三月に入ると、急に日が長くなった。冬の早番の日は真っ暗に凍えた中を出勤するのだが、今の時期はもう日は昇りかけている。
日暮れも遅くなっているのだが、それでも繁忙期に入り残業続きの果恵が明るい時間に退社するのは不可能だった。
「佐々木さん、二番にヤマダトラベルさんからお電話です」
どんどんと増えてゆく手配書を整理していた果恵に、内藤が声をかけてきた。時刻は既に六時を過ぎているが、早番である果恵の定時は四時だ。
エージェントの担当者はそんなことを知っている筈もなく、電話を受けたスタッフも果恵がいれば彼女宛ての電話を繋ぐのは当然で、微かな苛立ちを感じながら果恵は保留解除のボタンを押した。
由美が言った通り三月に入ってもホテル・ボヤージュには新しい人員が補充されず、その日その日をぎりぎりの人数で回していた。
本音を言うとフロントに立たずに事務作業をする時間が欲しいが、そんなことは不可能なので定時を過ぎてからこうして事務所に残ってたまった仕事を整理している。
けれども残っていれば電話を受けることもあり、逆に新たな仕事が増えてストレスはたまる一方だった。
電話を切り、受けた変更の内容を手配書に書き込んでゆく。すると、内線電話が鳴った。他のスタッフは接客中だったり電話中だったりするので、仕方なく果恵は受話器をとった。
「お待たせ致しました。フロントでございます」
「どうなってるんだ、このホテルは! 今すぐ部屋まで来い!!」
電話をとった瞬間に、受話器の向こうから怒鳴り声がする。ああ、客室に何か不備があったんだろうなと、果恵はクレームの電話をとってしまった運の悪さを呪った。
これ以上客の機嫌を損ねないように細心の注意を払いながら、とりあえず何があったのかを聞き出す。どうやら、風呂に入ったあとに湯を流したら溢れ出してしまったようだ。
直ちに部屋に向かうと相手に告げ、果恵は慌ただしく席を立った。
「こっちは出張で疲れているのに、これはどういうことだ!?」
「申し訳ございません」
客室に向かうと、中年の男性客にものすごい剣幕で怒鳴られた。こうなると、とりあえずは言葉を挟まずに頭を下げ続けるしかない。ひとしきり怒鳴って一息ついたところで、果恵は再度丁重に謝罪した。
「大変申し訳ございませんでした。お疲れのところ誠に恐縮ではございますが、新しいお部屋をご用意致しますのでご移動をお願いしても宜しいでしょうか?」
オーバーフローの連絡を受けると、とりあえず新しい部屋の鍵を持ってお客様のところへ向かう。
浴室を覗いたところ、特に客室まで溢れ出したわけではなく排水に時間がかかっているだけだったが、今回の客の怒り具合からしてスムーズに事を進めるのは難しそうだと果恵は心の内でそっと気合いを入れた。
「おまえたちは金を払った客を風呂が壊れた部屋に案内し、挙句の果てに疲れた客にそのまま移動させるのか!」
「大変申し訳ございません。もちろん私共でお荷物はお運び致します」
「もう荷物は全部広げているのに、またまとめろと言うのか!!」
果恵が予期した通り、相手は怒りの頂点に達しているので何を言っても怒鳴られる。そもそもはホテル側に落ち度があるので客が怒るのも当然なのだが、あまり大声を出されると他の客に迷惑だ。
「こちらのフロアの一番端に、新しいお部屋をご用意しております。お詫びにもなりませんが、少し広めのダブルルームをご用意させて頂きました。もし宜しければ両方の鍵をお渡ししておきますので、お荷物はこちらのお部屋に置いたままで、お休み頂くのは新しいお部屋をお使い頂けますでしょうか?」
「これから残った仕事をするのに、部屋を行ったり来たりしろと言うのか!」
妥協案を出してみても、一刀両断だ。建物が古いせいで年に何度かこういう事例にあたるが、拭いてくれればそのままの部屋で良いよと気軽に言ってくれる客もいれば、不愉快そうな顔で渋々移動する客もいる。
けれどもここまでごねるのは稀だ。若い頃はだんだんとこちらも腹が立ってきてその気持ちが表情に出てしまい、余計に客を煽ってしまうことが何度かあった。
そうなると余計にエネルギーを消耗するので、最近は全身全霊をかけて申し訳ないオーラを出し、相手の怒りを鎮めることに徹している。
「……別に、荷物はそのままで良いんだな?」
最敬礼の形をとっている果恵に対し、少しだけトーンダウンした客が問いかけてくる。チャンスだと思ったが気を緩めることなく、申し訳なさそうに眉を寄せて果恵は答えた。
「もちろんでございます。こちらの不備でご迷惑をおかけしておりますので」
「じゃあ、まあ、いい……」
怒鳴るだけ怒鳴って少し冷静になったのか、それとも怒ることに疲れたのか。ともかく、ようやく態度を軟化させた相手に果恵は内心ほっとした。
