散らない向日葵
10. 報われる瞬間、たとえばその一言に
「へえ、すごいじゃん。声かけてくれるなんて余程のことだし、検討してみても良いんじゃない?」
電話の向こうで、実花が驚いたようにそう声をあげた。
「うん、ありがたい話だと思ってる」
水野から事務職としての話を持ちかけられた律子は、誰かに相談したくて、専門学校時代の友人である実花に電話をかけていた。
悩みを聞いてくれる身近な相手として同期の真理もいるが、今回ばかりは相談できなかった。共に働く仲間は全員が春からの身の振り方を決めねばならず、同じ不安や悩みを皆が共有しているものの、だからこそ具体的な話は逆に持ちかけることができない。そんな中、ホテルから異業種へ転職している実花は絶好の相談相手で、仕事を終えて帰ると律子は早速友人に連絡をとったのであった。
「もちろん最初は大変だろうけど、新しく設立される部署なら色々とやりやすいんじゃない?」
「それはわたしも思った」
「ホテルの近くの会社なら通勤時間も変わらないし、何より敢えて律子をと言ってくれるのが嬉しいじゃない」
「でも、どうしてわたしなのかが分からないんだよ。常連さんだから親しく挨拶はするけれど、突っ込んだ仕事の話はしたことないし」
声をかけてくれたことは驚いたけれども、率直に嬉しい。だけど同時に、何故自分なのかという疑問がずっと頭をもたげているのだ。
「人事の人とかは短い面接の間に色々と見抜くって言うじゃん。その人も新部署の責任者を任されるくらいだから人を見る目が長けていて、きっとチェックインの間にりっちゃんが仕事ができると見抜いていたんだよ」
「それはないと思うけど」
水野がすごい人だということは否定しないが、だからと言って律子が選ばれる理由はどこにも見当たらないのだ。
「それともりっちゃんは、やっぱりホテルが良い?」
「うーん、どうだろう……」
実花の問いに、律子は曖昧に答える。別に答えを濁したわけではなく、律子は自分の気持ちが本当に分からなかった。
ホテルで働くという夢を実現し、律子はもう十年の間フロントに立ち続けている。
けれども辞めたいと思ったことは一度や二度ではなく、実際に退職願を書かなかったのはただ単に勇気がなかっただけのことだ。勤務時間は不規則で体力的にきつく、サービス業なので理不尽なクレームを受けることもある。もちろんゲストがくれる笑顔や一言は何よりも励みになるのだが、辛い辞めたいというネガティブな気持ちは年に何度か波のように襲ってくる。たぶんそれはどんな職業に就いていても同じで、殆どの人たちは、仕事が楽しいと思える時間と仕事を辞めたいと悩む時間を行ったり来たりしながら働いているのではないだろうか。
「わたしの場合、転職して遅番や夜勤がなくなると体調が良くなったんだよね。それに新規の部署だと、これから築き上げていく面白さもありそう。でもりっちゃんは十年もホテルで経験を積んでいるから、それを捨てるのももったいないとも思うし」
「うん、わたしも同じ理由で悩んでいるの」
律子の迷いを代弁してくれたかのような実花の言葉に思わず頷く。当然ながらどちらもメリットとデメリットがあって、だからこそぐらぐらと気持ちが揺れてしまい、話を聞いて欲しくて実花に電話をかけたのだ。
「りっちゃんが今の仕事が好きなら、次もホテルを探した方が良いと思う。今度は新しいことをやりたいと思ったら、今回の話は大きなチャンスだと思うからチャレンジしてみたらいいと思う。決めかねているのなら、ホテルの仕事が好きかどうか、いっそ単純にそこを突き詰めてみたらいいんじゃないかな」
***
一月も半ばを過ぎると、世間はすっかり日常に戻っている。もっとも、年末年始も通常どおり出勤していた律子たちは大してお正月気分を味わっておらず、街中のディスプレイなどで新春の空気を感じたくらいだ。
「あれ、今日は辻内課長は外出なんですね?」
夕方出勤してきた夜勤スタッフに引継ぎをしていると、事務所奥のホワイトボードを見やりながら小久保がそう尋ねてきた。そこにはスタッフ全員の出勤状況が分かるように、各自の名前とその日のシフトを書き込んでいるのだ。
「終日フォーラムに出席されて、そのまま直帰の予定だよ」
律子の説明に、そうですかと言って小久保が頷く。すると隣から、今度は滝が口を挟んだ。
