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ぎ出すカエル



 08. 浮上するカエル


 中学の卒業式は、みぞれが降っていた。
 三月に入ると徐々に気温が上がり、確実に春の気配を感じていた。けれども式の前日から冬型の気圧配置に戻り、当日は朝から雪まじりの雨が降って正門脇に咲いた梅の花を寒々しく濡らしていた。

「ねえ、帰る前に三井先生にも挨拶しに行って良い?」
 底冷えのする体育館での式を終え、教室で卒業証書を受け取る。 そのあともクラスメイトや担任教諭と過ごす最後の時間を惜しみながら、写真を撮ったり卒業アルバムの最後の白紙ページにメッセージを書き合ったりして教室に留まり続けた。 けれども、いつまでも別れを引き延ばすこともできず、やがてひとりふたりと教室をあとにする。
 流されるように教室を出た果恵と郁子だったが、一階の昇降口で思い直したように郁子が言った。
「職員室、行く?」
「うん」

 郁子は美術部に所属し、顧問である美術教師を慕っていた。果恵たちが三年に進級した一年前の春に赴任してきた彼女は、郁子にとっては姉のような存在だったようだ。
 職員室に入って行った郁子を、果恵は廊下で待っていた。殆どの卒業生は下校したのか、校内は静かだった。果恵はぼんやりと、三年間ですっかり見慣れた校内の風景を眺めていた。
 もうこの校舎で過ごすことはないという実感は、あるようなないような不思議な感覚だ。母校を巣立つ寂しさはもちろん感じるものの、卒業式では涙は出なかった。 たぶんそれは、公立高校の合格発表のあとで報告の為にもう一度この場所を訪れることが分かっているからだろう。
 現在は変わっているらしいが当時は公立高校の入試の日程が遅く、中学の卒業式後に行われていた。 その為に、公立高校を第一志望としている生徒たちの進路は卒業式の時点で確定しておらず、どこか宙ぶらりんな状態だった。

 ほうっと息を吐くと、建物の中だというのに息が白く染まった。古い校舎はすきま風が容赦なく入り込んでくるので、薄暗い廊下には冷気が広がっている。 指先に息を吐きかけながら、果恵は帰ったら温かいカフェオレが飲みたいと思った。
 不意に、ガラリと音をたてて目の前の古びた扉が開いた。終わったのかなと、開いた扉の向こうから郁子が出て来るのを待つ。けれども、姿を現したのは予想外の人物だった。
「あ……」
 学ランの胸にリボンのついた赤い花をつけたその人は、紛れもなく卒業生だ。果恵のセーラー服の胸にも、同じ花が咲いている。 果恵の姿に少し驚いた様子を見せた聡は、職員室の中にいる郁子の存在に思い至ったようだ。ちらりと自分が出てきたばかりの扉を振り返り、ひとり納得した表情を見せた。
 何か、声をかけた方が良いのだろうか。誰もいない静まり返った廊下で果恵は考えた。この一年の間、彼女は殆ど聡と言葉を交わすことはなかった。 同じ教室にいて話さなかったのだから、卒業すれば尚更その機会は失われるだろう。
 けれども果恵には、聡と会うのはこれが最後ではないという確信があった。自分は絶対に、聡が通う汐見高校に合格してみせる。
「またね」
 入学式でまた会うのだという決意を込めて、果恵は小さく声をかけた。
「うん、また」
 果恵の言葉に、眼鏡の奥の瞳が微かに揺れる。すぐにそれは優しく細められて、彼はそう応えてくれた。



* * *   * * *   * * *



 翌日果恵が出勤すると、東京のオープニングスタッフの社内公募が出ていた。
 宿泊や料飲など全部門が対象で、応募条件は勤続年数が三年以上あることらしい。 今の人数から抜かれるとかなり厳しいので、まずは先に人員補充をして欲しい。果恵の関心事項はその一点のみで、応募の期限や転勤に関する条件などの記載は流し読みする。 そうして前夜からの引継ぎを受けると、またいつもと同じ慌しい一日がスタートした。

