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散らない日葵



19. 十年分の出会いを胸に、それでは笑顔でさようなら


 三月最後の日は、春らしく少し霞んだ淡い色の空が広がっていた。
 昨日、最後のチェックインを終えたソレイユホテル本宮中央は、本日最後のゲストを送り出して三十三年の歴史に幕を下ろすことになる。

「みんなと働くのがこれで最後だなんて、何だか信じられないね」
 連泊ができないせいか昨夜の稼働は低く、平日の朝とは思えないくらい落ち着いている。誰もいないロビーを眺めながら、律子はそう呟いた。閉館が決まって既に退職した人もいるが、最後まで残ったスタッフは本日全員出勤しており、ゲストを見送る為にロビーに並んでいる。
「僕は一年しか皆さんと働けなかったですけど、寂しいです」
「でも、わたしと小久保くんとはこれからも同じ会社だから、研修なんかで会う機会があるかも知れないね」
「はい。その時はよろしくお願いします!」
 昨春に新卒で入社した小久保が、律子の言葉に明るくそう答えた。相変わらずのワンコ気質だが、この一年で凛々しい成犬になった気がする。入社一年で配属先が閉館になる小久保のことが一番気にかかっていたのだが、それは上司も同じだったようで、四月から北海道に転勤が決まっている部長がついて来ないかと誘ったらしい。遠いので断られるかも知れないという予想に反し、彼は行くと即決したという。実は父親が転勤族で子供の頃は日本全国を点々としたらしく、本人曰く、見知らぬ土地でもすぐに順応できるのが特技なのだそうだ。
「皆さん、ぜひ北海道に遊びに来てくださいね。それまでに色々と案内できるよう、美味しいお店を探しておきますから」
 その言葉に、安い寿司屋を探しておけとか旨いラーメン屋を紹介しろだとか、先輩たちが口々に指令を出す。笑いながらそのやりとりを聞いていた律子は、いつか本当に訪ねたいなと思った。その時にはきっと、今よりももっと立派なホテルマンに成長していることだろう。

「北海道への転勤を決めた小久保くんもすごいけど、滝くんはもっと思い切ったよね」
 未だ北海道のグルメについてあれやこれやと語っている小久保たちを見やりながら、律子は隣に立つ滝にそう声をかけた。何と彼は五月から一年間、ワーキングホリデービザを取得してカナダで暮らすというのだ。以前、辻内に転職先を紹介されたが断ったと聞いていたが、その時にはもう決めていたのだろう。
「前からワーホリに興味はあったけど、さすがに仕事を辞める勇気はなかったので、ある意味良いきっかけになりました」
「カナダか。行ってみたいなあ」
「残念ながら、矢野さんはワーホリでは無理ですけどね」
「どうせわたしは年齢制限超えてますよ!」
 この後輩は相変わらず意地が悪い。国にもよるがワーキングホリデービザを取得できる年齢は三十歳までなので、三十一歳の律子は無理だとからかっているのだ。
「そういうつもりで言ったわけではないですよ。矢野さんは辻内課長について行くので、ワーホリは無理でしょうという意味です。だから新婚旅行で来てください」
「しっ、新婚旅行って……!?」
 いつも飄々としている後輩はどんな時も決してパニックにならず頼りになる存在だったが、最後まで小憎らしい。律子が動揺するさまを眺めながら愉快そうに笑うその整った顔を、彼女はじろりと睨んだ。

「え、律子さんたちカナダに新婚旅行に行かれるんですか?」
 すると先程までジンギスカンについて熱く語っていた筈の浜崎が、急に目を輝かせて会話に参加してくる。
「行かないし。そもそも結婚の話なんてしていないから」
「えっ、既に新居を購入して、夏にトゥルヌソルの近くの教会で式を挙げると聞きましたけど?」
 先日の飲み会で感情のコントロールができずに泣き出すという醜態を晒し、辻内と一緒に途中退席した律子だが、次の出勤の時には全員に生温かい笑顔で迎えられた。迷惑をかけたことを詫びようとしても、気にするなと言ってにやにやと笑うだけで謝らせてはもらえない。その代わりに同僚たちの間では勝手な妄想が繰り広げられ、デマと真実が錯綜して、ようやく想いが通じた奥手の三十路カップルはすっかり職場のおもちゃに成り果てていたのだ。
「なっ、その具体的なスケジュールはどこから出てきたのよ!?」
「でも、一緒に住まれるんでしょう?」
「それは……」
 律子がしどろもどろになると、浜崎がほらねと指摘する。いずれ籍を入れるのでしょうと、既に結婚が決まっている三宅にも笑われた。