「結局参加することにしたんですね」
「うん。交流のある人たちに挨拶するのにちょうど良い機会なんじゃないかな」
年に一度この時期に、インターネット予約専門の旅行会社のフォーラムが開催され、このホテルからも例年誰かが出席している。旅行業界とホテル業界を取り巻く最新の動向についての講演があり、多くのホテルの担当者と交流が持てることから、律子も勉強の為に何度か同行させてもらったことがある。
けれどもソレイユホテル本宮中央はあと三ヶ月足らずで消滅するホテルであり、滝は今更このホテルからは誰も出席しないと思っていたのだろう。現に辻内も迷っていたが、顔馴染みの他ホテルの人たちに挨拶をする良い機会でもあるし、結局は出席することに決めたようであった。
「矢野さん、ちょっといいですか?」
夜勤スタッフに引継ぎを終えて、自分のデスクで明日の団体の手配書を確認していると、背後から滝が声をかけてきた。
「来月のシフトなんですけど、夜勤の回数が増えそうなんですけど大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。さすがに早番と遅番と夜勤が交互だと時差ボケになるからキツイけど、公休を挟んでくれたら全然オッケー」
「ありがとうございます」
年末でマネージャーの寺本が一足早くこのホテルを去ったのだが、更にふたりのスタッフが閉館を待たずして今月末で退職することがつい先日決まった。いずれも妻子持ちの男性社員で、来月からの勤務という条件で次の就職先の内定を得たらしい。
「多少の連勤は大丈夫だから、滝くんだけが負担になるシフトは作っちゃ駄目だよ」
「助かります」
夜勤の責任者として入っていたふたりが辞めることになるが、当然補充などされる筈はなく、シフト作成をしている滝は頭を抱えているようだ。フロント以外の業務が増えて、夜勤専門のアルバイトが入ってくれたこともあり、ここ二年くらいは律子が夜勤のシフトに入ることは殆どなかった。けれども、どうやら久しぶりに夜勤に入らねばならないようだ。
先がなくなったホテルでは、予約の管理も売上げ予想も、やるべき業務が日に日に減ってゆく。そうやってひとつずつ仕事が消えて最後の日を迎えるのかと寂しく思っていたら、予想外にもバタバタとしながら閉館まで駆け抜けることになりそうな気配が漂い始めていた。やることもなく静かに閉館を迎えるよりも忙しい方が寂しい気持ちが紛れるから、いっそその方が良いのかも知れないなと、律子はそう考えていた。
翌日の団体受け入れの準備が整っていることを確認すると、律子はパソコンのモニターに表示されている時刻を確認した。定時を十分過ぎており、そろそろ帰ろうかとパソコンをシャットダウンする。するとその時、内線電話が鳴った。定時を過ぎて電話をとると帰れなくなってしまうので、ここは遅番と夜勤のスタッフに任せることにする。けれども三コール鳴っても誰も出る気配がなく、どうやら全員が接客中のようで律子は慌てて受話器をとった。
「お待たせいたしました。フロントでございます」
「どうしよう、捨てられてしまったみたいなんです!」
受話器の向こう側で、悲鳴にも似た声が聞こえてきた。
主語も補語もなく、まったく要領を得ない内容。けれど、切迫した声色と捨てたという言葉から導き出される状況はひとつだけだ。自分のパソコンを既にシャットダウンしていた為、律子は腰を捻って隣のデスクのパソコンを操作し、電話機の液晶画面に表示されている部屋番号を予約システムに打ち込んだ。
「見当たらないんです、取引先と打ち合わせをした際のメモ用紙が!!」
最悪だ。該当の部屋番号は連泊の部屋で、今日は二泊目だ。つまり昼間に清掃に入っているのだ。様々な状況を思い浮かべながら、律子はすぐに客室に向かう旨を告げて電話を切った。
仕切りのカーテンを開けてフロントの様子を窺うと、ちょうど団体が到着したようで滝が添乗員に館内の説明をしており、小久保らは一般のゲストをチェックインしていた。律子は事務所にいる部長に手短に状況を説明すると、とりあえず従業員用の通路から急いで客室へと向かった。
八階のバックヤードにはゴミの匂いが充満していた。
