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散らない日葵



18. 働くわたしの為に、それから恋するわたしの為に


 平日の午後のビジネスホテルは、チェックインが少ない。利用者の大半を占める出張客は、夕方以降に到着する人が殆どだからだ。忙しさのピークを迎える前の落ち着いたひとときを、けれども常連客の朗らかな声が一気に賑やかなものにした。
「よう、矢野さん。チェックイン頼むわ」
「水野様、いらっしゃいませ」
 某菓子メーカーの関西支社に勤める水野は、毎月月初と月半ばの二回、ホテル近くに位置する本社での会議に出席する為に泊まりに来る。律子は常連客を笑顔で迎えると、手早く宿泊システムに水野の名前を入力して予約内容を確認した。
「今回は三泊でございますね。いつものお部屋をご用意しております」
 出張の多い常連客は、色々と部屋の好みがある人も多い。客室でゆっくりと水割りを飲むことが密かな楽しみだという水野は、製氷機に近い部屋が希望らしい。ソレイユホテル本宮中央には三階と七階にしか製氷機がないので、それ以外の階だと少々面倒だというのだ。以前、雑談の中でちらりとそのような話を聞いて以来、律子は水野の部屋を三階か七階で用意するよう顧客情報に引き継いでいる。もちろん今日も、七階にあるシングルルームが用意されていた。

「ありがとさん、助かるわ。ところで泊数やねんけど、三泊より延びるかも知らんねん。今回はいつもの会議の他に色々雑務もあるし、ええ加減こっちで住む家を探さなあかんし、やることがぎょうさんでなあ。もし延びるようやったらまた言うさかい、延泊したってや」
 水野の勤める会社では全国六ヶ所に支社があるらしいが、その営業部門を統括する部署が四月より本社に設立されることになり、その責任者として水野が着任するという。これまでは本社会議に出席するだけだったので一泊の利用だったが、その諸々の準備で連泊になるらしいのだ。
「それでしたら念の為、四泊目以降もお部屋を押さえておきますね。木曜日が満室に近い状況でございますので、当日だとお部屋のご用意ができないかも知れませんので。ご予定が確定されましたら、またフロントにお知らせくださいませ」
「木曜は満室か。ほな、キャンセルするかも知れんけど押さえといてくれるかいな」
 かしこまりましたと笑顔で頷くと、律子は手早く宿泊システムの泊数を変更し、七階の部屋のカードキーを用意する。支払いを終えた水野が釣銭を財布にしまいながら、ふとひとりごとのように言った。
「やっぱりわしは、人を見る目があるなあ」

 しみじみと呟かれた言葉の意味をはかりかねて、律子はカウンター越しに水野の顔を見上げた。
「矢野さんをスカウトしたわしを、自画自賛したんや」
 問いかけるような律子の表情に答えるように、水野は茶目っ気たっぷりに笑いながらそう言った。
 年が明けてソレイユホテル本宮中央が三月末で閉館になることを公表した際、水野は自分が責任者として就く新しい部署の事務員として働かないかと律子に声をかけてくれた。理由ははっきりとしないが、どうやら律子の仕事ぶりを評価してくれていたらしい。悩んだ末に、この先もホテルで働きたいと断ったのだが、新しい仕事にチャレンジしてみようかと心が揺れたのは事実だ。
「今の予約のこともそうやし、いつも用意してくれる部屋の階数のこともそうや。わしら宿泊客と交わす短い会話の中から色々と汲み取って、さりげなく気遣いを見せてくれる。それは営業事務に一番必要な要素で、だからわしは矢野さんにうちに来て欲しいと思ったんや」
「でも、お客様に対してそれは当たり前のことで……」
 ゲストといかにコミュニケーションをとり、そこからいかに彼らの要望を見つけ出すか。それはサービス業に従事する者として当然のことであり、何も律子が特別なわけではない。水野の言葉は大袈裟な気がして、律子は恐縮してしまった。
「確かに当たり前かも知れへん。でもな、それができてへん人もぎょうさんおるんや」

