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サティヤムを貴方



二度編んだ娘 2


 カジャルが嫁ぐ相手は、彼女が生まれた時から決まっていた。
 そしてその相手は、今カジャルの隣に立っているラビではなく、彼の兄であるザビだった。

 カジャルの父は、代々村の長を務める家の生まれであるラビの父と同い年で、彼らは他の同年代の誰よりも気が合った。先に結婚した長は、当時はまだ先代が健在だったので跡継の立場だったけれど、男児を授かりザビと名づけた。それから間もなくカジャルの父も母と結婚し、やがて一人娘のカジャルが生まれる。そして彼女が誕生した時に、親友である父親ふたりは、互いの子供を許嫁にすることを思いついたのだ。
 五歳年上のザビは、とても優しかった。幼い頃からカジャルのことを可愛がってくれて、だから彼女はザビのことが好きだったし、彼の元へ嫁ぐことをずっと楽しみにしていた。
 けれども二年前の秋、ザビとカジャルの婚約はあっけなく解消された。

 マライ村の長の息子が担う大切な役割のひとつに、村人たちの用事を請け負って町へ下りるという務めがある。行きは町で売り捌く村の農産物、帰りは町でしか手に入らない日用品と、往路も復路も多くの荷物をヤクに積んでの移動となる為に村の若者も同行するが、道中の責任者は長かその息子だ。ザビも父である長について定期的に町へ下りていて、そのたびにカジャルに土産を買って来てくれた。甘い菓子だったり、珍しい柄の端切れだったり、美しい色の耳飾りだったり。土産自体ももちろん嬉しかったが、そうやって婚約者が自分の為に何かを選んでくれるという行為そのものが、カジャルは何よりも嬉しかった。
 そして二年前のその日も、ザビは弟のラビと村の若者と共に、冬支度の為に町へと下りた。カジャルはいつもと同じように見送り、いつものように帰りを待っていたが、彼は二度と彼女の元へは帰って来なかった。

 一日目は、普段と変わらず過ぎたという。朝早く出発した一行は昼過ぎには町に到着し、手分けして村人たちが育てた野菜や麦を売る。日が暮れる前にすべて売り切り、再び合流した彼らは宿をとった。疲れていたので早めに夕食を済ませて就寝したが、翌朝ザビの姿は消えていたのだ。彼は弟であるラビと同室だったが、ラビが目を覚ました時には既にベッドは冷たくなっていたという。部屋からは彼の私物である僅かな荷物だけが持ち出され、代わりに空色の髪紐が残されていたそうだ。
 その経緯を、カジャルは直接聞いたわけではない。両親がひそひそと話す内容を盗み聞きしたり、村の誰かが聞えよがしに噂するのを耳にしたり。だからカジャルが知っていることが真実かどうかは分からないけれど、ただひとつ、ザビが婚約者のカジャルに何も告げることなく去ったということだけは揺るぎのない事実だった。

   ***

「どういう意味?」
 カジャルは、恐る恐るそう尋ねた。先程まで太陽の反対側の空にはまだ青が残っていたが、今は空の殆どが橙色に染まっている。
「そのままの意味だよ。ザビ兄さんに町で会って来たんだ」
「そうじゃなくて、わたしが好きな色の話」

 忽然と姿を消したザビのことを、残されたふたりは町中探し回ったという。けれどもザビの足取りは掴めず、ついに彼らは諦めた。そして戻った次男から長男失踪の経緯を報告された長は、ザビはもはや長一族の息子ではない、マライ村の者ですらないと、村人たちの前でそう宣言した。
 そんな行方知れずのザビを見つけたのは、弟のラビだった。長はザビのことを切り捨てたが、ラビはどうしても父の言いつけに従うことができずに、時間ができれば町に下りて兄の足取りを追っていた。そうしてザビが姿を消して四ヶ月後、ついにラビは兄の消息を掴んだ。ザビは町外れに居を構えており、村人たちが下りて来る時期はもちろん普段も極力町へは近づかないようにしていたようだが、町で情報を掴めなかったラビが捜索範囲を拡大してついに兄の情報を入手したのだ。ラビは村へ戻り次第そのことを父親に報告したものの、もはや息子ではないから知らぬと長は突き放し、ザビも村へは二度と戻らない覚悟なので関係が修復されることはなかった。
 ザビの消息が判明した話を、カジャルは見つけた本人であるラビの口から聞かされた。だけどそれ以来、ふたりの間でザビについて話題にのぼることはなく、それでもカジャルはラビが兄の元を訪れていることに薄々感づいていた。だから今更、ザビに会ったと告白されても驚きはない。カジャルが引っかかっているのは、その前の言葉の方なのだ。

