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イトコ



 あたらしい関係 5


 週末に日本列島を覆っていた冬型の気圧配置は、月曜日になると緩んだ。低く垂れこめた灰色の雪雲は消え去り、今は雲ひとつない青空が広がっている。
 志穂子は早朝の誰もいない教室で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。グラウンドでは、陸上部員たちが二列になってランニングをしている。 皆が同じ黒のジャージを着ているのに、後ろから三人目のその人物に目が引きつけられる。暖房をつけたばかりの教室はまだ温まっていない筈なのに、志穂子は自分の体温が上がるのを感じた。

 予想もしなかった急展開に、土曜日の夜はずっとふわふわしていて、せっかく和彦が買って来てくれたお土産のシフォンケーキの味も全く覚えていない。 そのままベッドに入ったものの、脳裏には圭介の顔が浮かんでは消えを繰り返す。嬉しいのだけれど恥ずかしいようなくすぐったいような感覚で、気持ちが昂ぶってなかなか寝つくことができなかった。
 日曜日の朝に目覚めると、今度はすべてが自分の妄想だったような気がして不安になった。すぐにチェストの上で充電していた携帯電話に手を伸ばし、アドレス帳を開く。 カ行の欄にはちゃんと圭介の携帯番号とメールアドレスがあった。 別れ際に、勇気を出して教えて貰った連絡先。まだ使用してはいないけれど、存在することが妄想でないことの何よりの証だ。
 ほっと安堵の溜息をついた志穂子は、志乃に報告する為にメールをした。本当は圭介にも送ってみたかったけれど、何を書いて良いのか分からず結局送ることはできなかった。
 志乃からは、送信完了するや否や、すぐに電話がかかってきた。すっかりテンションが上がりきっていて、詳しく聞きたいからすぐに家に遊びに来いとのことだった。 前日の出来事を洗いざらい吐かされ、散々にからかわれ、そして目いっぱい祝福された。そこでようやく、志穂子は両想いになれた実感が少しだけ湧いてきた。 けれども喜びを感じると同時に、ひとりの人物が脳裏を掠める。今度こそ志穂子は、きちんとその人に向き合わなくてはならなかった。




 窓から離れて志穂子が自分の席に着くと、教室の前方の扉ががらりと開いた。
「あれ、何でいるの?」
 そこには、日誌を手にした美奈が訝しげな表情で立っていた。
「おはよう。ちょっと、美奈に話があって……」
 志穂子がそう言うと、美奈は何も言わず自分の席に向かった。鞄と日誌を机の上に置き、教室の後ろにあるハンガーにコートをかける。
「で、話って何?」
 やがて自分の席に座ると、日誌を開きながら美奈が素っ気なく尋ねてきた。
「あの……」

 美奈は中学の頃から圭介のことが好きだったという。一学期に美奈の気持ちを聞かされていたにも関わらず、志穂子は圭介といとこであることを隠していた。 結局それが、友達としてどれだけ不誠実だったかということに気づいたのは、クラスでひとりになってからのことだった。
 だから今回は、自分の口からきちんと伝えなければならないと思った。当時は自分の気持ちに気づいていなかったとはいえ、圭介のことは好きではないと言っておきながら都合が良い話だと自分でも思う。 もしかしたら、ただの自己満足なのかも知れない。けれども、第三者の噂から知られるということだけは絶対に避けたかった。 今日は美奈が日直で早く登校するということをたまたま思い出し、ふたりきりで話をする為に志穂子も朝早くに登校したのだった。

「わたし、金澤くんのことが好きなの」
 大きく深呼吸して、一気に言い放つ。じんわりと、掌に汗をかいているのを感じる。
「それで?」
 顔色を変えることなく、日誌に今日の時間割を書き込みながら美奈は問い返した。
「好きって言った。……好きだって、言ってもらった」
 ようやく美奈が志穂子を見やった。沈黙がふたりを包む。