 春休みを直前に控え、ホテル・ボヤージュでは空室の問い合わせが増えつつあった。電話が頻繁に鳴る中で、果恵はフロントで電話応対をしながらチェックインをこなしていた。
「お待たせ致しました。いらっしゃいませ」
 ビジネス客のチェックインを済ませ、後ろに並んでいたカップルに笑顔を向ける。大きなスーツケースを持った彼らは、英語で書かれたバウチャー券を見せてきた。
 ホテル・ボヤージュでは、近年海外からのゲストが増えている。 予約サイトが充実して様々な条件でホテルを検索することが容易になった為、多少観光地から離れていてもリーズナブルな料金で宿泊したい海外旅行者がビジネスエリアであるこの辺りまでやって来るようだ。
 中には驚くくらい流暢な日本語を操る人もいるが、大概は片言の英語でやりとりをすることになる。今回のゲストも日本語は話せないらしく、当たり前のように英語で喋り出したので果恵も英語で応じる。
 ぴたりと寄り添ったふたりは新婚旅行で日本を訪れているらしい。果恵が鍵の準備をしている間、ハネムーンで日本各地を回るのだと喜びに満ちた表情で教えてくれた。 あまりにも微笑ましくて、何処を回るのかと果恵が行程を尋ねてみれば嬉しそうに答えてくれる。躊躇いもなく放出される幸せオーラに羨ましさを感じながら、果恵は館内の説明を行い鍵を手渡した。
「Have a pleasant stay!」
 こちらに手を振りながらエレベーターホールに向かう可愛らしいふたりに、忙しさにくさくさとした気分が癒されるのを感じながら果恵は笑顔を返した。

「英語、すごいね」
 不意にかけられた言葉に驚いて声の主を見やると、目の前には感心したような表情の聡が立っていた。 果恵がチェックインしている隣のカウンターで、戻りのゲストが預けていた鍵を受け取っているのは把握していたが、どうやら聡だったようだ。 新婚のふたりを接客していた自分が、物欲しげな表情をしていなかったかと急に恥ずかしくなる。
「海外のお客さんも多いんだね。自分は英語苦手だから尊敬するよ」
「確かに英語を使う機会はそれなりにあるけど、全然話せてないですよ」
 ゲストとの英語でのやりとりを見ていたのだろう。尊敬の眼差しを向けてくる聡に対し、果恵は居心地の悪さを感じた。一見流暢に話しているように見えるかも知れないが、チェックインの際に使うフレーズは決まっている。 これまで何百回何千回と言っているので、一方的に説明するだけならスムーズに口をついて出てくる。ただし、何か質問をされると話は別だ。 よくある質問なら慣れてはいるが、イレギュラーなことを聞かれるとたちまちしどろもどろになってしまう。あとは知っている単語を総動員し、筆談や身振り手振りを交えて何とか情報を伝えるのだ。

「佐々木さんは英語得意だったもんな。フロントの仕事はぴったりだね」
「え……?」
 さらりと言われた内容に驚いて、思わず果恵は聡を見つめ返した。そんな果恵の反応に、逆に聡が眼鏡の奥の切れ長の瞳を見開いた。
「英語、得意だったろ?」
 聡が確認するように尋ねてくる。
「一番好きな科目だったけど」
「だよな。だからさっき、佐々木さんがお客さんと英語で会話してるのを見て、自分の得意分野を活かせる仕事に就いてすごいなって思った」
 そう言って聡が柔らかく笑った。果恵が返す言葉を探していると、チンと聞き慣れた音がする。
 さりげなく視線をやると、箱を抱えた宿泊客がエレベーターから降りてこちらに向かっていた。 宅配便の依頼をしようとしている客の様子に気づいた聡は、じゃあと短く言ってエレベーターホールに向かう。
「ごゆっくりどうぞ」
 微かな喜びをかみしめながら、果恵はその背中に声をかけた。



 ―― うん、また。

 あの時、彼はどういう気持ちで果恵の言葉に返したのだろうか。
 定時が過ぎ、事務所の中で団体予約の整理をしながらふと果恵は思った。 聡と再会したことで中学時代のことを思い出すことが多くなったせいか、それとも季節のせいなのか、今朝は懐かしい夢で目が覚めた。忘れかけていた情景が、夢の中で鮮明に蘇る。
 クラスメイトながら殆ど話す機会がなかったふたりが、些細なタイミングで最後に短い言葉を交わした。けれどもあの時の果恵は、聡が卒業と同時に東京に引越すことを知らなかった。 またねと返してくれたものの、少年だった彼は二度と会うことはないと思っていたに違いない。ましてや十五年以上の時を経て再会するだなんて、思いもよらなかっただろう。

「佐々木、この団体の見積書をファックスしておいてくれ」
「はい」
 減らない仕事を前に、それでも果恵の心は軽かった。果恵が一方的に聡をライバル視していると思い込んでいたのだが、彼の記憶にもきちんと果恵の存在が残っていたらしい。 得意教科を知っていてくれたことは何よりも驚いたし、嬉しかった。
 仕事の山には心底うんざりするけれど、頑張って乗り切ろう。英語が好きで接客が好きで、だからホテル業界に入ったことを今更ながら思い出す。 少女だった頃に目標としていた人がすごいなって認めてくれたから、だからそれに恥じないようにと、負けず嫌いの果恵は心に誓った。

 


2013/04/19 


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