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ぎ出すカエル



 10. 大失態のカエル


 三月三十一日は、朝から憎らしいくらいの快晴だった。
 このまま終点まで電車に乗って、海まで行きたいな。現実から目を背けたくて、通勤電車に揺られながら果恵はそんなことをぼんやりと思った。

「あれ、果恵さん。今日はお休みじゃなかったんですか?」
 タイムカードを押さずに事務所に入って来たスーツ姿の果恵に、菜乃花が驚いたように声をかけてきた。
「さすがに、今日は休めないよ……」
 もともと本日の果恵のシフトは公休だが、ミスが発覚した時点で休むつもりはなかった。
 菜乃花に苦笑いを浮かべながらそう答えると、果恵は自分のデスクのパソコンを起動する。キャンセルが出ていますように。 そう祈りながら宿泊システムにログインして残室を確認すると、モニターには昨晩と変わらず八室オーバーという表示があった。



 シマザキフーズの変更に関する致命的なミスが発覚して、果恵はまずマネージャーの小野に報告した。いつも落ち着いている上司はこの時も大して動揺を見せなかったが、ただ深く息を吐いた。 呆れられただろうな。果恵は上司の顔を正視できなくて、思わず俯いてしまう。
 もともと転職が多い業界な上に異動などもあり、果恵が入社した時にいた社員は今やマネージャーのみだ。 当時はアシスタントマネージャーだったその人からは様々な仕事を教えてもらい、ミスをフォローしてもらいながらこれまでやってきた。 自分は仕事ができるとは思えないが、任されている仕事量からして全く信頼されていないわけではないと思う。だからそれに応えたいと思って頑張ってきたのに、今回のミスはそれを粉々にして余りある程の破壊力だ。
 とにかく早急に動かなければならない。ここまでくると客に迷惑をかけてしまうことは回避できないが、それでも最小限に食い止めねばならない。そして、自分への信頼が崩れるのも最小限に留めたかった。

「とりあえず、北町に空室があるか確認します」
 果恵は上司にそう告げると、ホテル・ボヤージュから四駅先にあるホテル・ボヤージュ北町に電話をかけた。幸いなことに、ちょうど団体の人数が大幅に減って空室が出たらしい。 とりあえず果恵は、電話口の同期にそれらを押さえてもらうよう頼んだ。
 それからシマザキフーズに電話をかける。ここは謝り倒して、何とか系列の北町の方へ行ってもらうしかない。ただ、先方の担当者は厳しいことで有名で、罵倒されるのを覚悟で果恵はコール音を聞いた。

「こちらは電話で事前に確認して、おたくが大丈夫だと仰ったからそれで進めているのですよ。今更、遠くのホテルへなんて話が違うでしょう?  何年もずっとそちらを使わせて頂いているのに、全く裏切られた気分で不愉快ですわ!」
 シマザキフーズの人事部長は、バリバリのキャリアウーマンだ。仕事ができる分、他人にも容赦がない。何度も怒鳴られた経験がある果恵は彼女を苦手としているのだが、今回はひたすら謝り続けるしかない。
「佐々木さんじゃ、話にならないわ。上の方を出して頂戴」
 先方の怒りは収まらず、ついには上司を出せと言われる。最悪だ。自分のミスを、自分で処理することもできない。 果恵は情けなさと恥ずかしさと申し訳なさが入り混じった気持ちで、小野に電話を繋いだ。

 結局、シマザキフーズの四十三名のうち、先輩社員の十七名が北町へ宿泊してくれることになった。 既存社員に対しては宿泊先が変わったという連絡が容易だが、新入社員へは時間がなく連絡を徹底できるか微妙なのでこのままホテル・ボヤージュに宿泊させる。それが先方の出した妥協案だった。 彼女の主張は当然のことで、十七名が北町に行ってくれるだけでも相当ありがたかった。
 その日の団体予約はシマザキフーズだけで、あとは小規模のグループと個人予約のみだ。できればグループでまとまって変わってもらえる方が楽なので、次はそちらへ電話をかけてみる。 けれども予約者の携帯は応答がなく、とりあえず果恵はかけ直す旨だけ留守番電話にメッセージを残した。

