはその前にゆっくりと停車した。ポケットから財布を取り出した聡が手早く精算を済ませ、慌てて果恵も彼のあとに続いてタクシーを降りる。
外に出た途端、凍えるような夜の空気に果恵は身を竦めた。
「こっち」
バタンと扉を閉めて走り去るタクシーをぼんやりと見送っていた果恵に、聡がようやく声をかけた。我に返って見渡すと、そこには大きなマンション群が建ち並んでいた。
温かそうな明かりが灯るそれらの建物のうちの一棟に向かって、聡が足早に歩き出した。
置いて行かれたくなくて慌ててヒールの音をたてながら聡の背中を追いかけた果恵だったが、やがてその靴音がぴたりと止まる。
「どうした? 寒いから早く中に入ろう」
果恵が立ち止まったことに気づいた聡が振り返り、そう声をかけた。けれども果恵の両足は、まるで冷たい地面に縫いつけられたかのように動かない。
足もとから這い上がってくる夜の冷気を感じながら、果恵は小さく声を震わせた。
「……帰る」
「え?」
「やっぱり帰る」
果恵は道路からエントランスまでのアプローチの脇にある広場を見やりながら、哀しそうに呟いた。そこには子供向けの遊具が備えられている。
反対側には駐輪場があり、ほの白い蛍光灯の下に何台もの小さな自転車が置かれているのが見えた。つまりこのマンションは、ファミリー向けなのだ。
果恵が住まう簡素なワンルームマンションと違い、聡が帰る建物には家族の温もりに満ちていた。
この場所が何処かは分からないが、タクシーをつかまえて最寄りの駅まで出よう。逃げるように踵を返した果恵の手首を、先程よりも更に強い力で聡が掴んだ。
「離して!」
自分は何故、こんな所までのこのこついて来たのだろう。連れて来た当人の真意は分からないが、あまりにも残酷な仕打ちにはじめて果恵は聡に対して負の感情を抱いた。
「ちゃんと諦めるから。幸せな景色をわざわざ見せてくれなくても、ちゃんと分かっているから!」
「分かってない!!」
半ば叫ぶように訴えながら、果恵は掴まれた手を振りほどこうともがいた。好きな人の幸せを願えるくらいには大人だから、これ以上惨めな気持ちにさせないで欲しい。
涙が零れるぎりぎりのところで唇を噛んで抵抗した果恵を、けれども聡が鋭く否定した。
「分かってない……」
もう一度、今度は力なく呟く。何を分かっていないと言うのだろうか。果恵は白い息を吐きながら、恐る恐る聡の顔を見上げた。
「説明する。だから一方的に気持ちを告げたまま逃げないで、俺の話も聞いて」
そう言われて、果恵はぴくりと固まった。そうなのだ。自分は言いたいことだけ告げてこれから気持ちを切り替えるなんて思っていたけれど、言われた方は色々抱えてしまうのだ。
ごめんなさい。消え入るような声でそう呟くと、謝らないでと言いながら聡は掴んでいた手を緩めた。
エントランスに入ると聡はオートロックを解錠し、エレベーターホールへと向かった。暗がりの中では分からなかったが、どうやらこのマンションは比較的新しいものの新築ではなさそうだ。
一階に停まっていたエレベーターに乗り込むと、聡が七階のボタンを押す。先程ぶつけあった激情が嘘のように、小さな箱の中でふたりは黙りこんでいた。
七階に到着してエレベーターを降りると、すぐ隣の家の窓の面格子にはビニール傘と子供用の小さな黄色の傘がかけられている。生活感が溢れる景色に、果恵の胸はちくりと痛んだ。
やがて先を歩いていた聡が、ひとつの扉の前で足を止めた。表札には‘筒井’とある。今度は先程よりも痛みが増した。
そんな果恵をよそに、ポケットから鍵を取り出した聡が扉を開く。ドアの向こう側には、しんと静まり返った夜の闇が広がっていた。
「どうぞ」
玄関の明かりをつけると、果恵を振り返って聡が中に入るよう促した。先程の聡からは彼が何かを果恵に伝えたがっていることが分かったが、本当について来て良かったのだろうか。
これから彼に聞かされる言葉を受け止める覚悟をした筈なのに、彼の新居を前に再び果恵は怖気づいた。
今は誰もいないようだが、既に婚約者と一緒に住んでいるのかこれから越して来るのかは別として、冷静に考えて果恵がこの家に足を踏み入れて良いとは思えない。
「……」