新しい部屋の鍵を渡し、最後にもう一度深々と頭を下げる。目の前の扉がバタンと閉まった瞬間に思わず洩れそうになった溜息を、果恵は何とか飲み込んだ。
(疲れた……)
接客業に従事していれば仕方のないことだけれども、やはり疲労感ははんぱない。まだ残っている仕事の量にうんざりしながら、果恵はエレベーターに向かって歩き出した。
客用のエレベーターの先にバックヤードに入る扉があり、業務用のエレベーターはその向こう側にある。エレベーターホールを通り過ぎてバックヤードに向かおうとした果恵の視界に、客の姿が入った。
黒のキャリーケースを引いているので、チェックインを済ませたばかりなのだろう。いらっしゃいませと声をかけて会釈をしようとした果恵は、そのまま固まってしまった。
「こんばんは」
そこには、気まずそうに佇む聡の姿があった。今朝、到着リストを確認した時には、聡の名前はなかった筈だ。そう考えていた果恵の思考を読んだかのように、聡が口を開く。
「急にこちらに来なければならなくなって」
果恵がリストをチェックしたあとに予約を入れたのだろう。忙しいビジネス客が当日に予約を入れることは別に珍しくもない。そんなことよりも、果恵は先程までのやりとりを見られていたかが気になった。
いや、彼の微妙な表情からすると、確実に見られていたのだろう。
「お騒がせしました」
「お疲れさま」
ぺこりと頭を下げると、いたわりの言葉が降ってきた。あんなにも怒鳴られて謝罪するところを同級生に見られるなんて、何という仕打ちだろうかと果恵は思う。みっともないなあと、心がずんと重くなった。
「今回は二泊だけど、世話になります」
そう言うと、聡は黒のキャリーケースを引いてさっさと歩き出した。余計な言葉をかけないでくれることが、今の果恵には逆に嬉しかった。
「ごゆっくりどうぞ」
そう声をかると、果恵もバックヤードに向かって歩き出す。ちらりと振り返ると、件の客の隣の部屋に鍵を差し込んでいた。
きっと、激昂している客の隣に入るのも躊躇われ、事が落ち着くまでエレベーターホールで待っていたのかも知れない。申し訳ないことをしたと、果恵の気持ちはますます落ちた。
「佐々木、大丈夫だったか?」
フロントに戻ると、アシスタントマネージャーの飯塚が声をかけてきた。先程、新しい部屋の鍵を取りにフロントへ出た時はチェックインのピークでロビーに列ができていたが、今は落ち着きを取り戻している。
「お疲れだったようでかなりご立腹でしたが、何とかご納得頂きました」
苦笑まじりにそう言って、果恵は簡単に経緯を説明した。
「定時をとうに過ぎてるのに悪かったな。助かったよ」
チェックアウトの際に再度謝罪できるようにパソコンに情報を入力し、それから設備管理のスタッフに配管の点検をしてもらうよう引継ぎを残しておく。
ようやく事務所の自分の席につくと、広げたままの手配書の束に思わず深い溜息が洩れた。
帰ろう……。本日中にやらなければならない仕事は終わっているので、今日はもう終わらせようと果恵は思った。
ある程度片づけておかないと明日にはまた新たな仕事が増えるのは分かっているが、今日はもうこれ以上やる気が起こらない。
手早くデスクの上を片づけてパソコンの電源を落とすと、果恵はタイムカードを押して更衣室へと向かった。
「あ、お疲れー」
地下にある更衣室に入ると、ちょうど由美が着替えを終えたところだった。
「お疲れさまです」
「どう、少しは仕事片づいた?」
着替えた制服を洗濯回収用のかごに放り込みながら、由美が尋ねてきた。
「全然です。残業してても電話鳴りまくりで、それをとっていたら仕事が全く進まなくて。さっきもクレーム受けて心がぽっきり折れたんで、今日はもう帰ります」
「ほら、糖分補給しな」
そう言いながら、由美が鞄から取り出したチョコレートを差し出してくる。ありがとうございますと言って、遠慮なく手を伸ばす。ミルクチョコの甘さが疲れた体に染みた。
「きついなあ」
「きついですね」
思わずふたりで心の声を洩らす。果恵だけではない。由美だって今上がったということはかなり残業している筈だ。
例年忙しい月ではあるが、例年より少ない人数で回そうとしているのだから全スタッフに負担がかかってゆくのは当然だろう。
二十代の頃には同じ残業時間でも一晩寝れば疲労は回復したが、最近はなかなか疲れも抜けない。
ここ数日は夕飯を作る気力すら残っておらず、今日も帰りに近所のスーパーでタイムセールになっているお惣菜を買おうと思いながら、果恵はロッカーの扉を閉めた。
「でもさ、果恵にはご褒美があったじゃない」