基本的にステイ中の清掃ではゲストの私物に触れることはなく、たとえゴミのように見えるものでもゴミ箱に入っていなければ処分することはない。それでも誤って破棄してしまう可能性はゼロではないし、ゲスト自身がうっかり大事なものを捨ててしまうこともあるので、ソレイユホテルでは清掃時に回収したゴミを各フロアで一晩保管している。律子はメモを探す為に、バックヤードの端にまとめていたゴミ袋の中身を順番に開けていった。
内線電話を切って直ちに律子は客室に向かったのだが、二十代前半と思われる女性客曰く、打ち合わせ内容を走り書きしていた筈のメモ用紙がデスクからなくなっているとのことであった。状況を把握する為、動揺している女性客を極力刺激しないよう慎重に質問を重ねる。とりあえず確認するので時間が欲しい旨を伝え、律子は一旦事務所に戻った。
部長に状況を報告して既に帰宅しているハウスキーピングのチーフに連絡をとってもらい、律子自身は再び八階に戻って保管しているゴミ袋の中身をひとつひとつ確認してゆく。女性の曖昧な記憶では、彼女とホテル側のどちらに落ち度があるとは断定できない。とにかくまずは、すべてのゴミを確認するしかなかった。
どれだけ時間が経っただろうか。ゴミ袋の中には客室で食べたものの残骸など様々なものがあり、窓のないバックヤードにはそれらが混ざり合った何とも言えない臭いが充満している。
――わたしは一体何をやっているのだろう。
汚臭に満ちた空間でひとつひとつゴミ袋を確認していると、だんだんと惨めな気持ちが湧き上がってくる。水野が持ちかけてくれた仕事に就いたら、こんな思いをしなくて済むだろうか。そんな考えがふと頭をもたげてくる。
そこまで考えて、律子は慌てて首を振った。今はそんなことは言っている場合ではない。見落としのないようにもう一度集中し直し、丹念にゴミを確認していると、不意にエレベーターの扉が開いた。部長が様子を見に来たのだろうか。そう思いながら顔を上げると、そこには思いもよらない人物が立っていた。
「あれ、直帰じゃないんですか?」
そこに立っていたのは、終日外出の筈の辻内だった。ゴミを手にしたまま固まっていた律子は、はたと我に返ると疑問の言葉を口にした。
「ちょっと用事があって立ち寄ったら、部長から面倒なことになっていると聞いてさ。それより、どこまで確認したんだ?」
「こっちは確認済みです。あの、課長……」
「オッケー。じゃあ俺はこの袋を確認する」
あっさりそう言うと、辻内はシャツの袖を捲って手早く未確認のゴミ袋の中身を広げ始めた。適度に筋肉がついた男らしい腕のラインにどきりとし、慌てて目を逸らす。こんな時にときめいている場合ではない。それよりも早く見つけなければと、律子は再び自分の手元に視線を戻した。
やがて残る袋はひとつとなる。この中に入っていなければどうなるのかという不安が頭をよぎり、絶対に入っている筈だと縋る気持ちで断定する。恐る恐る縛っていた袋の口を開け、律子は小さな紙片も見落とさないように丹念に確認していった。その時ふと、コンビニの小さな袋にまとめられたゴミの中に、くしゃりと丸めた紙の感触を感じた。取り出して広げてみると一枚はレシートで、もう一枚の紙片は、何かのコード番号と思しき数字とアルファベットの文字列が記入されたメモだった。
「ありました!!」
「本当か!?」
思わず叫んだ律子の声に、辻内が手元を覗き込んでくる。
「それに間違いないだろう。よく見つけたな」
興奮気味にそう言うと、辻内は満面の笑みで大きな掌をこちらに向けてきた。無事に見つけられた喜びで、律子は無意識でその手に自分の手を合わせて勢い良くハイタッチする。狭い空間に、パチンと弾んだ音が響いた。
次の瞬間、その音に我に返る。お互いしゃがみ込んでいるので、目線が近い。急にそのことに気づいた律子は、赤面するよりも先にすっくと立ち上がった。
「わ、わたしお客様の部屋に届けてきます!」
そう言って慌てて手を洗うと、辻内を残して勢いよくバックヤードから飛び出した。
やっぱり辻内壮吾という人はずるい。廊下を速足で歩きながら、律子はぶつぶつと呟いていた。いつも困っている時にタイミング良く現れて、さらりと手を差し伸べてくれるのだ。やがて女性の部屋の前に辿り着くと、律子はホテリエの顔を作ってドアを軽くノックした。
律子がバックヤードに戻ると、ちょうど辻内がゴミの片付けを終えたところだった。
「どうだった?」
