夕方のコーヒーショップは、座席の殆どが埋まっていた。
果恵はカフェラテを注文すると、通りに面したカウンター席に腰かけた。店内はご多分に漏れずクリスマスソングが流れており、店の中央にはシンプルな白のツリーが飾られている。
どこかそわそわとした気持ちで腕時計を見やった果恵は、カフェラテをひと口飲んで気持ちを落ち着けた。
果恵がこの駅で降りたのは、今日がはじめてだ。フォーラムの会場は果恵の勤務先や自宅がある方向とは反対に位置し、これまで訪れる機会が無かったのだ。
職業柄、地理には精通していなければならないので主要エリアや観光スポットのアクセスは何とか覚えたが、こちらに越して来て日もまだ浅く、実際に訪れたことがある場所はごく僅かだ。
本当は休みの日に出かけて自分で実際に歩いて確かめなければならないのだが、起きたら昼過ぎということも珍しくないので実現できていない。
果恵は窓の外に広がる見慣れない街並みを眺めながら、そっと息を吐いた。
待ち合わせにこのコーヒーショップを指定したのは、果恵がこれから会う人物の方だ。
彼の退社時刻よりもフォーラムの終了時間が早かったので都合の良い場所まで出ると伝えたのだが、自分が向かうから駅前のコーヒーショップで待っているようにとメールに書かれていたのだ。
全国展開しているコーヒーショップは迷いようがないくらいに目立つ場所に位置しており、未だ大都会に慣れていない果恵は分かりやすい待ち合わせ場所に正直ほっとした。
あの日、菜乃花からの電話を切ったあと、果恵は携帯電話を握りしめたままぐずぐずと悩み続けていた。連絡をとりたい気持ちと、連絡するのが怖い気持ち。会いたい気持ちと、会うのが怖い気持ち。
相反する気持ちがないまぜになって、悩み疲れた果恵は半ばやけくそで短いメールを送った。
ホテル・ボヤージュを再度利用してくれたことに対するお礼を伝えたあと、東京へ異動しているという報告とそれを知らせなかった非礼を詫びる内容だ。
彼からの返信には、せっかく近くにいるのだから食事に行こうという誘い文句が書かれていた。彼には婚約者がいるのだから、上京して来た同級生に対する気遣いを誤解してはいけない。
ともすれば、喜びに弾みそうになる気持ちを果恵は必死で諌める。あれから時間が経っているし、さすがにもう彼は結婚しているかもしれないのだ。
果恵は努めて冷静を装って、この日なら早く仕事が終わると返信したのだった。
携帯電話を確認したり窓の外を見やったりと落ち着かない果恵は、ふと入口に視線を移したその瞬間、自分の心臓がとくりと跳ねるのを感じた。
紺のコートを着たその人が、テーブルの間を縫うようにこちらに向かって歩いて来る。果恵は急激に鼓動が速まるのを自覚しながら、密かに深呼吸するといつもの接客スマイルを貼り付けた。
「ごめん、遅くなった」
「ううん。わざわざこっちまで出て来てくれてありがとう」
コートを着たまま果恵の隣のスツールに浅く腰かけると、聡はいつもの穏やかな笑顔を見せた。カウンター席に隣合って座ると思いのほか距離が近く、果恵はこの席を選んだことを後悔した。
「久しぶりだね。まさか佐々木さんが東京に異動してるとは思わなかったからびっくりしたよ」
「連絡しなくてごめんなさい」
「そんなの気にしないで。きっとバタバタしていたんだろうし」
聡の優しい解釈に罪悪感を感じながらも、果恵は肯定も否定もせずにただ小さく頭を下げた。
「さてと、とりあえず出ようか。春に佐々木さんが旨い店に連れて行ってくれたから、今日は俺がおすすめの店を紹介するよ」
「ま、待って」
そう言って立ち上がろうとした聡を、果恵が慌てて呼び止めた。緊迫した果恵の声音に彼が不思議そうな表情を浮かべる。そんな聡に対し、果恵は一瞬の間をおいてからきっぱりと言い放った。
「ごめん。食事には行けない」
店内には相変わらずクリスマスソングが流れている。困惑している聡の顔を見れないまま、果恵は再度小さくごめんなさいと呟いた。
「急用でもできた?」
もう一度スツールに座り直した聡が、短く問いかける。
「ううん。でも、筒井くんとは食事に行けないの」
「何だか納得できないけど、コーヒーを飲むくらいなら大丈夫?」
発した言葉は明らかに疑問形だったけれど、聡は果恵が返事をするのを待たずに席を立ち、注文カウンターへと向かって行った。果恵はその後ろ姿を眺めながら、小さく息を吐いた。
食事に行こうと誘われた時から、果恵は行かないことに決めていた。伝えるべきことを伝えて、あとは真っ直ぐ家に帰る。
‘伝えるべきこと’ が何かはこの期に及んでまだ迷っているのだが、長い時間を一緒に過ごさないことだけは心に誓っていた。
「はい」
隣に気配が戻って来たと同時に、目の前に紙コップが置かれた。どうやら自分の分だけでなく、既にカフェラテを飲み終えていた果恵の分まで買って来てくれたらしい。
「ありがとう」
果恵がお礼の言葉を伝えると、聡はコートを脱ぎながら小さくうんと頷いた。
時刻は十九時を過ぎ、店内にいた人たちは飲みに行くのかひとりふたりと店を出て行く。満席近くまで埋まっていた客はまばらになり、果恵たちが座るカウンター席の周りには誰もいなくなっていた。
