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ぎ出すカエル



 11. カエルの目にも涙


 夕方の県道は、少し渋滞していた。沈黙が気まずくてつけたカーラジオからは、三年程前にヒットしたバンドの曲が流れている。
「本当にごめんなさい」
 ハンドルを握ったまま、果恵は何度目かの謝罪の言葉を口にした。
「佐々木さん、謝りすぎだって」
 恐る恐るバックミラーを見やると、鏡越しに目が合う。後部座席で聡は、少し呆れたように笑っていた。

 チェックインにやって来た聡に対し、果恵はすがるように北町への宿泊を打診した。状況を理解すると、聡はあっさりと了承してくれた。 これでオーバーブッキングは解消される。ほっとすると同時に、果恵は聡に自分のミスを知られてしまったことが恥ずかしく感じられた。
「俺の名前で予約していればもっと早くに解決できていたのに、逆に悪かったね」
 今回の出張はもともと、上司とふたりの予定だったらしい。 その為、事務スタッフが上司の名前で二室予約を入れていたが急なトラブルで取りやめになり、上司の名前のまま部屋数だけを一室に変更したのだそうだ。 もしもいつも通り聡の名前で予約を入れていたら、彼を北町に宿泊させれば良いと早い段階で算段できただろうに。聡はそう言って、予約名が違っていたことを逆に詫びてきた。
「そんなことないです。無理を聞いてもらって、本当に本当に助かりました」
 果恵は思わず反論の言葉に力を込めた。今回の件で、多くの人に迷惑をかけてしまった。そして多くの人に助けられた。 尽力してくれた職場の仲間たちと、何よりも、快く無理な要望を受け入れてくれた予約客たちには感謝の言葉もない。
 駅前の交差点を過ぎると、車の流れがスムーズになる。果恵は安全運転を心がけ、注意深くサイドミラーを確認しながらハンドルを握った。

 ホテル・ボヤージュ北町に到着すると、フロントには果恵の同期が立っていた。 一緒に働いたことはないけれど仕事ができるという噂はたびたび耳にし、先日出された辞令によると四月一日付けでアシスタントマネージャーに昇格するらしい。 彼は果恵が聡を連れて来たのに気づくと、心得たとばかりに小さく頷いてキーボックスに手を伸ばした。事前に連絡を入れていたので、チェックインの流れはスムーズだ。
 果恵は同期から鍵を受け取ると、聡をエレベーターホールまで案内した。あいにく二機のエレベーターは、両方とも上に向かっていた。

「今日は本当にありがとうございました。このお礼は、今度必ずしますから」
 エレベーターが下りて来るのを待ちながら、果恵はもう一度頭を下げた。
 他の客には拒否権があったが、同級生である果恵に頼まれた聡は、たとえ嫌だと思っても断りにくかっただろう。 聡の姿を認めた瞬間に、助かったと、正直果恵はそう思った。同級生という立場につけこんだところがあって、自分のミスで迷惑をかけたことに加えてそれが何よりも申し訳なかった。
 だから果恵は、咄嗟にお礼をすると口走っていた。具体的に何をするかなんて考えてはいなかったけれど、思わず口をついて出てしまったのだ。
「気にしないでよ。明日は北町で打ち合わせの予定があるから、俺としては逆に都合が良かったんだ」
 真偽のほどは分からないが、たぶんそれは果恵の気持ちを軽くする為の優しい嘘だろう。
「……ありがとうございます」
 聡の気遣いが申し訳なくて、果恵は小さくお礼を言った。すると彼は、ふと思いついたように提案した。
「でも、お礼してくれるって言うのなら、今度どこか旨い店を紹介して。いつもこっちに来た時は、夕飯が牛丼屋とかラーメン屋ばかりだから」
「じゃあ、今度来られた時にご馳走します」
 だから、これに懲りずに次回の出張の際もホテル・ボヤージュを利用して欲しい。そんな強い願いを込めて、果恵は即答した。
「四月にまた来ることになると思うから、その時はよろしく」
「はい」
 また利用してくれる。安堵の気持ちに包まれて、果恵は笑顔で頷いた。

