サティヤムを貴方に
二度編んだ娘 1
山あいにあるマライ村では、結婚が決まるとサティヤムと呼ばれる髪紐を互いに贈り合う。婚約者となる相手を想いながら編んだそれで髪を結わえるのが、昔から伝わる風習なのだ。
そして間もなく婚儀を迎えるカジャルがサティヤムを編んだのは、これが二度目だった。
***
「ラビとジンが帰って来たわ!」
薪を拾い集めていた女衆のひとりが、そう声をあげた。弾んだ声につられてカジャルが視線を向けると、ここから山道を下った場所、彼女たちの住むマライ村の玄関口でふたりの若者がヤクの背から積み荷を降ろしているのが見える。遠目にその姿を認めて、カジャルはほっと小さく息を吐いた。
マライ村の夏は短い。だから涼しい風が吹きはじめたらすぐに、春に種を撒いて育てた野菜や麦を慌ただしく収穫し、それから長い冬の備えをしなければならないのだ。男たちは狩りに出て干し肉を作り、女たちは薪を集める。そして村を代表して数名が町まで下りて、収穫した野菜を売り、代わりに山では手に入らない物を購入するのも冬を迎える前の大切な準備だった。
やがて拾い集めた薪を紐で縛って背負うと、カジャルは山道を下って集落の方へと戻る。
「ラビ、頼んでいたナイフは買って来てくれたかい?」
町から戻って来たという知らせを受けて、そこにはいつの間にか多くの村人が集まっていた。頼んでいた品物が手に入ったかどうか、そわそわしながら皆が口々に尋ねている。
「ユニサおばさんのナイフはこれ、シバから頼まれたのはこっちだ」
同行していた者が積み荷を解き、ラビが依頼主へ次々と手渡してゆく。すっかり背中が軽くなったヤクたちは、誰かが汲んできた水をのんびりと旨そうに飲んでいた。
山の上の痩せた土地に生きるマライ村の人々の暮らしは、決して豊かとは言い難い。家畜のヤクも個人で所有するのは難しく、村の財産として長が管理し、村人たちが交代で世話をしている。そして町へ買い出しに出る役目は、三年前から長の息子であるラビが務めるようになっていた。
「声、かけないの?」
「忙しそうだから、あとにするよ」
一緒に薪拾いに出ていた幼馴染のイーシャとサディーナが、そう尋ねてくる。人だかりから少し離れた場所に立っていたカジャルは、彼女たちの問いに小さく首を振った。
町に下りた者たちが帰って来ると、いつも村はお祭り騒ぎとなる。自分たちが育てた野菜がいくらで売れたか、ずっと欲しかった物は手に入ったか。大人も子供も気になって、家から飛び出して来るのだ。そんな村人たちの楽しみを邪魔したくなくて、カジャルは背負っている薪を自宅に置きに戻る為にその場を離れようとした。
「よう、カジャル。ラビはちゃんと帰って来て良かったな」
不意に、からかいを含んだ声が耳に入る。振り返ると、小柄な男が薄ら笑いを浮かべながら立っていた。
「ちょっと何よ、その言い方!」
「ええ、そうね」
今にも噛みつきそうなイーシャを宥め、カジャルは表情を変えずにさらりと肯定する。けれども男は娘たちの示す不快感など意に介した様子も見せず、にやにやと笑いながら更に呷ってきた。
「さすがに二回も逃げられたら、たまったもんじゃないからな」
すると、男の存在を無視するかのようにサディーナが口を開いた。
「ねえカジャル、わたし背中が痛くなってきたわ。そろそろ帰らない?」
先程までそんなことは一言も言っていなかったので、この場を立ち去る為の嘘だと思うけれど、カジャルは友人の助け舟にありがたく乗せてもらうことにする。
「大丈夫、サディーナ? ごめんなさい、わたしたちはこれで……」
男の脇をすり抜けて、三人の娘は村人たちの輪の反対側へと歩き出す。つまらなそうな表情で立ち去った男の背中に向かって、イーシャが忌々しげに舌を出した。
「わざわざ嫌味を言いに来るなんて暇な奴!」
「カジャル、あんなの気にしたら駄目だよ。それより早く薪を置いて、ラビに顔を見せてあげたら」
イーシャは友人の為にぷりぷりと怒っていて、サディーナは気遣わしげにそう声をかけてくれる。同じ年に生まれたカジャルたち三人は、幼い頃から常に一緒で、家族と同じくらい大切な存在だった。
「そうだよ、早く行ってあげな。婚約者の顔が見えないと寂しがるよ」
「いや、わたしたちはそんな感じじゃないし」
「えー、何でよ。もうすぐ夫婦になるんだから、もっと甘い感じで行こうよ」