「何それ、自慢?」
 口元を微かに歪めて、美奈が呟いた。
「違う! ……報告。美奈にだけは、自分の口から伝えたかったから」
 不誠実な態度をとってしまった美奈に、きちんと向き合いたかったから。美奈は手元の日誌をぱたんと閉じると、ゆっくりと立ちあがった。やがて呆れたように笑いを洩らす。
「馬鹿じゃないの? わたしはあんたを、八つ当たりで無視したんだよ」
「挨拶は、いつもしてくれた」
「完全無視は体裁が悪いからよ。わたしは、志穂が他に友達いないの知っててわざとひとりにした。圭介のいとこという立場を隠して、協力してくれないあんたにムカついて仕方なかったの。 あんたの家の事情を恵から聞いても、それでも納得できなかったのよ」
 自嘲気味に告白する美奈の表情は、泣きそうにも見えた。いつも軽いノリで話していたから彼女の恋心を少し侮っていたけれど、本気で圭介のことが好きだったのだ。 
「美奈に比べたらわたしが知っている彼のことは少ないのかも知れないけれど、でも、この気持ちは変わらない。鈍感で無神経で、美奈を傷つけたことは謝る。だけどこの気持ちだけは、絶対に譲れないから」
 だから美奈は、こんな自分勝手な友達に対して罪悪感を感じないで欲しい。他に誰もいない教室で、志穂子と美奈は無言で見つめ合っていた。
「……やっぱり、志穂は馬鹿だわ」
 やがて、呆れたように美奈が笑う。どうせ馬鹿だもんと、拗ねたように志穂子が答えた。

 その時、教室の扉ががらりと開いた。複数のクラスメイトたちがぞろぞろと入って来る。廊下にも登校して来た生徒たちの賑やかな声が響き始めていた。
「おはよう。あれ、ふたりとも早いね」
 コートを脱ぎながら、登校して来たばかりの恵が不思議そうに尋ねる。
「わたしは日直。で、志穂から自慢話を聞かされてたの」
「自慢話?」
 恵だけではなく、近くにいたクラスメイトたちも興味深そうに会話に加わってくる。
「ちょっと、美奈!」
 恐ろしく嫌な予感がして、志穂子は慌てて美奈を制止しようとした。けれども、美奈はお構いなしに超巨大爆弾を投下する。
「志穂と圭介が付き合い始めたんだって」
 一週間が始まったばかりの、少し憂鬱な色に染まっていた教室が一気に色めきだつ。廊下を歩く他のクラスの生徒が思わず何事かと覗きこんでくるくらいに、女子たちが一斉に歓声を上げた。 一気に赤面した志穂子が涙目で美奈を睨むと、悪戯が成功した子供のように美奈が得意気に笑っていた。




 特別棟の裏のベンチは、相変わらず人影が無い。二月にしては気温が高いとは言え、季節が冬であることに違いはないので当然と言えば当然だ。 久しぶりにこの場所を訪れた志穂子はベンチに腰かけると、隣に音楽の教科書を置いて空を見上げた。傍らに立つ桜の木はその葉を全て落としており、枝の隙間から冴え冴えとした冬空が覗いている。
 午前中はことあるごとにクラスメイトにからかわれ、志穂子の体温は上がりっぱなしだった。恋愛ごとに奥手な志穂子が全身で恥ずかしがるから余計に面白がられるのは分かっているが、恥ずかしいものは仕方がない。 そんな志穂子の性格を理解している志乃が、はしゃぎ気味のクラスメイトたちを上手くセーブしてくれていた。 けれども午後は芸術の選択授業で、美術の授業の準備の為に志乃が昼休み早々に教室をあとにすると、志穂子も適当な嘘をついて教室を逃げ出してしまった。
 空に向かって、大きく息を吐く。空気が一瞬だけ白く染まる。冷たい冬の外気に触れて、上昇した体温がようやく少し下がったような気がした。

「志穂子?」
 けれども背後から呼びかけられた声に、再び志穂子の体温が上昇した。
「圭介くん!?」
 思わず反射的に立ち上がる。そして声の主の方へ振り返った志穂子は、そのまま勢いよく頭を下げた。 ふたりの噂は、当然、瞬く間に圭介のクラスにも広がった。ずっと謝りたかったけれど、わざわざ注目を浴びに圭介のクラスまで行く勇気は無い。 嬉しがって吹聴したようで、志穂子は何ともいたたまれない思いで午前中を過ごしたのだった。
「あの、ごめんなさい。わたしのせいで、噂になってしまって……」
「いいよ、どうせ隠すつもりはなかったし。休み時間の度にほっしーとテルがうちのクラスに来て、散々からかってくるのは正直面倒だけど」
 実は美奈が暴露した瞬間、誰よりもリアクションが大きかったのは星田と照井だった。ふたりが圭介をいじっている様子が安易に想像できて、志穂子は心底申し訳なくなった。
「だから、昼休みは逃げて来たんだ」
「実は、わたしも」
 圭介がそう言ったので、志穂子も白状する。
「まあ、明日になればほとぼりも冷めるだろ」
「だと良いんだけど……」
 嬉々とした表情のクラスメイトたちを思い浮かべ、志穂子は小さく溜息をついた。
「騒がれるのは苦手だけど、でも、色々と牽制になると思うから良かったと俺は思ってる」
「牽制?」
 意味が分からなくて、思わずオウム返しに聞き返す。けれどもそのまま曖昧に流されてしまった。もう一度尋ねようと思ったその時、志穂子の視界の端に見慣れた人物の姿が掠めた。

