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イトコ



 あたらしい関係 4


 勇気を出して圭介の家の方角へ足を向けたものの、この期に及んで志穂子はまだぐずぐずと悩んでいた。 風邪で倒れたいとこを心配することは全く不自然ではない。ましてや志穂子はその場に居合わせており、それを知らんぷりしている方が薄情というものだ。 そう何度も心の中で言い聞かせ、自分の行動を正当化させる。店の方を覗いて、伯母に病状を尋ねるだけでも良い。今の彼の状態を確認するだけでも、この悶々とした不安が薄まるだろう。
 ようやく今度こそ決心をした志穂子は、そこではたと気づいた。自分は手ぶらなのだ。お見舞いに行くというのに、さすがにそれは格好がつかない気がする。 せっかく一歩を踏み出したのに、再び足が止まりかける。圭介の家まではこのまま直進すれば到着するのだが、この通りにお見舞いの品を買えるような店など無い。 駅前まで行けばケーキ屋があるが、自転車を置いて来たので距離がある。
 志穂子は今しがた通り過ぎたコンビニをちらりと振り返った。 好きな人へのお見舞いとしてはあまりにも色気が無さ過ぎるが、気合いが入りすぎていると逆に気を使わせてしまうだろう。自分はただのいとこなんだから、それくらいの方が逆に良いのかも知れない。
 長い長い逡巡の末にようやくそう結論づけると、志穂子は目の前のコンビニに足を踏み入れた。

 店内に入ると、志穂子はスイーツコーナーに向かった。金澤家の人たちが甘党なのは確証済みだ。
 咳込んでいたというから喉が痛いだろうし、柔らかいプリンやゼリーが良いだろうか。 それとも熱が高いので、冷たいアイスの方が良いかも知れない。商品を手に取りながら志穂子が真剣に悩んでいると、隣に人の気配を感じた。 邪魔にならないように、少しよけてスペースを作る。そして何気なく見上げると、そのまま志穂子は固まってしまった。
「あ……」
 志穂子が発した驚きの声に、隣の人物がこちらを向く。そして、その人物も驚いたように目を見開き、互いに見つめ合ったまま動けなくなってしまった。




 コンビニの向かいは、ブランコやすべり台という定番の遊具が設置された児童公園だ。
 降り落ちる雪に歓声を上げながら、数名の小学生たちが走り回っている。その脇のベンチで、志穂子は圭介と並んで座っていた。
「昨日は迷惑かけてごめん」
 決まり悪そうに目を逸らしながら、圭介が小さく志穂子に詫びる。
「ううん、わたしは何もしてないよ。加藤くんと野本くんが保健室まで運んでくれたから」
「熱で朦朧としてあんまり覚えていないんだけど、でも、みっともないところを見せて迷惑かけたから」
「そんなことないよ。それよりも、本当にもう大丈夫なの?」
 昨日熱で倒れた人が、雪が降る中でのんきにベンチで話していて良いのだろうか。少し話そうと提案したのは圭介だったが、彼の体調が気がかりな志穂子はおずおずと尋ねる。
「ああ、もう熱も下がってる。本当は走りに行きたかったけどそれはさすがに母親に止められたから、気分転換にコンビニに来たんだ」
 それは伯母も止めるだろうと半ば呆れながらも、圭介がすっかり元気になったことに志穂子はそっと安堵の溜息を洩らした。

「本当に走ることが好きなんだね」
「え?」
 コンビニで買ったロイヤルミルクティーの熱を掌の中で感じながら、志穂子は尋ねた。
「だって、熱があっても十キロ完走するし、熱が下がればまたすぐ走りたくなるんでしょ?」
「昨日は少し風邪っぽかったけど、もともと熱はなかったんだ。でも走ってるうちに熱が上がってきたみたいで、大丈夫だと思ってたんだけど、結局大丈夫じゃなくてみんなに迷惑かけた」
 きっと志乃が言った通り、体が丈夫な人が自分の体力を過信してしまったのだろう。
「迷惑をかけたけど、でも昨日は走りきらなければならなかったんだ」
 ひとりごとのようにそう言うと、圭介は缶コーヒーをごくりと飲んだ。
「陸上部の試合とかじゃなく、校内のマラソン大会なのに?」
「ああ」
 不思議に思って志穂子が尋ねると、きっぱりと圭介が言った。
「負けたくなかったんだ。絶対に」
 誰にだろう? 何にだろう? 尋ねてみたかったけれど何となくそれは躊躇われ、志穂子はただ曖昧に相槌をうった。