 一緒に住もうと持ちかけたのは、辻内の方だ。
 当初律子は、それぞれの職場の近くに家を借りるつもりでいた。ソレイユホテル向陽駅前とホテル・トゥルヌソルは車で四十分程なので、別々に住んでいてもシフトによっては仕事帰りに会うことはできると思っていたからだ。けれど辻内は、律子の新しい職場に近い向陽駅前に家を借りてふたりで暮らしたいと、ネットで検索した物件の間取り図面を見せてきたのだ。
「お互い不規則な仕事だから、別々に住むよりも、少しでも一緒にいられる時間を増やしたい」
 一緒にいたいのは律子も同じで、好きな人にそんなことを言われて断る理由なんて見つからない。ただひとつ不安があるとすれば、緊張で心臓がどうにかなってしまわないかということだけだ。
「この年で同棲なんてご両親は良く思われないだろうから、ちゃんと挨拶に行く。結婚を前提に同棲させてくださいって」
 いや、一緒に暮らす前に心臓は壊れてしまうかも知れない。辻内のあまりに誠実な言葉に、律子は赤い顔でただ頷くしかできなかった。これまでも辻内は、先輩として上司として、律子のことを大切にしてくれた。だけど恋人になった今、大切にされる度合いが大きくて、日毎に幸福感が増すばかりだった。
 けれど、ゆくゆくは結婚をしたいと匂わされたものの、はっきりとプロポーズをされたわけではない。何せふたりはようやく長い間拗らせていた想いを互いに確認し合ったばかりで、そもそもこれから新しい職場での生活がスタートするのだ。まずはお互い仕事に慣れるのが先決で、浜崎が言うようなことは何ひとつ決まっていなかった。

「あちゃー、そうでしたか。一緒に住まれると聞いていたし、結婚の噂も本当だと思って水野様にもそう言っちゃいました」
 そう言って、浜崎がてへへと笑う。
「はあ、水野様に!?」
「先日、最後のご利用の日に、わたしたちのこれからについて気にかけてくださって。わたしはシティホテルのベルガールとして働くことが決まったとお伝えしたら、お祝いだと言ってケーキを買って来てくださったんです。その時同じシフトで三宅さんも入られていて、結婚されることを知るとすごく喜ばれて。律子さんもですよと付け加えたら、すごくびっくりされていました」
 延泊するかも知れないと言っていた水野は結局、四泊したのちにチェックアウトした。そしてそれが、水野にとって最後の滞在となった。四泊目は律子が公休だった為、その前に挨拶を済ませていたのだが、どうやらそのあとに浜崎と三宅が色々と雑談を交わしたらしい。
「もう! 水野様にそんな嘘情報を流して」
 呆れたようにふたりを見やると、後輩たちはすみませんと頭を下げる。けれどもそのあとに、浜崎が大して悪びれもせず言葉を繋げた。
「でも、辻内課長は水野様に挨拶されていましたよ」
「挨拶?」
「水野様はすっかり律子さんのお父さん気分で、お相手が辻内課長だと知ると、課長に何度も幸せにしなさいって念押しされて。課長は真面目な顔で大事にしますって。それを聞いて、わたしたちふたりでキャーってなっていたんです」
「聞いているこっちが照れたよね」
 浜崎と三宅がふたりで顔を見合わせ、その時の様子を興奮気味に説明してくれる。そんな話は聞いていない。律子は恥ずかしくて嬉しくて、後輩たちの前でどんな表情をすれば良いのか分からずにわざと仏頂面を作った。そんな律子のことを他のスタッフたちが楽しげに眺めていたが、彼女は気づかないふりをしてキーボードを叩き、先程から変わっていないチェックアウトの残数を確認した。

 不意に、エレベーターが開く音が響く。にやにやとした笑みを浮かべていたスタッフたちは、瞬時にホテルパーソンらしい笑顔に貼り換えて背筋を伸ばす。エレベーターから降りて来たのは、パンツスーツを着た若い女性だった。ロビーに並ぶスタッフの姿に一瞬たじろいだものの、やがて彼女は真っ直ぐに律子の立つフロントカウンターへ近づいて来た。
「チェックアウトをお願いします」
「少々お待ちくださいませ」
 いつものように、差し出されたカードキーを受け取って部屋番号を入力する。数えきれないくらい何度もこなしてきた業務は、自然と流れるような動きになる。
「追加のご精算はございません。こちらはご利用の領収書でございます」
 会社名で印字された領収書を提示して、内容に間違いがないかの確認を促す。ゲストがさっと目を通して頷くのを見て、ありがとうございましたと頭を下げる。またひとり、去ってゆく。
 けれども彼女は、領収書を鞄の中にしまっても立ち去ろうとはしなかった。何か、あるのだろうか。律子は微笑を浮かべながら女性客の顔を見つめた。名前に覚えはないが顔は見たような気がするので、以前にも対応したことのあるゲストかも知れない。そんなことを考えていると、目の前の女性が躊躇いがちに口を開いた。
「あの、先日はありがとうございました」
 そう言って頭を下げられたが、律子には何に対するお礼なのかが分からない。水野のようによく会話をする常連客はもちろん、話をすることがなくても頻繁に利用してくれるゲストの顔と名前は一致している。けれども彼女は、そこまで頻繁に利用があったという記憶がないのだ。