「わたしが空の色を好きなのは、ザビを思わせる色だからだと思っているの?」
「違うの?」
 カジャルの質問に対し、ラビはゆっくりと彼女を見つめるとそう問い返した。
 伝わらない。間もなく婚礼の儀を迎える筈なのに、カジャルの気持ちはひとつもラビに伝わっていない。彼は今もずっと、カジャルがザビを想っていると信じているのだ。

 ザビが姿を消してから間もなくして、カジャルの婚約者は弟のラビに代わった。ふたり揃って呼び出され、双方の父親からそう言い渡された。
 父親たちが決めたこととはいえ、さすがにすぐ受け入れられる話ではない。カジャルの婚約者は、生まれた時からザビに決まっていたのだから。きっとそれは、ラビも同じだった筈だ。兄の婚約者だと思っていた幼馴染と、いきなり結婚しろと命じられて葛藤があっただろう。
 だけど時が経ち、気持ちも変わる。幼い頃は何の憂いもない毎日を送っていたけれど、この二年間で様々な感情を味わって、傷つきもしたし困惑もした。だけどいつしか、それらの感情の負の部分は薄まってゆき、最後に残ったのはラビを好きだという気持ちだった。幼馴染という気恥ずかしさと、兄の代わりという気まずさと。そんな理由からか、彼は常に一定の距離をあけてはいたけれど。それでも傍にいてくれたことが、確実にカジャルの心の支えになったのだ。
 しかしながらラビは、自分は兄の身代わりだと思っているのだろう。カジャルを傷つけた兄の代わりに優しくして、守って、そして夫となる。そうすることが身内としての償いだと信じているからこそ、カジャルがラビの言葉に一喜一憂していることに気づかないのだ。

「だったらどうするの?」
 未だにザビを想っていると勘違いされていることがもどかしくて。やはり兄の代わりはできないと言い出されるのが怖くて。
 だからカジャルは、愚かにも相手を試すような質問で返した。俺のことを好きになれよとか、俺は好きだから関係ないとか。彼女は安直に、安心できる言葉を欲してしまったのだ。
 ラビがカジャルのことを好きじゃなくても、それでも彼は結婚しなければならない。いくら長の一族とはいえ、二度も同じ相手との婚約を破棄することは面目が立たないからだ。これ以上カジャルの顔に泥を塗ることはないだろうから、ラビならばきっと安心できる言葉をくれるだろう。例え偽りであっても、安心できる言葉が欲しかった。
「どうもしないよ」
 けれども返ってきた婚約者の声には抑揚はなく、感情を殺した声音にカジャルは絶望した。

「泣くなよ」
「無茶言わないで」
 そう言われて、カジャルは思わずラビを睨んだ。カジャルだって泣きたくなんかない。だけどぽろぽろと零れ落ちる滴を、止める方法が分からないのだ。
「婚約者のことを好きなのに、信じてもらえないのだもの。好きな人と結婚するのに、好きにはなってもらえないのだもの」
 だから涙を止められるわけがない。そう抗議してみたものの、それは完全に八つ当たりだった。いくら婚約者だからといって、それは親同士が決めたことであり、好きになることを強制することは不可能だ。だからザビも、そしてラビもカジャルのことを愛することはできないということで、けれどもそれは彼らの責任ではない。分かってはいるけど悲しくて、だから感情を爆発させてみたけどそれはまるで子供の癇癪で。カジャルは顔を逸らすと、みじめな気持ちで空を見上げた。
 いつしか空は橙色の欠片だけを残し、すっかり藍色に塗りつぶされていた。それはラビの髪に結われている、髪紐と同じ色だ。カジャルが婚約者の為に編んだ、サティヤムと同じ色だった。



2020/06/02

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