 上昇を続けていたエレベーターは十階まで行き、そこで矢印を上向きから下向きに変えた。下降して来るエレベーターの階数表示をふたり黙って見つめていると、聡が唐突に口を開いた。
「実は俺、今回任された仕事に正直腰が引けていたんだ」
 予想もしなかったカミングアウトに驚いて、果恵は傍らに立っている聡を見上げた。目が合うと、彼は気まずそうに小さく笑う。 成績優秀だった中学時代の記憶から、聡はそつなく仕事をこなすというイメージを勝手に抱いていたのだが、今の発言は謙遜というものだろうか。
「同僚の中にはもっと大きな仕事やっている奴もいるのに、チャンスだという気持ちよりも、自分には荷が重いという感情が先に立っていた」
 格好悪いだろう? そう言うと聡は、照れ隠しのように眼鏡の銀色のフレームを押し上げた。
「だけど、たまたま出張先のホテルで佐々木さんに再会して、かつてのクラスメイトが頑張っている姿を見て刺激を受けたんだ」
「わたし、筒井くんには情けないところばかり見られている気がするんだけど」
 聡の意外な発言に対し、果恵は戸惑い気味に否定した。クレームを受けて平身低頭して謝り続けたり、ありえないくらい大きなミスを犯して客に迷惑をかけたり。 忘れて欲しいと願うことばかりで、聡が言うようなことは全く思い浮かばない。
「大変な仕事だとは思うけど、佐々木さんは中学の頃と変わらず真っ直ぐに向き合っていた。常に背筋を伸ばして接客するその姿に、俺も頑張ろうって思えたんだ」

 チンと音をたてて、エレベーターが開く。中に客はおらず、そのまま聡が乗り込んだ。
「選んだのはたまたまだったけれど、ホテル・ボヤージュを予約して良かったと思っている。佐々木さんと再会できて、良かった」
 そう言うと、聡は客室階のボタンを押した。
「あっ、ありがとう!」
 あまりにも買いかぶりすぎな聡の発言に果恵が呆けていると、そのまま扉が閉まりそうになる。慌ててお礼を言うと、扉の僅かな隙間から聡が微笑したのが見えた気がした。

 聡を乗せたエレベーターが上昇するのをぼんやりと見送ったあと、我に返った果恵はフロントに向かいチェックインをしてくれた同期に礼を言った。 それから事務所に顔を出し、中にいる支配人やマネージャーに今回多大な迷惑をかけたことを詫びる。やがて事務所をあとにし、足早に駐車場に向かった。
 ―― あと、少しだから。
 果恵はそう自分を叱咤する。最後は小走りで社用車のもとにたどり着くと、ロックを解除して転がり込むように運転席に座った。
 ドアを閉めると同時に、嗚咽が洩れる。もう、限界だった。ハンドルに顔を埋めると、堰を切ったようにあとからあとから涙が零れ落ちた。




 本当はこの五日間、果恵はずっと泣きそうだった。自分の犯したミスの大きさに慄き、上手く収められなかったらどうしようと怯えていた。けれども、自分が引き起こしたくせに泣くのは卑怯だ。 二十代前半ならまだしも、三十歳を過ぎて仕事のミスで泣くなんてみっともない。何度も自分にそう言い聞かせて、果恵はとにかく出来うる限りのことをやった。
 皆の協力のおかげで何とか事態の収拾はついたけれど、果恵はこれまで自分が積み重ねてきたものを壊してしまったような気がしていた。そんな果恵が喪失しかけた自信を、聡が取り戻してくれたのだ。
 頑張って良かった。果恵は心の底から、そう思った。


 どれだけ泣いていただろうか。ようやく気持ちが落ち着いてきた果恵が恐る恐る鏡を見ると、それは予想以上の惨状だった。 マスカラを多めにつけていたら、剥がれるのが怖くてどんな状況でも泣けないだろう。自分に脅しをかけるように、果恵はここ数日マスカラを重ねづけしていたのだ。
 手早く化粧を直したが、泣き腫らした目はどうやってもごまかせない。果恵はエンジンをかけると、ホテル・ボヤージュとは反対方向に向かって車を走らせた。少し寄り道をして、時間をかせごう。 この道の先にある人気のドーナツ店でドーナツを買って戻る頃には、涙はたぶん乾いているだろう。かなり安上がりだけれど、今日みんなにかけた迷惑は大量のドーナツで償うことにした。

 数年ぶりに大泣きしたら、少しだけ気持ちが吹っ切れたような気がした。また明日から頑張ろうと、前向きな思いでそう心に誓う。
 ラジオからは果恵が中学時代に好きだった曲が流れていた。懐かしさに少しだけボリュームを上げると、ハンドルを握りながら果恵は真っ直ぐに前方を見つめた。

 


2013/05/05 


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