「うっかり捨ててしまったメモを、見つけていただいた者です」
 律子が分かっていないと判断したのだろう。苦笑いを浮かべながら、その女性はそう付け加えた。その瞬間、律子はあっと声をあげそうになる。年明けすぐくらいに、連泊中のゲストからメモがなくなったとの連絡を受けて、辻内とふたりでゴミ袋の中身をひとつひとつ確認して探し出したことがあった。
「ちょうどこちらで打ち合わせがあったので、最後に宿泊させていただきました。もう一度お礼をお伝えしたいと思いまして」
「わざわざありがとうございます」
 あの時も、彼女はお礼として近所のコンビニで買ったジュースを差し入れてくれたが、何と律儀な人だと律子は思った。
「メモを失くしてパニックになっていたわたしに、落ち着いて対応してくださったことでこちらも冷静になれました」
「そんな、とんでもございません。あの時はたくさん差し入れをいただき、こちらの方こそありがとうございました」
 本当は落ち着いた振りをしていただけで、内心は見つからなかったらどうしようとひどく焦っていた。けれど、どんなイレギュラーな事態に陥ってもこちらが動揺するとゲストもパニックになるので、余計な混乱やクレームを避ける為に常に冷静さを保たなければならない。入社してすぐの頃に辻内に言われた教えは、どうやら上手く守れていたようだ。
「実は打ち合わせからすべてをはじめてひとりで任されて緊張し、ミスを犯して先方からお叱りを受けてすっかり余裕をなくしていて。だけどあの時、冷静に迅速に対応いただいて、落ち着いた対応がどれだけ相手に安心感を与えるのかに気づかされました。まだまだ取引先には信用してもらえるまでに至ってはいませんが、もうちょっとしっかりしなければと、あの件がきっかけで気持ちを入れ替えたんです」

 ああ、やはりわたしはホテルの仕事が好きだ。律子はしみじみとそう思った。
 理不尽なクレームや面倒なリクエストも多いけれど、ゲストからの感謝の言葉がそんな苦労を簡単に吹き消してしまうのだ。閉館の日に、その言葉を伝えに来てくれたことを心の底から感謝する。
「ありがとうございます。私共は本日で閉館いたしますが、今日いただいたお言葉はずっと忘れません」
 お仕事頑張ってくださいね。そう言って律子が微笑むと、女性客は嬉しそうに頷いた。一期一会。このフロントで多くの人を出迎え、時に叱られ時に感謝され、送り出してきた。ここで生まれた交流は、この先も律子にとって貴重な財産となってゆくだろう。



 やがて十一時を過ぎて最後のゲストを送り出したあと、事務所から出て来た部長と辻内がエントランスの自動ドアを施錠した。ソレイユホテル本宮中央では到着が遅いビジネスマンもいる為、深夜でも入口を閉めることはなく、常にゲストを受け入れてきた。けれど役目を終えたホテルの扉は、もう二度と開くことはない。律子は今まで一度も使うことのなかった鍵で施錠する様子を、じっと眺めていた。
「お疲れさま」
 不意に、背後から声をかけられる。いつの間にか、同期入社の真理が隣に立っていた。経理補佐の彼女はもうひとりの経理担当と共に、朝から最後の売上計算を行っていたのだが、どうやらすべての業務が終わったようだ。
「終わっちゃったね」
「うん、終わっちゃった」
 ゲストのいないホテルに、もはや律子たちの役目はない。あとは総支配人と本社から派遣される担当者が残務処理を行い、買収先の企業へ引き渡されることになるのだ。
「ねえ、みんなで写真撮ろうよ」
 しんみりとした空気を吹き消すように、デジカメを見せながら真理が提案した。
「わーい、撮りたいです!!」
「いいね。営業していたら、ぜったいフロントで集合写真なんて撮れないもんね」
 シフト制なのでスタッフ全員が集まることもないし、ゲストがいるのでロビーで記念撮影などできる筈もない。皮肉なことに閉館するからこそ撮れる写真だが、皆そのことは口にせず、はしゃぎながら身なりを整え始めた。