ようやく怒りが収まったイーシャだが、今度は目をきらきらと輝かせてはしゃいでいる。先程の嫌な気分を振り払おうとしてくれるのはありがたいけれど、その要求にはどう答えて良いのか困る。思わず苦笑いを浮かべたカジャルに対し、またもやサディーナが助け舟を出してくれた。
「幼馴染の時間の方が断然長いから、まだ婚約者の立場は慣れないわよね。きっとこれからだよ」
この村でカジャルと同じ年なのは、親友であるイーシャとサディーナと、そして婚約者のラビだ。
村の子供たちは全員が兄弟同様に育てられるのだが、四人も例外はなく、年の近い子供たちと一緒くたにして扱われた。けれど、村では十三歳になると一人前とみなされ、常に一緒に行動していたのがその頃を境に男女で分かれるようになる。与えられる仕事が異なるので自然とそうなってしまうのだが、異性を意識してしまうのも大きな理由だ。幼い頃は毎日のように共に村を駆け回っていたラビとも、いつの間にか挨拶をかわす程度になってしまった。だけどふたりの関係がぎこちなくなったのには、他に要因がある。
「カジャル」
ラビの家に向かって歩いていると、向こうからやって来た婚約者が彼女の名を呼んだ。
「カジャルの家に行く途中だった」
「うん、わたしも」
些細な偶然が嬉しくなって、思わず口元が緩んでしまう。小走りでラビの元に寄って、それから集落とは逆の方向へ続く細い道を並んで歩きはじめた。冬が近づくにつれて昼間の時間が短くなっており、少し太陽が傾きかけている。
「道中、何もなかった?」
「野菜はいつもより高値で売れたし、頼まれた物も全部手に入ったし、今回は順調だった」
「良かった」
子供の頃は全速力で駆け上がった坂道を、今はゆっくりと歩く。隣にひとり分くらい間をあけて、けれどもふたり並んで歩く。行先は、お互い口にしないけれど決まっていた。
坂道の先には大きな石段があり、いつものように大股で上ろうとしたら、無言で手を差し出された。幼い頃に繋いだ小さな手はいつのまにか筋張った大きな手になっていたことにも、不意打ちで女性扱いされたことにも動揺し、反射的に大丈夫だと答えてしまう。そのまま自力で上がったカジャルに、ラビは何も言わなかった。
そこは幼い頃に年の近い子らと一日の大半を過ごした、カジャルのお気に入りの場所だ。村で一番高い場所にあり、村を一望することができる。そして、空を近くに感じることができた。
「そうだ、忘れないうちに渡しておく」
ラビはそう言うと、懐から糸の束を取り出した。
「どうしたの、これ?」
「カジャルへの土産」
短くそう言うと、糸の束をカジャルの手に押し付けてきた。
村では冬になると、畑仕事の代わりに女たちは機を織り、男たちは木の枝や皮で籠などを作る。春になればそれらを町で売り捌き、再び必要な日用品などに換えるのだ。カジャルも他の娘たちと同様に、母から機織りの技術を学び、去年の冬に織った布ははじめて買い手もついていた。
「ありがとう、綺麗な色ね」
カジャルは手の中の糸を見つめると、思わずうっとりとした口調で呟いた。それは淡かったり濃かったり、様々な種類の青だった。
「きっとカジャルが好きな色だと思ったから」
「うん、一番好きな色」
「カジャルは昔から青空が好きだからな。去年織った布は、春の空の色をしていた」
さらりとラビが口にした言葉に、カジャルは思わず彼の顔を見つめた。
「違った?」
「違わない」
ラビの言うとおり、カジャルは空の色が好きだった。幼い頃は早く帰って来なさいと親に叱られるまで、飽きもせずに空を眺めていたものだ。だから布を織る際にも、好んで空の色を使う。最近では細かい文様を編み込む意匠が流行りで、サディーナが得意としているのだけれど、カジャルは色の濃淡で表現する方が好きだった。その布を売りに行ってくれているのがラビなのだから、カジャルが好きな色を知っていても不思議はない。けれど、淡い色で織ったあの布が、春の空を表していることに気づく人がいるとは思わなかった。それがラビであったことに、カジャルの胸がとくりと音をたてる。
「カジャルが好きな空の色。明るい兄さんを思わせる色だ」
とくりと鳴った胸の音が、どくどくと嫌な音に変わってゆく。
一体ラビは何を告げようとしているのだろう。恐る恐るカジャルが傍らの婚約者を見上げると、彼は村のもっと先の、山の麓のあたりを見つめていた。その黒髪はひとつに束ねられ、藍色の紐で結ばれている。夕暮れの空は、じきにその髪紐と同じ色に染まるだろう。
やがて、静かにラビが口を開いた。
「町で兄さんに会って来たよ」
2020/06/01