果恵が着替えるのを待っていてくれた由美と一緒に駅まで向っていると、唐突に彼女が声を弾ませた。果恵は意味が分からなくて、にやにやと笑う由美を訝しげに見つめ返した。
「あれ、菜乃花から聞いてない?」
果恵の様子に、拍子抜けしたように由美がそう尋ねてくる。今日は菜乃花が遅番だがずっと接客中だったので、挨拶できずにそのまま上がって来た。
けれども果恵は、由美が何を言いたいのかうっすらと分かってしまい思わず渋い表情になってしまう。
「チェックインしたの、なっちゃんか……」
「あ、やっぱり知てるんじゃん」
「知ってるも何も、客室フロアでばったり会ったんですよ。オーバーフローした部屋のお客さんのクレームを受けて、謝り倒してるところをばっちり見られてました」
果恵の説明に、由美はあちゃーと呟いたまま絶句した。
「でもさ、来たじゃない」
「え?」
三月初旬の夜道はまだ寒い。息を吐くたびに、夜の空気が微かに白く染まる。駅に向かうほろ酔いのサラリーマンたちの群れの中で、勝ち誇ったように由美が言った。
「果恵はもう来ないって言い張ってたけど、また来てくれたじゃないの」
「……」
由美の言葉に、果恵は思わず黙り込んだ。そうなのだ。他にもホテルはたくさんあるのに、今日は周辺ホテルはどこもまだ空室があった筈なのに、聡はホテル・ボヤージュを予約してくれたのだ。
「筒井くんだっけ? なかなか誠実そうなインテリ眼鏡くん」
「どわっ、由美さん見たんですか!?」
さらりと言い放った由美の発言に、果恵は思わず奇声を発してのけぞった。
「うん。お客さんとの打ち合わせが終わってロビーでお見送りしてたら、フロントからやたらこっちに念を送ってくる菜乃花と目が合ってさ。あんまり挙動不審だから、菜乃花がチェックインしてたお客さんを観察してたわけよ。
で、あとで確認したら例の彼だって言うからさ」
果恵が飯塚と話していた時に、電話中だった菜乃花が物言いたげな顔をこちらに向けていたのは気のせいではなかったのだろう。
聡の件に関しては、由美も菜乃花も異様に楽しそうだから困りものだ。
「きっと、こっちに帰って来て少し懐かしくなったんですよ」
ホテル・ボヤージュがある街と果恵たちが育った町は電車で一時間程離れているが、それでも郷愁は感じられるだろう。そこで同級生が働いていたのだから、余計に懐かしさを感じたのかもしれない。
聡が再び利用してくれた理由を、果恵はそう結論づけようと試みた。
「彼は今、東京で働いてるの? 逆に言うとさ、こっちに実家があるなら多少遠くても帰省がてら実家に泊まれば良いじゃん。だけどわざわざうちを利用してくれてるんでしょ?」
駅近が一番のセールスポイントであるホテル・ボヤージュなので、あっという間にふたりは最寄駅に着いてしまった。改札をくぐり、雑踏の中を下りのホームに向かう。
由美の家も同じ方面なので、一緒に歩きながら彼女は果恵の意見に反論してきた。けれども果恵は、その言葉を一蹴する。
「こっちに実家は無いですよ。中学卒業と同時に、家族で東京へ引越しましたから」
聡は、十五歳の一年間だけを同じ教室で過ごした。一年と二年の時はクラスが別だったので関わりがなく、卒業と同時にあっさりと引越してしまったのでそれ以降も一切の関わりはない。
他のクラスメイトのように、駅や近所の商店街で見かけるという偶然は絶対に起こりえなかったのだ。
「じゃあ尚更、彼がうちのホテルを利用してくれたことは奇跡だね」
その言葉には素直に頷いた。聡の引越しを知った時にはもう二度と会うことはないと思ったので、十五年以上を経て再会したことは本当に奇跡だ。世間は狭いという言葉に、今回ほど同意したことはない。
「せっかくの縁なんだから、飲みにでも行けば良いじゃない。当時は親しくなくても、同じ思い出を共有してるんだから話も弾むでしょうに」
「またそれですか」
由美も菜乃花も、やたら聡を飲みに誘えとせっついてくる。少しだけ混み合った電車の中で、思わず果恵は苦笑いを浮かべた。
「仕事にがっつり向き合っていたら息が詰まるでしょ。時には変化も必要だよ」
果恵が住むワンルームマンションまでは職場から三駅なので、電車に乗る時間は十分もかからない。扉が開く直前にかけられた由美の言葉に果恵が戸惑っていると、そのまま乗客の波に流されてしまう。
曖昧な笑顔で挨拶だけすると、手を振る由美を乗せた電車はそそくさと扉を閉めて走り去って行った。
「変化、か……」
由美が残した言葉を、ぽつりと呟く。
ホームの先を見やると、彼女を乗せた電車は黄色い光の粒になってやがて夜の闇に消えてゆく。誰もいなくなったホームでひとつ溜息をつくと、果恵は重い足を引きずりながら改札へと向かった。