「あのさ……」
伝えなければと思いながらもどう切り出せば良いのか分からず、ふたりの間には重い沈黙が流れていた。やがて口を開いたのは、聡の方だった。
「今日誘ったこと、迷惑だった?」
眼鏡の奥の気遣うような瞳に、果恵は痛みをおぼえた。違う。思わず小さく叫び、首を左右に振った。
「じゃあ、何で?」
手元のコーヒーを呷ると、戸惑いを隠さずに聡は呟いた。嫌われただろうか。親切心で食事に誘ってくれたのに、こんな失礼な対応では嫌われて当然だろう。
「……好きだから」
店内に静かに流れるクリスマスソングに紛れて、やがて果恵は小さく呟いた。
「え?」
「筒井くんのことが好きだから、だからもう会えない」
どうせ嫌われるなら、自分の気持ちの全てをぶつけてしまおう。最後まで告白する気がなかった果恵だが、笑みを消してしまった聡の表情に覚悟を決めた。
「中学時代に尊敬していた人は、わたしが仕事で辛い時に頑張れる言葉をくれた。何気ないひと言が嬉しくて残業が続いても耐えることができた。でも、その人は遠くに住んでいるから好きになっても仕方がない。
そう気持ちに蓋をして、ずっと自分の想いに気づかないふりをしていた。そんな時に彼が近々結婚するということを聞いて、やっぱり絶対に諦めなきゃいけないって心に決めたの」
あれだけ悩んでいたのに、想いを伝える言葉は意外とすんなり出てきた。けれども、さすがに彼の目を見る勇気はない。果恵は聡が買ってくれたコーヒーを凝視したまま、一気に自分の気持ちを告げた。
「それは……」
「分かってる。筒井くんが見も知らぬ土地に転勤して来た同級生を気遣ってくれているだけだということは、ちゃんと分かっているから」
何かを言いかけた聡を制し、果恵は何度も大丈夫だと繰り返した。それは聡を安心させる為というよりも、自分自身に言い聞かせているようだった。
「でもやっぱり今は、自分の気持ちに気づく前のようには振る舞えないから。だから、ごめんなさい」
例えば、聡が結婚することを再会してすぐの頃に知っていれば、こんなに辛い気持ちを味わわなくて済んだのかもしれない。今更言っても仕方のないことを、つい恨みがましく考えてみる。
「中学の卒業式で、筒井くんがまたねと言ってくれたからまた会えた。今度また再会する時までには、筒井くんを尊敬していた元クラスメイトに戻るから。
新しい環境で新しい仕事を任せてもらって今は大変だけど、頑張っているねって見直してもらえるように努力するから」
果恵が東京への転勤を決意した一番の理由はそれだった。
いつも淡々と努力を続けてトップクラスの成績を修めていた中学時代のクラスメイト。彼に認められたいというのが、少女だった頃の果恵の目標だった。
そして大人になった今、あの頃の彼のように地道に頑張って、目をかけてくれた上司に応えられるようステップアップしてゆきたい。
そうしていつか今よりも年を重ね、もう一度再会できることがあるならば、大変だけどホテルの仕事が楽しいよって胸を張って伝えたい。それが、好きになった人と両想いになることが叶わない果恵の今の目標なのだ。
「佐々木さん……」
「だからいつか、今度は堤くんや郁も一緒に、昔の懐かしい話をしながら一緒に飲もうね」
春に一緒に飲んだ時のように、いつか懐かしい思い出話ができれば良い。そうなれるように今日ここで気持ちに区切りをつけるから、この恋心を昇華させる時間が欲しいと果恵は願った。
やがてコートと鞄を手に取ると、果恵は立ち上がった。今までずっと紙コップに視線を落としたままだったが、最後に勇気を出して顔を上げ、真っ直ぐに聡の目を見つめる。
当惑したような彼の視線を受け止めると、果恵は精一杯の笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、またね」
前回のまたねから今日までは予想外に短かったけれど、次のまたねはいつになるだろうか。相手がいる人に対して告白してしまった以上、もう会うことがない可能性の方が高い。
此処に来るまでは散々迷い躊躇していたけれど、果恵は想いを吐露したことを後悔していなかった。聡は迷惑だっただろうけど、告げて良かったと思う。姉の言う通り、これで果恵は前に進むことができるのだ。
「待って」
歩き出そうとした果恵の背中を、聡が短く呼び止めた。
彼は立ち上がると、びくりと振り返った果恵の手から空になった紙コップと全く口をつけていない紙コップの両方を奪い、それらをゴミ箱に放り込んで彼女の手首を掴む。
そのまま足早に店を出ると、イルミネーションで華やかに彩られた大通りをぐんぐんと進んで行った。
「筒井くん!?」
「時間が無いわけじゃないのなら、このあと少し付き合って」
息が上がり、夜の空気が白く染まる。コートを着る間も与えられず店外に連れ出されたので本来は寒い筈なのに、果恵は一向に寒さを感じなかった。
聡は一体何を考えているのだろう。けれども果恵の戸惑いに構うことなく、聡は歩道の端で立ち止まるとこちらに向かってくるタクシーに手を上げた。