なかなか中に入ろうとしない果恵を、じっと聡が見つめていた。いや、違う。果恵は痛感した。婚約者への気遣いなんて建前で、本音は果恵がもうこれ以上痛みを感じたくないだけなのだ。
「佐々木さんを傷つけることはしないと誓うよ。佐々木さんの信頼を裏切りたくない」
そっと顔を上げると、真っ直ぐに聡の目が果恵を見つめていた。
―― きっと大丈夫だ。
聡が発したそのひと言に、果恵はそう確信した。恋人でもない男性の家を女性ひとりで訪れることは非常識かもしれないし、その男性に婚約者がいれば非難されるべきことだろう。だけど、彼は果恵を傷つけないと断言した。
何故か昔から、聡は決して間違ったことはしないと根拠なく信じていた果恵にとって、その言葉は充分すぎるくらい信用に足るものだった。
遠慮がちに足を踏み入れた聡の新居には、冬の夜の冷たい空気に満ちていた。
「すぐに温めるから」
そう言いながら、聡がヒーターの電源を入れる。彼のあとからおずおずとリビングに入った果恵は、そのまま寒さも忘れて固まってしまった。
「コーヒーで良い? さっき飲めなかったもんな」
コーヒーショップで聡が買ってくれたコーヒーはひと口も飲まないまま、もったいないことにゴミ箱行きとなってしまった。
聡は返事のない果恵を気にする風でもなく、やかんを火にかけてお湯を沸かし始めた。けれども、果恵の耳に聡の言葉は殆ど入っていなかった。それ程までに、この部屋には違和感があったのだ。
「どうぞ、適当に座って」
すぐ傍で声をかけられて、ようやく我に返る。聡は部屋の中央に置かれたテーブルの上にマグカップを置くと、自分はキッチンとリビングの間にあるカウンターの前のスツールに腰かけた。
一瞬戸惑ったものの、果恵は小さなテーブルの前にそっと腰を下ろした。
果恵が住む壁の薄いワンルームマンションとは異なり、さすがにファミリー向けマンションはさほど音が漏れてこない。しんと静まり返った空間に、ヒーターが部屋を温める微かな音だけが響いていた。
「ごめん。こんな所まで連れ込んで」
コーヒーをひと口啜ると、聡が決まり悪そうに呟いた。先程見せた強引さは嘘のように消え、果恵が知るいつもの穏やかな空気を纏っている。
「何から話そうか。佐々木さんが本音をぶつけてくれたから、俺も本音を晒さないといけないんだけど」
その言葉に果恵の表情が強張る。果恵の気持ちを流さずに受け止めようとしてくれるところが誠実な彼らしいところだけど、答は分かっているから流してくれて良いのになと卑怯な考えが頭をよぎった。
「そんな顔しないでよ」
果恵は自分がどんな顔をしているか分からないが、どちらにせよそういった顔をさせている張本人が言わないで欲しいと思う。
彼は先程の誓いを守るべく、リビングの中央に敷かれたラグの上に座っている果恵とは離れてカウンター脇に腰かけている。その距離は、果恵を裏切らないというよりも婚約者を裏切らないという何よりの証だった。
「先週末、久しぶりにホテル・ボヤージュに宿泊した」
話す内容を整理していたのだろうか。コーヒーを飲みながら黙って宙を見つめていた聡だったが、やがてゆっくりと語り始めた。
「目的はふたつ。春にオープンした支店の副支店長が俺と同期で仲が良かったから様子を見に行くのと、堤に会うことだ」
やはり堤と会っていたようだ。聡の説明に、果恵は小さく頷いた。
「堤とは、大学時代にバイト先で偶然再会したんだ。その話は聞いた?」
「うん」
「中学時代は出席番号が前後していたから関わりはあったけど、そこまで親しいわけじゃなかった。
でも、再会して意外と気が合うことが分かって、大学時代は結構一緒に過ごした。あいつが地元に帰って実家を継いでも連絡はとり続けていて、だから結婚式の招待客のリストには当然奴の名前も入っていた」
ずっと頷きながら聞いていたけれど、聡の口から結婚という単語が出た瞬間、果恵は固まってしまった。堤から聞いた時の衝撃もなかなかだったが、本人が発する単語の威力は覚悟していても堪えた。
「本当はもっと早くに、あいつにも伝えなければならなかったんだ。無駄に心配をかけたし、何よりも佐々木さんに誤解させた」
「え?」
誤解とは一体何のことだろう。今の話の流れに果恵は全く関わりがない筈なのに、突然名前を出されて戸惑ってしまう。
「堤に会いに行ったのは、俺の結婚が破談になったことを伝える為だよ」