 ピアノ曲が静かに流れるロビーには、水野しかいない。フロントには先程まで三宅もいたが、問い合わせの電話を受けて何やら確認しに奥の事務所に入ったままだ。
「お客さんが皆、わしみたいにお喋りなわけやあらへん。以前電車の路線を聞いてきた無口そうなお客さんに、さりげない会話で行先を聞き出して、それやったらバスの方が安くて便利やと時刻まで調べて案内したことがあったやろう? その時にわしは隣でチェックアウトしとってな、さすがプロやなあと感心しとってん」
 いつの話か律子には記憶がないが、これまでに出張で様々なビジネスホテルに泊まっているであろう水野から、プロだと認められたのは何よりも嬉しいことだった。
「自分だけやない、若い子らが接客してる時にも気づいたらフォローに入り、色々とアドバイスしてたやろう? 営業事務もな、相手が宿泊客か営業社員かの違いだけで、ホスピタリティーちゅうやつが必要なんはホテルマンと同じなんや。気持ち良く営業に出てもらう為に細かいところに気を配り、一歩先を読んでサポートして欲しい。矢野さんやったら、適任やと思うたんや」
「勿体ないお言葉をありがとうございます。わたしがやっていることは全部先輩の真似で、だからそんな風に褒めていただくのは気恥ずかしいのですが、すごく嬉しいです」
 今まで頑張ってきたご褒美だろうか。ホテルで働く者として、これ以上嬉しい言葉はなかった。目が潤みそうになるのを誤魔化しながら律子が笑みを浮かべると、水野がしみじみと優しく言った。
「そうか、ええ先輩に恵まれたんやな」

 そうなのだ、自分はとても恵まれていたのだ。ホテルパーソンとして律子が目指したのは、先輩であり上司である辻内で、だから水野のその言葉は何よりも嬉しかった。
「はい、その先輩はわたしの理想のホテルマンです。だからわたしももっと良いサービスを目指したくて、水野様のお誘いは本当に嬉しかったですけど、これからもホテルで働きたいと思いました」
 律子の言葉に、細い目をより細めて水野が頷いてくれる。
「水野様、わたしは四月よりソレイユホテル向陽駅前に異動することが決まりました」
 律子の報告に、水野は驚いた表情を見せる。それから記憶を辿るように視線を宙に泳がせたあと、彼女の新しい赴任先の場所を確認してきた。
「向陽と言うたら、あの向日葵畑で有名な向陽高原の近くかいな?」
「よくご存じですね。近くと言っても向陽駅から向日葵畑までは車で四十分くらいかかりますが、最寄り駅には違いないです」
「うちの子供がまだ小さかった頃に、車でキャンプに行ったことがあるねん。そうかそうか、あそこにソレイユホテルがあったんか」
「はい。この街よりはこじんまりとしているようですが、駅前にはオフィスビルが密集しているらしく、ビジネス需要があるそうです。そちらに退職者が出たようで、来月より異動することになりました」
 律子の言葉に、水野は満面の笑みを浮かべた。
「いやあ、良かった! 矢野さんを事務にスカウトしたくせに、矢野さんがホテルで働き続けることが決まって、何やめちゃくちゃ嬉しいわ」
「水野様……」
「本社勤務になったら内勤中心になるけど、向陽方面も営業エリアやさかい、たまには部下について挨拶に回ることもあるかも知れん。その時は、矢野さんの顔を見に行くわ」
「嬉しいです。ぜひお立ち寄りください!」

 自分が選んだ道を、こんなにも応援してくれる人がいる。それは何と幸せなことだろうか。
 好きな仕事をする為に、そして好きな人と一緒にいる為に選んだこの道を、一生懸命に歩もうと律子はそう誓った。


   ***


 律子がソレイユホテルに残ることを決めたのは、辻内から想いを告げられたあの日の夜。その決意を辻内に伝えたのは、翌日の夜だった。
「ソレイユホテル向陽駅前に?」
「はい」
 辻内と想いを通わせたすぐ翌日に、ひとり暮らしの部屋に招いてまでして相談したかったのは、四月からの自分の就職先についてだ。はじめて交わした口づけに惚けそうになりながらも、律子はふたりにとって最も大切な話を切り出した。
「辻内課長が働くことになるホテル・トゥルヌソルまでは、ここから電車とバスで二時間以上かかります。でも、ソレイユホテル向陽駅前からホテル・トゥルヌソルまでは車で四十分程度らしいので、お互い職場の近くに家を借りたとしても会いやすいと思って……」
 先程、辻内と離れないと宣言した律子はそう説明すると、緊張した面持ちで彼の表情を窺った。離さないと、辻内はそう言って抱きしめてくれたが、自分の気持ちの方が重い自覚があるのでどのように反応されるか不安なのだ。
「俺に都合が良すぎる展開すぎて、夢みたいなんだけど」
 やがて大きく息を吐き出すと、辻内はそう言って大きな掌で自分の顔を覆った。
「これが夢だったら、わたし泣きます」
「泣かれたら困るな」
 そう言うと、辻内は小さく笑った。昨日までよりもその眼差しが優しい気がして、律子は頬が熱くなるのを感じた。