「よう、いとこの子」
 どうやら相手も気づいたようで、片手を上げながら光が志穂子たちの元へ駆け寄って来た。ジャージを着ているので、五限目の授業は体育なのだろう。
「何だおまえら、やっとくっついたのか」
「へ?」
 志穂子が挨拶の言葉を口にする前に、光が驚くべきことをさらりと言い放つ。思わず志穂子の口から、素っ頓狂な声が洩れた。
「な、何で!?」
 光のように他学年からも注目を集めているような有名人ならば、誰かと付き合いだしたという噂は秒速で学校内を駆け巡るのかも知れない。 けれども志穂子も圭介も大人しく、知名度も低いのでそもそも噂になる余地がないのだ。希望的観測も含まれているが、恐らく騒いでいるのは当事者が在籍するクラスだけだろう。 一体誰から聞いたのだろうか。志穂子は警戒するように光を見上げた。
「アホか。おまえらの気持ちなんて、最初からバレバレだ」
 まるで志穂子の思考を読んだかのように、心底呆れた表情で光が答える。
「い、いつからですか?」
「文化祭のあとのゴミ捨て場から。でもって、あそこで金澤弟とすれ違った時に確信した」
 渡り廊下を指差しながら説明する光に、志穂子はがくりとうなだれる。ゴミ捨て場から逃げ出した理由は、後日光に会った時に急用を思い出したからだと説明したのだけれど、さすがに苦しすぎたようだ。 必死で気持ちを隠そうとしていたのに、こんなにも簡単に気づかれていたなんて恥ずかしすぎる。

「ちょっと待って下さい。文化祭のあとのゴミ捨て場って何?」
 それまで少し不機嫌そうに黙っていた圭介が、怪訝な表情で口を挟んだ。
「志乃を探しに来た志穂っぺとゴミを捨てに来た俺が、ゴミ捨て場で志乃と金澤弟を目撃した話。 誤解した志穂っぺはショックを受けて逃げ出すし、俺は片想いの子が失恋して悲しんでるのに慰め役をただの幼馴染野郎に奪われるし、散々だったのさ」
 光の言葉の端々には、何となく小さな棘が感じられる。もしかして彼も、圭介に対してやきもちを焼いていたのだろうか。志穂子はちらりと光を盗み見た。
「あれは、色々事情があって……」
「志乃から全部聞いてる。それよりも、別にわたしは覗き見したわけじゃないからね」
 気まずそうに圭介が説明し、気まずそうに志穂子が答えた。

「……先輩が俺を挑発してきた理由が、やっと分かりました」
 やがて、溜息まじりに圭介が呟いた。
「別に挑発なんてしてないさ」
 涼しい顔で光が答える。全く会話についていけない志穂子は、ふたりの顔を交互に見やった。
「そう言えば、一昨日は熱があったらしいじゃないか。それで十三位だなんて、陸上部はやっぱすごいな」
 にやにやと笑いながら吐かれた光の台詞に、圭介の顔が一気に朱に染まる。言葉を失ってただ恨めしそうに睨む圭介の視線を無視し、光は更に言葉を繋いだ。
「俺も告白したよ。宣言通り、五位だったしな」
「先輩、志乃にまた告白したんですか!?」
 何でもないことのようにさらりと言ってのけた光に対し、思わず志穂子は聞き返した。
「したよ。通算三十二回目の告白。でもって、志穂の方が大事だっていう前回と同じ文句で振られた。でもまあ、志穂っぺには彼氏ができたし、そろそろ俺の存在のでかさに気づくかな」
「だと良いですね。でも、わたしも志乃のことが大事だからそう簡単に渡せませんよ」
 いつものようにそう志穂子が答えると、いつものように光が志穂子の脳天にチョップを入れた。

「なあ、金澤弟」
 不意に、光が圭介に向き直った。
「おまえ、しっかり志穂を繋ぎとめておけよ。おまえのライバルは俺じゃなくて、志乃なんだからな」
 そう言って光はにやりと笑う。
「俺はずっと、先輩の掌の上で踊らされてたわけですね」
「まあ、そう落ち込むな」
 そう言って腹の底から深い溜息を吐いた圭介の肩を、光が満足気な表情でぽんと叩く。同時にはたと何かに気づき、やばいとひとり言ちた。
「しまった。体育倉庫の鍵を開けとけって頼まれてたんだ」
 そう言うと、じゃあなと言って慌しく駆けて行った。まるで台風一過だ。志穂子と圭介は呆気にとられながら光の後ろ姿を見送った。

