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散らない日葵



11. 別れ道、且つひとりで進む道


 二月に入るとソレイユホテル本宮中央のスタッフは更に減り、一気に寂しくなった。ここ数日はシベリアからやって来た大寒波が日本列島を覆っており、人が辞めてぽっかりと開いた穴から冷たい風が吹き込んでいるような気分になった。

「それにしても、三宅さんには驚かされましたね」
 律子と並んでフロントに立っている滝が、しみじみと呟いた。今日は稼働が低く、チェックインのピークも既に過ぎた為にフロントは落ち着いている。先程から各予約サイトに書き込まれたクチコミに返信していた滝だったが、作業が終わったのかふと思い出したようにそう口にした。
「本当にね。でも一番ハッピーな展開だよね」
「確かに」
 律子が笑ってそう答えると、滝もあっさりと同意した。
 女性陣の中で律子の次に社歴の長い三宅は、結婚が決まったと先程報告してきた。長く付き合ってきた彼氏が秋から転勤になり、遠距離でぎくしゃくしているという相談を受けて心配していたのだが、ホテル閉館のタイミングで彼女は彼の元へ行くことを決めたらしい。
「見知らぬ土地に行く覚悟ってなかなか決められないと思うけど、三宅ちゃんにとってはホテルの閉館がいいきっかけになったよね」
 仕事を辞めてついて行くとも、仕事を辞めてついて来いとも、どちらの言葉も口にするには覚悟がいる。その決断ができないままに関係が壊れかけていたところで閉館が決まり、ようやく彼氏が結婚を決意してプロポーズをしたらしい。二十九歳という彼女の年齢も、会社都合の退職になることも、結婚を後押しする良いきっかけになったのだろう。晴れ晴れとした後輩の表情に、律子は久しぶりに心底嬉しい気持ちを味わった。

「そう言えば、他にもふたり再就職先が決まったみたいですね」
 ビジネスマンをひとりチェックインしたのち、滝がそう言って同僚の名前を挙げた。
「そうなんだ。どこに決まったの?」
「野田がホテル・ボヤージュで、福島さんは本宮中央ホテルの営業だそうですよ。どちらも先方が四月入社で良いって言ってくれているらしく、最終日までソレイユにいられるらしいです」
「それは助かる。正直、これ以上抜けられるとちょっと厳しいもんね」
 ほっとしたように律子が言うと、滝も大きく頷いた。
「それにしても、みんな次々と再就職先を決めてすごいね」
「辻内課長の紹介みたいですよ」

「え?」
 さらりと告げた滝の言葉に、律子は驚いてその整った顔を見つめ返した。
「他にも何人か辻内課長の紹介で、近隣ホテルの面接を受けているみたいです。もちろん自分で求人を探して、旅行会社を受けている奴もいるみたいですけどね」
「そうなんだ……」
「この前のフォーラムで、欠員があったらすぐに教えてくれって声をかけて回られたみたいです。先方からしても未経験者を雇うより、辻内課長の部下という身元のしっかりした人材を確保できるから、求人を出す前に結構連絡が入ったみたいですね」
 そういうことか。律子はようやく腑に落ちた。先月、辻内はとある旅行会社が主催するフォーラムに参加していた。間もなくホテルがなくなるのにわざわざ参加したのは、顔馴染みの人たちに挨拶をする為だと思っていたが、部下たちの再就職先を斡旋する為だったのだ。
「滝くんも紹介されたの?」
「ええ、まあ。でも、お話はいただきましたけど断りました」
「そっか」
 どうやら滝はどこか決めたところがあるようだ。けれどもはっきりとは口にしないので、正式に決まって報告してくれるまでは聞かないでおこう。律子は小さく相槌だけ打つと、詮索するのは遠慮した。