 律子を必要としていると告白した辻内は、ソレイユホテル本宮中央が閉館したあとの身の振り方が決まっていない彼女に対し、どのような選択をしても応援すると言ってくれた。辻内と両想いになったとは言え律子の人生は律子のもので、四月以降にどうするかは彼女自身が決めなければならないことだった。
 諦めていた恋が実ったのだから、離れたくはない。けれど、自分の目標に向かって新たなスタートを切る辻内に対して、自分も対等でありたいという気持ちが律子の中に同居していた。ホテルマンとして真っ直ぐに歩む彼のように、自分もこれまで培ってきたことを活かして働きたい。それなのに向陽高原にある宿泊施設はホテル・トゥルヌソルを除いて家族経営と見られるペンションばかりで、とても正社員の募集があるとは思えなかった。辻内と一緒にいたいけど、お荷物にはなりたくない。自分の目標も捨てたくない。頭を抱えた律子の目についたのは、昼間の面談で配布された、欠員が出ているグループホテルの一覧だった。

 家族も友人もいない町で暮らすことに抵抗があった律子は、通勤圏内にあるグループホテルには募集がないことを確認すると、その用紙を鞄に押し込んだままにしていた。けれども何となく気になって、記載されているホテル名の一覧を流し見していると、向陽という地名にふと目がとまったのだ。辻内が働くことになる向陽高原と、もしかしたら同じエリアを指すのだろうか。そうだとすれば、距離はどれくらいなのだろうか。はやる気持ちを抑え、律子はスマートフォンをタップして地図アプリを開いた。
 もうずっと諦めていたくせに、捨てることができなかった恋。そんな恋が叶うという奇跡が起きた途端に、律子は欲張りになった。ホテルで働いてきた経験も、辻内壮吾という想い人も、どちらも手にしたいと欲してしまう。だから律子は朝一番で人事課長である冴子に連絡をとり、彼女が本社へ戻る前にソレイユホテル向陽駅前への異動の相談を持ちかけたのだった。


「たった一日で、俺が一番望んでいた答を用意してくれるんだから、やはり矢野には敵わない」
 自分の選んだ道が、辻内の希望に合致していたようで安堵する。明らかに自分の好きの方が重いと思っていた天秤の傾きは、律子が思ってたよりも均衡に近いのだろうか。
「俺は自分の進みたい道を選んだ上で、おまえに告白した。だから矢野にも自分で決めて欲しかった。だけどあの小さな町では求人自体が少なく、もしついて来てくれたとしてもホテルという選択肢は殆どない。だからこの街に残って違うホテルで働くという道を選んでも仕方ないと思っていたし、向陽高原でホテル以外の仕事を探すならそれも応援するつもりだった。もう働きたくないと言うのなら、俺が養おうとさえ考えていたんだ」
 辻内の言葉に、律子の体温が一気に上昇した。何だかさらりとすごいことを言われた気がして、心臓がどきどきと早鐘を打っている。
「昨日も言ったけど、俺は自分勝手だ。本心ではついて来て欲しいと思いながら、フロントに立つ矢野も見たいと思っている。その両方が叶うのが、ソレイユホテル向陽駅前への異動だったんだ」
 冴子曰く、辻内はソレイユホテル向陽駅前に求人があるかを確認してきたらしい。とっておきの情報だと悪戯っぽく笑いながら、それを教えてくれた。辻内がわざわざ飲み会前に、ホテル・トゥルヌソルで働くことになったことを冴子に報告しているのを偶然立ち聞きし、何も聞かされていなかった律子はショックを受けた。だけど彼の目的は別にあったのだ。

「だから冴子さんに、求人が出ているか確認したのですか?」
「え?」
「トゥルヌソルに転職が決まったと言いつつ、何故ソレイユホテル向陽駅前の求人を気にするのか不思議だったと仰っていました」
 律子が異動に関する質問を終えたあとで、冴子は謎が解けたと笑っていた。
「冴子さんに会ったのか? それより、冴子さんから聞いたのか!?」
「いくつか確認したいことがあったので、東京へ帰られる前にお時間をいただきました」
 律子がそう答えると、辻内は不貞腐れたように呟いた。
「くそ、カッコ悪いな。どんな選択をしても応援するとか言いながら向陽駅前の求人をチェックしているなんて、おまえと離れたくないのがバレバレじゃないか」
 住み慣れた部屋に満ちるどこか気恥ずかしい空気に、律子はどう答えたら良いのか分からなくて視線を泳がせる。見つめ合いたいけれど正視できない。そんな幸せな困惑を感じていると、不意に辻内の掌が律子の手を覆った。