「じゃあ、律子は辻内課長の隣ね」
「ええっ!?」
 やがて当たり前のように真理はそう言うと、律子を辻内の方へぽんと押す。今まで上司と部下の関係だったのに、周囲に恋人だと思われるのが何だか気恥ずかしくて、思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
「何よ、その高校生みたいな反応は」
「いや、だって、背の高さが違うし……」
 呆れたように溜息をつく真理に対し、律子はそう言い訳をした。実際に背の低い律子は前列に立つつもりで、長身の辻内が最後尾に並ぶことに何の疑問も持っていなかったのだ。
「ふたりで並んで前列にしゃがみなよ。長い間、ソレイユホテル本宮中央を支えてきた師弟コンビなんだからさ」
「よし矢野、並ぶぞ。最強師弟コンビで記念撮影だ!」
 真理の言葉に、辻内が律子の手を引いて前に出た。誰かが最強バカップルだろうと野次を飛ばし、総支配人や部長まで笑っている。
「じゃあ、一年だけだったけど俺たちも師弟コンビだから手を繋いどくか?」
 不意に滝がぼそりと呟く。次の瞬間、女性陣は黄色い歓声をあげ、男性陣はやんやの盛り上がりだ。
「た、た、滝さん! 彼女さんがいるのに、からかわないでください!?」
 最後までいじられキャラの小久保は面白いくらいに動揺し、真顔で手を差し出す滝に対して必死で抗議していた。

「滝くんと小久保くんは、辻内矢野コンビには逆立ちしたって敵わないんだから対抗心燃やさないの。ほら、とっとと並んで」
「別に対抗するつもりはないですよ。さすがに入社前から辻内課長に憧れている矢野さんに、俺と小久保が敵うわけないんですから」
 デジカメを持った真理がさらりとそう言って滝を並ばせ、列を整える。真理の言葉に、滝もまた何でもないことのようにさらりと返した。
「は?」
 じゃあ撮るよ、真理がフロントカウンターに置いたデジカメのセルフタイマーをセットしながら声をかける。その段になって、ようやく律子は真理と滝の言葉に反応した。
「入社前からって、何で!?」
「わたしたちの代の会社説明会で、先輩社員として辻内課長が登壇されていたんでしょう? わたしは全然覚えていないけどさ。それでその時の課長の言葉を、律子が今も大事にしているという健気な話を聞いちゃったのよ」
「はあ、誰がそんなこと!?」
 顔が真っ赤に染まるのを自覚しながら律子が真理に尋ねると、隣で後輩があっさりと白状した。
「桐谷課長です。先日の飲み会で酔った律子さんが、あの言葉を聞いてソレイユへの入社を決めたと仰っていましたよね? それを聞いた桐谷課長が、その時の会社説明会で登壇したのは辻内課長だと教えてくださったんです」
 異様に目をきらきらとさせながら、浜崎が熱く語っている。隣で三宅もにこにこと笑いながら聞いていた。酔ってぽろりと零した言葉から、まさか誰にも秘密にしていたことが今更露呈していたとは。律子は恥ずかしさに耐え切れず、顔を覆った。

 シティホテルを第一希望にしていた学生時代の律子は、ビジネスホテルであるソレイユホテルの会社説明会に軽い気持ちで参加していた。けれども先輩社員として長身の男性社員が語った言葉が、それまで漠然とした憧れでホテル業界を目指していた律子の視界をクリアにしたのだ。
「イケメンだったの?」
 以前、学生時代の友人である実花にこの話を聞かせた時、彼女はそうからかってきた。曖昧に笑って流したけれど、本当はホテルの仕事に真摯に向き合っている姿を素敵だと思ってしまった。そして何とか採用試験に受かった律子は、志望するきっかけとなった当人がいるソレイユホテル本宮中央に配属され、更には指導担当として直接仕事を教えて貰える奇跡を手にした。
 律子が辻内に憧れ、目標としていたのは、何も入社してからではない。その前からずっとずっと、辻内壮吾という男の背中を追っていたのだ。
「あー!! みんな早く写真撮るよ。今、辻内課長が超レアな顔しているから!」
 楽しげに声をあげる真理につられ、律子は思わずそっと隣の辻内の顔を盗み見る。すると真理の言うとおり、今まで見たこともないくらい真っ赤に照れた顔の辻内が、きまり悪そうに睨むとぺちんと律子の額にデコピンした。
「そんな話、聞いたことないんだけど……」

 結局、ソレイユホテル本宮中央で共に働いてきた仲間たちと撮った貴重な写真は、真ん中に座るふたりが盛大に赤面しているものとなった。
 総支配人や部長にまでからかわれ、最後の最後まで全員のおもちゃにされてしまったのは不本意だけど、その代わり涙は一滴も出なかった。十年間働いてきたその場所を、仲間たちと笑い合いながら去ることができたのだ。
 そして四月、それぞれが自分自身で選んだ道を、新たに歩き始めたのだった。

 

2017/06/27

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