 ふと隣を見ると、由美が三十一日の宿泊者リストを出してダブリの予約がないかをチェックしていた。
「すみません、わたしがやります!」
「大丈夫だから、果恵はグループの方を確認しな」
「すみません……」
 由美もたくさんの仕事を抱えているのに、余計な仕事を増やしてしまった。しかもシマザキフーズは会議室の利用もあるので、今後やりにくくなるかもと考えるとそれも申し訳ない。 それよりも何よりも、今回の不手際で信用を失って、この先の利用が一切なくなってしまったらどうしよう……。定期的に利用してくれているだけに、もしそうなれば売上の損失は甚大だ。
「大丈夫だよ」
 まるで、果恵の思考を読んだかのように由美が言う。
「さっき丸井さんが謝罪に向かったし。そもそもうちはシマザキフーズに対して特別料金で出してるから、あそこまでの割引料金を出せるホテルはそうそう見つからないよ」
 マネージャーが電話を終えたあと、営業の丸井がシマザキフーズへ謝罪に向かっている。果恵も同行すると申し出たが、丸井だけで良いと言われた。
「それにね、中谷部長は結構わたしのこと気に入ってるみたいだからさ」
 しれっと言った由美の発言に、果恵は思わず黙り込んで目を瞬いた。
「普通、自分でそんなこと言いますか?」
「だって、わたしいつもあの人の無理難題を聞いてあげてるもん」
 由美の軽口に、ようやく果恵は笑みを浮かべた。何でもないことのようにふるまってくれる由美の気遣いに救われる気がした。

「由美さん、チェンジします」
 由美がチェックを始めて二十分が経った頃、事務所に入って来た菜乃花がそう言った。時計を見れば早番の菜乃花の定時である四時で、夜勤スタッフと交代してフロントから開放されたのだろう。 既に三十一日がかなりのオーバーブッキングになっていることは、全スタッフに知らされている。
「いいよ、あと半分くらいだから」
「いえ、やります。わたしだったら常連さんの名前が分かるし、電話するならそういう人の方が頼みやすいですよね?」
 由美と果恵は思わず顔を見合わせた。確かに菜乃花の言う通りだ。ホテル・ボヤージュは常連の客が多いので、事情を理解して北町に泊まってくれるという人も見つけやすいだろう。
「じゃあ、これは菜乃花に任せた」
 そう言って由美は立ち上がると、ポンと菜乃花の肩を叩いた。彼女はリストを受け取ると、力強く頷いた。

「ごめんね、なっちゃん」
 各予約サイトの管理画面を開き予約のチェックを始めた菜乃花に対して、果恵は小さく詫びた。
「わたしの方こそ、すみませんでした」
 けれども逆に謝り返されてしまう。今回の件に菜乃花は一切絡んでおらず、彼女が謝罪する必要性はひとかけらもない。何故菜乃花が謝るのかが分からなくて、果恵は不思議そうに彼女を見つめ返した。
「わたしが果恵さんのサポートを上手くできなかったからです。先輩方が退職されてただでさえ果恵さんの業務が増えたのに、わたしが全然成長しないから果恵さんへの負担がどんどん大きくなってしまって」
「なっちゃん……」
 きっと菜乃花も気づいていたのだろう。最近の果恵が簡単な仕事ばかり菜乃花に回して、あとの処理は自分が全て抱え込むようになったことを。
「今回のことは完全にわたしのミスだよ。自分のキャパも分からずに仕事を抱えこんで、全てに目が行き届かなくなった揚句こんな大きなミスを犯してしまったんだから」
 果恵はどこかで菜乃花のことを軽く見ていたのだ。この子にはまだこの仕事はできないと、心の中で決めつけていた。 確かに菜乃花にはケアレスミスが多かったが、それをフォローしながら仕事を回してゆくのが果恵たち中堅社員に求められる大きな要素だろう。
 けれども果恵は勝手に菜乃花の能力を見限って、自分でやる方が早いと忙しさを言い訳に指導することを後回しにした。そうやって仕事を自分自身で抱えても上手く処理できればまだ良かったのに、結局はこのざまだ。 本当は、菜乃花だって能動的に動くことができたのに。今まさに、由美からチェックリストを奪って常連客を探し出している菜乃花は、果恵が頼りないと決めつけていた後輩ではなかった。