「俺はいつも、子供みたいでカッコ悪いんだ。入社以来ずっと可愛がってくれた先輩に憧れて、彼氏がいるのを知っていたくせに結婚が決まったら傷ついた気になって。前に小久保に対して、知らない土地で働いてみるのも面白いと思ったから博多に行ったとカッコつけたけど、本当は幸せそうな先輩を見るのが辛くて逃げただけなんだ」
「……」
 静かに辻内が語り始めた内容は、けれども今までうやむやにしていたことの核心で、幸せに身を委ねようとしていた律子は反射的に体を強張らせた。彼女の動揺が、触れ合った手を通じて伝わったのだろう。辻内は包み込むその手に、ぎゅっと力を込めた。
「上手く気持ちを隠しているつもりだったのに、後輩の女の子には全部見透かされていたのが恥ずかしくて。その子の言いかけた言葉を封じて、ソレイユホテル本宮中央から逃げ去ったんだ」
「悪いのはわたしです。人の気持ちの大事なところに土足で踏み込んで、言ってはいけないことを言ってしまいました。それなのに課長は怒ることなく最後まで大人で、ずっと後悔していたんです」
「大人なんかじゃないんだ。矢野はいつも俺を立派な男であるかのように、仕事ができるホテルマンのように扱ってくれたけど、本当はそんなんじゃない。何も知らない新卒から見れば入社四年目の先輩は大人に見えたかも知れないけれど、本当は早く一人前になりたくて足掻いている、ただの二十代半ばの若造だったんだ」
 一気にそう言い切ると、辻内はひとつ息を吐く。そして、更に言葉を繋いだ。

「ずっと後悔していたんだ。いつもカッコつけて先輩面していたくせにみっともないところを知られていて、それが恥ずかしくて一方的に師弟関係は終わりだと切り捨てたこと。博多に行ってから何度も連絡しようと思ったけど、時間が経てば経つほど謝れなくて。帰省した際に本宮中央のメンバーで何度か飲みに行ったけど、一度も矢野の姿がなくて避けられているのかと思っていた」
「避けてなんかいません。いつもタイミングが合わなくて、夜勤にばかり当たっていたんです。本音を言うとどんな顔して会えば良いのか分からなかったけど、ずっと会いたかったんです。飲みに行ったメンバーに様子を尋ねたり、本社での研修で博多の方と一緒になったらさりげなく課長のことを聞き出すくらい、ずっと五年間忘れられなかったんです」
 宙ぶらりんの恋を終わらせる為、他の人に目を向けようとしたこともあるが、結局それは無駄な努力だった。どう足掻いてみても、律子の心の中から辻内の存在は消えてはくれなかったのだ。
「俺もずっと矢野のことが気にかかっていた。研修から帰って来た部下から矢野の話を聞いて、どんなホテルパーソンになっているか色々と想像していた」
「少しは成長できていますか?」
 思わずそう尋ねる。すると辻内は少し面食らった表情を見せ、やがて満足げに微笑んだ。
「成長しすぎていて驚いた」

 心の中に居座っている辻内の存在を消すことはできないと諦めた律子は、彼を自分の目標にしようと決めた。クレームに当たった時も、トラブルに際した時も、新しい業務を任された時も。いつも辻内ならどうしていたかを思い出しながら、彼を手本に乗り越えてきたのだ。
「正直、本宮中央に戻る時は緊張した。だけど矢野は何もなかったかのように迎えてくれて、ほっとした。そして、俺の後ろについて一生懸命仕事を覚えていた可愛い弟子は、久々に帰って来たら冷静に仕事をこなす大人の女性になっていて戸惑った」
「大人に、見えたんですか?」
「大人にしか見えなかったさ」
 そう言うと、辻内はその長い指を律子の小さな手に絡めてきた。
「後輩たちに慕われている姿はどう見ても大人の女性で、五年間どれだけ頑張ったかと思うと惚れずにいられなかった。あの日、矢野が言いかけた言葉を自分で封じておきながら、その続きを聞きたいとムシの良いことを考えていたんだ」
 次の瞬間、律子の口から弾かれたようにその言葉が飛び出した。

「好きです」

 ずっと声にできず、喉の奥に押し込めてきた想い。
 けれども今、呆れるくらいの長い時間を経て、ようやくその想いを辻内に伝えることができた。


「俺も律子が好きだ」
 一瞬驚いた表情を見せたあと、やがて辻内が照れくさそうに笑いながら告げた。好きな人に名前を呼ばれ、好きな人に好きだと言われる。その声音が優しすぎて、心臓が跳ねた。
「……課長」
「課長はやめろよ。もうじき上司と部下でなくなる」
「辻内先輩」
 彼が何を求めているのかはさすがに予想がついているが、いざ口にしようとすると照れてしまう。咄嗟に懐かしい呼び方を口にすると、目の前にある顔が不機嫌そうに眉を寄せた。
「律子、おまえは昔に戻りたいのか? 俺はおまえとの関係を、先に進めたいんだけど」
「……壮吾さん」
 観念して囁いた想い人の名前は、けれども当人に掬い取られてしまう。やがて、絡み合っていた長い指がそっと解かれ、ゆっくりと律子の頬に触れられた。

 

2017/06/20

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