「間違いないそうです。大事なメモだったらしく、感謝とお詫びの言葉をたくさんいただきました」
念の為、ホテル側に非がなかったことは明らかにしておかなければならない。状況説明として、ゴミが入ったコンビニ袋の中にレシートと一緒に丸めて入れられていたことをさらりと説明すると、彼女は可哀想なくらいに恐縮していた。はじめてのひとりきりの出張で、色々といっぱいになっていたらしい。パソコンに情報を打ち込む前に紛失したらしく、本当に助かったと終始頭を下げっぱなしだった。
「とりあえず、見つけられて良かったです」
人騒がせなと怒る気持ちよりも、見つかって良かったという安堵の気持ちが勝り、律子は大きく息を吐いた。
「お疲れさん、大変だったな。部長にはとりあえず内線で報告しといたから」
そう言って律子を労うと、辻内は最後の一袋をゴミの山の上にぽんと乗せた。
「手伝っていただき、ありがとうございました。おかげで思ったよりも早く解決できました」
「ヒーローみたいだろう? 矢野が困った時には颯爽と現れるんだからな」
律子が手早くゴミで汚れた部分を雑巾で拭いていると、得意げに辻内が胸を張った。実際にそうなのだけれど、それを全部自分で言ってしまえるところがこの人らしい。手伝ったことを気遣わせないようにわざとふざけているのか、本当にただのお調子者なのか。きっとその両方だと思うけれど、年上なのにまるで子供みたいに見えて、律子は適当にあしらうふりをしながら頬を緩めた。
やがてすっかりもとの状態に戻した律子と辻内は、業務用エレベーターのボタンを押した。辻内が乗って来たまま八階で止まっていたので、すぐに扉が開く。
「今日はお互い厄日でしたね」
ホテルに過失がなかったので、トラブルもあとは笑い話にするだけだ。エレベーターに乗り込むと、律子は肩を竦めて笑って見せた。
「でもまあ、残業になったおかげで俺の顔を見れたから良しとしてくれ」
すると辻内は、ぬけぬけとそう言い放った。
「本当デスネ。今日は会えない筈だった課長に会えて超ラッキー」
「何だ、その棒読みの台詞は。もっと素直に喜びを表現しろよ」
会えない筈の日に、会えて嬉しい。辻内が現れた時に心を占めた感情を冗談で口にされ、思わず見透かされたのかとどきりとする。そんな動揺を隠すかのようにわざと棒読みで茶化してみたが、けれどもそれは紛れもない本心だった。まったくどこの中学生かと、自分で自分の単純さに呆れてしまう。けれど、一緒にいられるのもあと僅かなので仕方がないと、律子は心の内でそっと言い訳をした。
ふたり揃って事務所に戻ると、部長とハウスキーピングのチーフが待っていた。
「すみませんチーフ、わざわざ戻って来てくださったんですね」
「こちらのミスかも知れないと気になってね。ちょうど事務所に着いた時に、矢野さんが見つけてくれたと連絡が入ったんだ」
どうやら部長からの状況確認の電話を受けて、近所に住むチーフはすぐにバイクで駆けつけたらしい。全員が顔を見合わせると、やれやれという苦笑いが浮かんだ。
「部長、いただいちゃいました!」
その時、シャッと仕切りのカーテンが開き、ビニール袋を重そうに抱えて小久保が事務所の中に入って来た。
「あ、矢野さん。対応を全部お任せしてしまってすみませんでした」
「チェックインが立て込んでいたから仕方ないよ。それより、その袋どうしたの?」
どすんとデスクに置いたビニール袋からは、大量のお菓子やジュースが覗いている。
「例のゲストがお詫びに持って来られたんですよ。皆さんで召し上がってくださいって」
このエリアはオフィス街なので、店と言えばコンビニくらいしかない。きっとあの女性は、迷惑をかけてしまったお詫びにと、わざわざ近所のコンビニまで買いに行ってくれたのだろう。
「ここはありがたくいただこうか」
部長はそう言うと、一番に律子に選ぶように促した。喉が渇いていたので、遠慮なく炭酸飲料を選ばせてもらう。
「これで厄日じゃなくなったな」
隣で辻内がそう言って笑いかけてきた。
大変だったけれど、喉を潤してくれるこのジュース一本に込められた気持ちに、すべてが報われた気がする。トラブルが起こるとうんざりするのに、ゲストからのお礼や感謝の言葉であっという間に浮上するのだ。
だからホテルで働くのはやめられないのだと、律子は再び自分の単純さを自覚した。
2017/02/13