 結局、果恵が連絡したグループと菜乃花が電話した常連客が何名か北町への宿泊を了承してくれた為、オーバーブッキングは十二室にまで減った。キャンセルの連絡が何件か入り、そこから更に減少した。 けれどもその先はなかなか減らない。連絡先が判明している予約者に対し片っぱしから電話をかけてみたものの、電話が繋がらなかったり拒否されたりした。 ホテル・ボヤージュが良くて予約しているのに、別のホテルに変わって欲しいと言われても予約客たちが受け入れられないのは当然だ。 中には失礼だと怒鳴り散らす人もいて、自分が引き起こした事態とは言え本当に憂鬱な作業だった。
 とりあえず八室オーバーという状況で、あとは当日チェックインに来た人たちに頼もうということになった。 既に了承済みの人たちは直接ホテル・ボヤージュ北町へ向かうが、当日交渉する客へは送迎が必要になってくる。迷惑をかけた人たちには宿泊代を割引いたり朝食をサービスしたりと、様々な経費が発生することになる。 更にタクシー代をかけるわけにもいかず、果恵は社用車で送迎する為にスーツを着て休日出勤したのだった。



「公休出勤したって、代休とれる日なんてないぞ」
 果恵の姿を見た小野が、からかい半分に声をかける。
「そんなつもりはありません。さすがのわたしも、こんな状況で休める程は神経太くないです」
 自虐的な笑みを浮かべて果恵が返すと、小野は小さく吹きだした。
「よくここまで持ってきたよ。あとひとふんばりだ、今日一日乗り切るぞ」
 最後の言葉はその場にいたスタッフ全員にかけられたもので、上司の言葉に皆が気合いを込めてはいと大きく頷いた。

 果恵たちはチェックイン前に荷物を預けに来た人にも交渉してみたが、上手くはいかなかった。
 午後二時からチェックインが始まり、到着した人から順に事情を説明して北町への宿泊を打診する。 あっさり断られることが大半だったし、不愉快そうな態度を見せる客もいた。けれども、中にはこちらが恐縮してしまうくらい快く応じてくれる人もいた。 無理なことを頼んでいるにも関わらずこちらの状況にまで気遣ってくれる優しさに、果恵は心底ありがたいと思った。
 同僚たちの活躍もまた、目を見張るものがあった。このような言いづらい依頼をするのは、本当に嫌な仕事だと思う。けれども彼らは愚痴をこぼさず、必死で果恵のミスをカバーしようとしてくれていた。

「果恵さん、一件キャンセル出ました!」
 北町に宿泊客を送り届けて事務所に戻って来ると、ちょうど電話を切ったばかりの菜乃花が果恵にVサインを送ってきた。普段は困りものの当日キャンセルも、今日ほどありがたいものはない。
「あと、一室か」
「はい」
 ようやく終わりが見えてきた。果恵は事務所とフロントを繋ぐ扉を開け、外に出る。
「お疲れ様。フロント代わるからちょっと休んできて」
 フロントに出ると、果恵は遅番勤務であるアルバイトの安西に声をかけた。果恵が送迎している間もフロントに立ち続け、きっと嫌な思いもしているだろう。
「大丈夫っすよ。佐々木さんこそ公休なんですから、中で休んでいて下さい。若い女の子が来たら俺がちょちょいと説得しますので、そん時は送迎お願いします」
「さすが、イケメンは頼もしいねえ」
 安西の軽口に、果恵は吹き出した。実際、北町への宿泊の了承をとりつけた数は安西が一番多かった。頼もしいなあ。今まで頼りなさが目についた若手たちの奮闘が心強い。
 しみじみと実感している果恵の耳に、自動ドアが開く微かな音が聞こえた。視線をやると、黒のキャリーケースを引いたビジネスマンがこちらに向かって歩いて来る。

 今日、予約入っていたんだ……。
 眼鏡をかけた穏やかな表情を見ると、どこかほっとしたような気持ちになる。果恵は思わず、すがるように声をかけた。

 


2013/04/30 


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