 空からは相変わらず粉雪が舞い落ちてくるが、それは小さくてとても積りそうにない。地面に落ちると、次の瞬間に溶けて消えてしまう。
「じゃあ、わたしそろそろ行くね」
 本当はもっと一緒にいたいけれど、相手は病み上がりだ。とりあえず元気になった姿を見られたので、当初の目的は達成した。志穂子はそう告げると、ゆっくり立ち上がった。
「まっすぐ帰る?」
「ううん。スーパーに寄ってから帰る。今日はお母さんたちデートだから」
「相変わらず仲良いな」
 同じく立ち上がった圭介は、飲み終わったコーヒーの空き缶を傍らのゴミ箱に投げ入れた。
「うん、新婚さんだからね」
 そう言って志穂子が肩を竦めると、圭介は小さく笑った。

「志穂子」
 やがて圭介が、改まったように志穂子の名前を呼んだ。思わず見上げると、真っ直ぐに圭介がこちらを見つめていて鼓動が急激に早くなる。
「叔父さんは、叔母さんや志穂子と家族になれて幸せだと思うよ」
 圭介の意外な言葉に、志穂子は目を瞬いた。そして控えめに、小さく微笑む。
「もしそうだとしたら、嬉しい」
 それは、紛れもない志穂子の本心だった。色々な思いにかられて悩んだこともあったけれど、今は母と和彦の幸せを心から願っている。 そして素直にそう思えるようになったのは、他でもない、目の前にいる圭介のおかげだった。
「叔父さんだけじゃない。父さんも母さんも兄貴も、志穂子たちと親戚になれて良かったと思ってる」
 無口な圭介が、尚も言葉を繋ぐ。予想外の言葉に、志穂子はただ彼をじっと見つめていた。
「俺も、そう思ってる」

「圭介くん……」
 心が震えて、泣きそうだと志穂子は思った。自分と母は、何と幸せ者なんだろう。こんなにも良い人たちに囲まれて、亡き父もきっと安心しているに違いないと志穂子は思った。
「やっと、名前呼んだ」
「え?」
 苦笑まじりに圭介が言う。志穂子は驚いて、思わず問い返した。昨日意識を失う直前にも何か言いかけていたが、それを言いたかったのだろうか。
「ずっと名前呼ばないし、急にいとこになって迷惑してるのかと心配してた」
「まさか……」
「俺はこんなだから、ほっしーやテルのように場を盛り上げることもできないし、吉本先輩のように会話をリードすることもできない。気の利いたことは何ひとつ言えなくて、居心地悪いだろうなっていつも申し訳なく思ってた」
「そんなことないよ」
 圭介の言葉を、志穂子はきっぱりと否定した。驚いたように、圭介が志穂子を見つめ返す。
「わたしは、圭介くんの短い言葉にいっぱい助けられたの」
「俺、何も言ってないと思うけど……」
 戸惑ったように圭介が反論する。けれども志穂子は構わず言葉を繋いだ。
「あの夏の終わりの日、わたしは圭介くんの言葉に救われた。確かに言葉は短かったけれど、確実にわたしの心に染みたの。 今、和彦さんと上手く家族関係を築けているのは、あの夜の言葉のおかげだとずっと感謝してる。本当に、ありがとう」
 そう言って、志穂子は頭を下げる。ずっとずっと伝えたかった感謝の言葉。全てを言葉で伝えきることは難しいけれど、自分の想いを少しでも彼に分かってもらえればと志穂子は必死だった。