「先輩!」
 ぼんやりと光を見送っていた圭介が、突然何かを思い出したように慌てて彼を呼び止めた。数メートル先で、足を止めた光がこちらを振り返る。
「何?」
「すみませんでした」
 それだけ言うと、圭介は体をふたつに折って頭を下げた。
「何のこと?」
「失礼な発言をしたことです」
 頭を下げたまま、圭介は光の問いに答える。
「何のことか分からないけど、許すよ」
 光は笑いながらあっさりそう言うと、今度こそ体育倉庫に向かって駆けて行った。

「喧嘩、してたの?」
 残された志穂子は、傍らに立つ圭介の横顔をちらりと見上げた。
「いや」
「そっか」
 ふたりが同じ中学出身なのは知っていたけれど、学年が違う圭介と光に関わりがあることを志穂子は知らなかった。 結局ふたりの仲は良いのか悪いのかよく分からないが、圭介が清々しい表情をしているのでそれ以上尋ねるのは止めた。
「あの人、志乃のこと落とせるかな?」
 光の後ろ姿を見つめていた圭介が、傍らに立つ志穂子へ視線を移すとそう尋ねた。
「たぶん」
「嘘、マジで?」
 志穂子が答えると、圭介が驚いたように目を見開いた。
「志乃の気持ちは知らないよ。でも、吉本先輩ならいつか必ず志乃を振り向かせそうな気がする。それにね、そうなれば志乃をすごく大切にしてくれそうだから、わたしは密かに先輩を応援してるの」
「そうだな」
 そう言って志穂子が微笑むと、圭介も短く肯定した。
 実際のところ、志乃が光のことをどの程度想っているのかは分からない。けれどもマラソン大会のあの日、圭介の様子がおかしいことに気づいた志穂子が隣にいた志乃を見やった時、彼女の視線の先には光の姿があった。 偶然かも知れないし、彼を見ていたわけではないのかも知れない。
 志穂子は志乃の味方でいたいから、勝手に騒いでけしかけるようなことは絶対にするつもりはなかった。ただ、ふたりともに幸せになって欲しいと、志穂子は単純にそう願っていた。

「やばい、俺もそろそろ戻らないと」
 圭介の言葉に反応して腕時計を見やると、間もなく予鈴の時間だ。志穂子は目の前の特別棟にある音楽室で授業があるから余裕だが、教室のある本館は此処から少し距離がある。
「次は音楽?」
「うん。D組は?」
 ベンチ上に置かれている教科書を見やりながら圭介が尋ねてくる。志穂子もまた、短く聞き返す。
「うちは数学。じゃあ、またな」
 そう答えると、圭介は小走りで渡り廊下に向かって行った。
「圭介くん」
 いつの間にか見慣れた背中に向かって、志穂子は名前を呼んだ。そして、遠慮がちに問いかける。
「今度、メールして良い?」

 志穂子は、圭介のことを殆ど何も知らない。好きなことも嫌いなものも、何も知らない。だから志穂子の知らない圭介を、少しずつ知りたいと思った。 きっと緊張して短いメールしか送れないとは思うけれど、メールや会話で短い言葉を何度も重ねていって、互いのことを分かり合ってゆきたいと願っていた。
 足を止めて志穂子に向き直った圭介は、彼女の言葉に情けないような表情を浮かべた。
「ごめん。本当は昨日送ろうと思ってた。でも、何を書いて良いか分からなくて送れなかった」
「わたしも、同じなの」
 圭介もメールしようと思っていてくれたことに、ささやかな喜びを感じる。互いに白状し合うと、ふたり顔を見合わせて笑った。
「送って。俺も部活が終わったら送る」
「うん」
 そう言うと、今度こそ圭介は駆け出して行った。
 志穂子は、圭介のことを殆ど何も知らない。けれども、彼の短い言葉の中に不器用な優しさが隠れていることを、もう志穂子は知っていた。



 長い時間外にいたので、指先はすっかり冷たくなっている。志穂子は両手の指に息を吐きかけると、目の前にある桜の木を見上げた。この枝に蕾がつく頃、志穂子と圭介がいとこになって一年を迎える。
 何もかもが手探りの関係だった一年前。新しい環境で新しい出会いがあり、この一年で志穂子も少しだけ成長できたような気がする。そしてこれから、圭介とのあたらしい関係が始まるのだ。

 やがて、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。ベンチの上の教科書を手に取ると、志穂子は特別棟に向かって歩き出す。 渡り廊下の先では、友人たちが志穂子に向かって手を振っていた。


< 終 >

 


2012/09/07 


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