 まだ十時前だというのにロビーに人気はなく、BGMとしてピアノの繊細なメロディーだけが静かに流れている。予約を入力していた律子だが、その手を止めるとモニターからキーボードに視線を落とした。
 ――何故わたしには、声をかけてくれないのだろう。
 やがてじわじわと、幼稚な疑問が湧き上がってくる。付き合いは長いし、そもそも教官と弟子だし、それなのにわたしのことは気にかけてくれないのだろうか。他の同僚たちが声をかけられていることすら知らなかった律子は、その事実に地味にショックを受けていた。
「矢野さんは、水野様の会社に行くんですか?」
 自動ドアの向こう側にある夜の景色に目をやりながら、静かに滝がそう尋ねてきた。
「え?」
「水野様にスカウトされたんですよね?」
 そう言えば、水野が声をかけてくれた時、フロントには小久保も立っていたのだった。退職者が増えて人員が減ったこともあり、小久保もようやく独り立ちして指導係である滝と別のシフトに入ることになったが、それまではずっと一緒に行動していたので筒抜けだったのだろう。
「お断りしたよ」
 律子は、短くそう答えた。
 いつもの如く月末に水野は宿泊してくれたのだが、その前に律子は、貰った名刺の連絡先に電話をかけて断っていた。買いかぶりすぎだとは思うが、水野の部下にと話を持ちかけてくれたことは正直嬉しい。それは本当にありがたかったし、チャレンジしてみようかと心は揺れた。だけど、ゲストが失くしたメモを探したあの夜に、やはり自分はホテルの仕事が好きだと改めて気づいてしまったのだ。たとえゴミを漁ることになっても、そのあとにゲストが見せる笑顔や、かけてくれる感謝の言葉にどうしようもなくやりがいを感じてしまう。それに、辻内が与えてくれた数え切れないほどの知識や経験を、無駄にしてしまいたくはなかったのだ。
「矢野さんはどんな職場でも活躍できると思いますけど、ホテルが一番似合っていると思います」
「滝くん……」
「だから辻内課長は、矢野さんの実力が一番発揮できる環境を厳選されているんだと思いますよ」

 イケメンはこんな場面でもスマートにフォローしてくれる。律子だけが辻内から再就職先を紹介されていない事実にショックを受けていることを、あっさりと見抜いた滝はそんな優しい言葉をかけてきた。
「そんなにわたしが拗ねているように見えた?」
「まあ、そうですね」
 冗談めかして尋ねてみると、いつものポーカーフェイスであっさりと肯定した。
「別に拗ねてなんかいませんよ」
「まあまあ、そんなに強がらなくてもいいじゃないですか」
 前言撤回。クールなイケメンは先輩にも容赦がない男だというのを忘れていた。訳知り顔でにやりと笑う表情が悔しくて言い返そうとしたら、ロビーの時計に目をやった滝にあっさりと試合終了を言い渡された。
「あ、矢野さん時間ですよ。どうぞ上がってくださいね」
「何だか滝くんに負けた気分で悔しい」
「勝負なんてしていませんよ。それより今日は暇なんで、こんな日くらい定時で帰ってください」
 不満げに抗議してみるも、相手はしれっとした表情のままあしらうばかりで敵わない。ちょうど手元の予約を入力し終わった律子は、結局後輩をやり込める言葉を見つけられないままに、夜勤メンバーに挨拶して定時でタイムカードを切った。


 週のはじめから寄り道する人はあまりいないのか、夜十時を過ぎた駅のホームに人はまばらだ。この時間になると電車の本数が少なく、次の到着は十五分後だった。
 通勤用のバッグからスマホを取り出した律子は、パスワードを入力してロックを解除した。すると三件の新着メールが届いているという表示が現れ、手早く操作して受信メールを確認する。そのうち一通のタイトルは、「書類選考の結果について」だった。
 これから先も、ホテル業界でキャリアを積んでゆきたい。そう気持ちを固めた律子は複数の転職サイトに登録し、自分のレジュメを掲載してスカウトを待つと共に、メルマガなどで求人情報を取得していた。けれども募集が多いのは、未経験の若い人材を求める求人や、逆に管理職経験者を支配人候補として採用するという求人だった。不況の時代に我慢して少しずつ積み上げた給与額を下げたくはないし、これまでに携わった業務の経験だって活かしたい。だけど管理職としての経験はなくて、要するに律子は年齢もキャリアも中途半端なのだ。