「顔、上げてくれ」
 焦ったように圭介が言う。
「俺、そんな風に感謝されること何もしてないから」
「でも、わたしは感謝してるから」
 頑なに言い張ると、根負けしたように圭介が苦笑した。
「結構、頑固なのな」
「お母さんによく言われる。でも、間違ったことは言ってないから」
「やっぱり頑固だ」
 そう言って笑う圭介に、志穂子はどきりとした。思わず赤面しそうになって、慌てて俯く。
「わたしも、ずっと同じこと思ってたの」
 そうしてぽつりと、今までの想いを吐露する。
「わたしの方こそ気の利いたことが言えなくて、気軽に冗談を言い合っている志乃や加藤くんたちが羨ましかった。 いきなりいとこになって関わりができてしまって、同じ学校だし、迷惑じゃないかなってずっと不安だった。だから、さっきの言葉は本当に本当に嬉しかったの」


 どれだけ沈黙が続いただろうか。やがて、深く長い溜息が聞こえた。そっと見上げると、灰色の空に向かって圭介が白い息を吐いていた。
「俺たち、余計なことぐるぐる考えて馬鹿みたいだな」
 自嘲気味に圭介が笑う。本当に馬鹿だ。勝手に相手の気持ちを決めつけて勝手に不安になって、気を使いすぎて距離を作っていたのだから。
「まあ、似た者同士のいとこということで、これからもよろしく」
 そう言って笑った圭介の顔が思いのほか優しくて、息が止まりそうになった志穂子はただこくりと頷くことしかできなかった。

 嬉しかった。志穂子といとこになったことを、圭介は迷惑だとは思っていなかった。 不器用なふたりがいきなり志乃や太一たちのように砕けた関係にはなれないだろうが、それでもきっと、今日をきっかけに少しずつ距離を縮めてゆけるだろう。
 嬉しい筈なのに、けれども志穂子は心の奥底にちくりと痛みを感じた。圭介が志穂子と仲良くしようと言っているのは、あくまでもいとことしてだ。 一方で、志穂子は圭介をいとこ以上に見ている。いとことして距離を縮められたのに、もっと近くにいきたいだなんて、自分は何て欲張りなんだろう。
 やがて歩き出した圭介の後ろ姿を眺めながら、喜びと相反する痛みを胸の奥に抱えて、志穂子はその場から動けずにいた。

 ―― いつか気持ちが溢れて、どうしても想いを告げずにいられなくなる時がくるよ。

 不意に、志乃の声が蘇る。
 伝えたい。志穂子は心の底からそう願った。いとこという関係で告白して、相手に気を使わせたくないなんて綺麗事はもう言えない。溢れ出た想いは、もはや止めることはできなかった。
 いとこじゃ嫌なの。大きな背中に向かって叫ぼうとしたその瞬間、圭介の足が止まりこちらを振り返った。


「好きだ」


 彼は今、何と言った……?
 今まさに伝えようとした言葉を圭介に横取りされて、志穂子はぽかんと彼を見つめた。それは確かに志穂子の鼓膜を震わせたにも関わらず、脳がパニックを起こして内容をなかなか理解できない。 まじまじと呆けたように圭介を見つめると、いつの間にかこちらに戻って来た彼がやがてその大きな手で志穂子の視界を覆った。
「見すぎ」
 ぶっきらぼうにそう呟くと、再びくるりと踵を返す。
「えっ、ま、待って……」
 予想外の事態について行けず、志穂子は歩き出した背中を慌てて追いかけた。

「今の、どういうこと?」
 戸惑いながら、目の前の大きな背中に問いかける。
「そういうこと」
 返ってきた答は素っ気ないもので。けれども、ちらりと見える耳は赤く染まっている。そのことに気づいた瞬間、志穂子の頬は一気に火照った。

「わたしもだよ」
 勇気を出して、言葉を紡ぐ。
「それは良かった」
 振り返った顔がほっとしたように笑ったので、それは反則だと志穂子は心の中で抗議した。



 雪は、しんしんと降り続いている。
 凍てついた真冬の空気は肌を切るように冷たい筈なのに、体の内側から熱が発散されていて、ふたりは寒さを一向に感じない。
「寒いな」
 まるで赤面しているのが寒さのせいであるかのように、圭介が呟く。
「寒いね」
 同じく真っ赤に頬を染めた志穂子が、隣で小さく頷いた。

 


2012/08/31 


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