 ――慎重に選考を重ねました結果、誠に残念ながらご期待に添えない結果となりました。

 溜息をひとつ吐くと、メールを閉じてスマホを鞄の内ポケットにしまう。夜の空気は一段と冷たく、マフラーを口元まで引き上げると、律子はコートのポケットに両手を突っ込んだ。
 採用条件に年齢の記載がなくとも、その職場の年齢バランスによって求めている年代がだいたい決まっており、そこに当てはまらなければ当然書類選考で落とされる。今回応募したホテルはリニューアルに伴う増員とあったのだが、もしかしたら若い力を求めていたのかも知れない。転職活動はタイミングで、律子が持っている経験を必要としてくれる会社が現れることを焦らず待つことが大切なのだ。それは分かっているけれど、周りが次々に再就職先を決めてゆくこの状況では、焦るなという方が無理な話だった。
「結婚、か……」
 ふと、後輩の幸せに満ちた笑顔を思い出す。共に働いてきた仲間たちとはそれぞれ進む道が別れてしまうが、彼女には寄り添える相手がいて、その人と生涯を共にすることを決めた。寺本ら妻子のいる人たちは、家族の為に次の道をすぐさま選んだ。けれども律子には、支えてくれる人も支えなければならない相手もどちらもいない。つまりは選ぶ時も進む時も、常にひとりであるということを意味しており、それは身軽であるとも言える。けれども今、律子はひとりでいることを寂しいと感じていた。
 見上げると、夜空に白い三日月が浮かんでいた。冬の空気は冴え冴えとして、いつもよりその輪郭がくっきりと浮かび上がっている。細く尖ったその先端は、触れると切れてしまいそうだった。


   ***


 翌日のシフトも遅番であった律子が昼過ぎに出勤すると、ちょうど部長と辻内が何やら話している最中だった。会話を邪魔しないよう挨拶だけしてタイムカードを押す。自分のデスクのパソコンを起動していると、そう言えばと部長が声をかけてきた。
「それなら矢野くんも、桐谷さんと一緒に働いていたのかね?」
「え?」
 突然飛び出した名前に戸惑い、思わず問い返す。
「本社人事部の桐谷課長だよ」
 いきなり会話に引き込んだ為に、律子が質問を理解できていないと思ったのだろう。部長はそう説明を加えた。
「五年くらい一緒に働かせていただきましたけど、桐谷課長がどうかされたんですか?」
「人事部長が来月、君たちの退職金や有休買取に関しての説明と、それから他のソレイユホテルの募集状況を知らせに来られる予定になっていてね。その際に、桐谷さんも同伴されるらしいのだよ」
「そうなんですね」
 律子は部長の説明に軽く驚きながら、すらりとした長身に黒髪をきっちりとまとめた女性の姿を、脳裏に思い浮かべていた。

 桐谷冴子は、律子がソレイユホテル本宮中央に入社した時に、フロントをまとめていた先輩社員のうちのひとりであった。律子とは対照的なスタイルの良さと大人っぽい美しさを兼ね揃え、さばさばとした性格は男性社員からも女性社員からも慕われていた。年齢が離れていたこともあり個人的にふたりで遊びに行ったりすることはなかったが、仕事を教えてもらったりミスをフォローしてもらったり随分と世話になった。
 律子が入社して四年ほど経った頃、冴子は年上の恋人と結婚した。結婚後も一年くらい勤務していたのだが、夫が東京に転勤になり、ちょうど欠員が出ていた本社へ異動することになったのだ。その後は同じ会社にいるものの、律子の業務では本社の人事部と直接関わることはなく、それは久々に耳にする名前であった。
「それなら会うのは久しぶりかね?」
「はい。東京に異動されてからは一度もお会いしていないので、五年ぶりですね」
「それは楽しみだな」
 そう言ってにこにこと笑う部長に、律子も微笑みながら相槌をうつ。ちらりと辻内に目をやると、部長の会話の相手が自分から律子に移ったとみて、業務に戻ったようであった。パソコンのモニターを見つめながら、何やらカタカタと入力している。その表情からは、辻内が何を考えているのか読み取ることは不可能だった。

 

2017/02/20

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