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イトコ



熱い背中 7


「ねえ、志穂」
 昨日の気持ちを冷静に整理しながら、黙って生地を型に流し込んでいた志穂子に、母が声をかけた。
「あのお父さんの写真、志穂にあげるわ」
 突然の話題の転換に一瞬何のことかと母を見つめ返したが、すぐに思い至る。母と住んでいた家のサイドボードの上で、ずっとふたりを見守ってくれていた父の写真。新しい家に越して来てからは志穂子がこっそり自分の机の引き出しに隠し持っていた、あの写真のことだ。
「……お母さん」
 やはり母は、ちゃんと気づいていたのだ。志穂子はどこか少しほっとしていた。
 母はずっと、娘の行動をどう思っていたのだろうか。志穂子が新しい環境に馴染もうと努力していたことも、それが上手くいかなかったことも、母ならきっと見抜いていただろう。散々心配をかけておいて今更だけど、母には今回の再婚のことで自分に対して引け目を感じて欲しくないと志穂子は思った。
「志穂子」
 母が、神妙な声で名前を呼ぶ。謝らないでと願った志穂子の耳に届いた母の言葉は、けれども拍子抜けするものだった。

「あの写真はお父さんのミラクルベストショットだけど、志穂にあげるわ。写真を撮る時は何故か、いつも目を閉じてるか半目だったからねえ」
「へ?」
 楽しそうにひとりでくすくすと笑う母をぽかんと見つめながら、志穂子は思わず間抜けな声を漏らした。
 確かにアルバムの中の父は恐ろしく写真写りが悪かった。赤ん坊の志穂子を抱いて笑っている父の目は、大概閉じられているのだ。その中であの写真だけは、真正面からこちらを見て笑いかけていた。確か、お葬式の時の遺影にも使った筈だ。

「娘が撮ると、あんな顔になるのね」
 志穂子が生地を流しこんだ型を天板に並べながら、母がしみじみと呟いた。
「どういう意味?」
「あら、覚えてない? 幼稚園の頃だったかしら。志穂の写真を撮っていたのに、志穂が真似して自分も撮りたいと言い出したから、お母さんが手を添えて一緒にお父さんを撮ったのよ」
 志穂子はまったく覚えていなかった。いつも見守ってくれていたあの笑顔は、正真正銘、ファインダー越しに志穂子と母に向けられた笑顔だったのだ。

「お母さんはお父さんとのツーショット写真をいっぱい持ってるから、だからあの写真は志穂に譲るわ」
「そんなに自慢しなくても、わたしだってツーショット写真くらい持ってるもん」
 八歳までだけれども、季節ごとに撮ってもらった写真はたくさんある。鼻の奥にツンとしたものを感じながら、志穂子は母に対抗した。
「そうだけど、志穂と一緒のお父さんはことごとく目を閉じてるじゃない」
「お母さんと一緒の写真だって同じでしょ?」
「違います。お母さんが一緒に写ってるのは、殆ど半目なんです」
 母の一言に、思わず志穂子は吹き出した。自分で言っておいて、母も同じように笑っている。マドレーヌをオーブンに入れてふたり笑い転げていると、あまりにも笑い過ぎて少し涙が出てきた。



 午後になると、志穂子の泣き腫らした目も幾分戻ってきた。じっと見つめられるとばれてしまうと思うが、寝起きの惨状に比べれば随分とましだろう。
 母と焼き上げたマドレーヌを前かごに入れ、志穂子は夏の終わりの太陽に照らされながら自転車をこいでいた。見慣れた紺色ののれんが見えてきて、その前に自転車をとめる。ランチタイムが終わって落ち着いた頃を見計らって来たので、たぶん今は空いているだろう。志穂子は気合を入れると、引き戸にそっと手をかけた。

「あら、志穂ちゃん」
 誰もいない店内で片づけをしていた伯母は、志穂子の姿を認めるといつものように明るく声をかけてくれた。ほっとしつつも、まずは体をふたつに折って謝罪の言葉を口にする。
「昨日はご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした」
「志穂ちゃん、顔を上げて頂戴」
 テーブルに残された食器をそのままに、叔母は志穂子の方へ寄って来た。
「ちっとも迷惑なんかじゃないのよ。それよりも、こちらこそごめんね……」
 申し訳なさそうに謝る伯母の言葉に、志穂子は大きくかぶりを振った。
「謝らないでください。わたしが勝手にうじうじして迷惑かけて、誰も悪くないんですから」
「じゃあ、謝らないわ。だから志穂ちゃんも謝らないで。志穂ちゃんだって何も悪くないんだから」
 伯母の優しい言葉に志穂子は小さく頷く。心が少し、軽くなった気がした。

「ところで、昨日うちの圭介は、何か志穂ちゃんを傷つけるようなこと言わなかったかしら?」
 急に声をひそめ、おずおずと尋ねてくる伯母に志穂子は目を瞬いた。先程よりももっと大きく首を振る。圭介に連れられて帰って来た志穂子がひどく泣いていたので、伯母は圭介が何か言ったのではないかとずっと心配していたようだ。
「け、圭介くんはずっと黙ってわたしの話を聞いてくれてました。全部吐き出したら気持ちがすっきりして、圭介くんには感謝してます」
「そう。なら良かった」
 ようやく安心したように伯母が微笑む。誤解が解けたようで、志穂子もほっと息をついた。あんなにも迷惑をかけて、さらに濡れ衣まで着せてしまったら申し訳がなさすぎる。
「そうだ、これ……」
 手元のマドレーヌのことを思い出して差し出そうとした瞬間、奥の方から聞き慣れない声がした。

「あれ、志穂ちゃん?」
「えっと……、祐介さん?」
 店の奥から顔を覗かせたのは、圭介の兄の祐介だった。
「久しぶり。俺のこと、ちゃんと覚えてくれてたんだね」
「お久しぶりです」
 志穂子はぺこりと頭を下げる。祐介は圭介より十歳も年が離れていて、就職して今は県外に住んでいるらしい。その為、志穂子が祐介に会ったのは、顔合わせの食事会の時だけだった。
「帰って来られてたんですね?」
「うん。うちはお盆が稼ぎ時だから休みがとれなくてね。いつも時期をずらして夏休みをとるんだよ。で、せっかく夜中に車走らせて朝帰って来たら、こうやって早速こき使われてるってわけ」
 そう言って悪戯っぽく笑う。確か、雑誌などでもたまにとりあげられる有名レストランで働いていると聞いた気がするなと記憶を辿りながら、志穂子は気さくな祐介の言葉に思わず笑みを零した。

「あ、そうだ。これ……」
 そう言うと、改めて志穂子は手にしていた紙袋を差し出した。
「昨日、いっぱいご迷惑おかけしたので。お詫びと言ってはなんですけど……」
「迷惑なんてひとつもないわ。親戚なんだから、もっと甘えて頂戴」
 伯母の言葉に笑って頷くと、ありがとうと言いながら紙袋を受け取ってくれた。
「あら良い匂い。もしかして、これ手作り?」
「あ、はい。昔から母の仕事が休みの時に、よく一緒に作ってたんです。お口に合えば良いんですけど」
「うち、みんな甘いもの大好きなのよ。今、伯父さん商店街の寄合に出てるんだけど、帰って来るまでによけとかないと全部食べられそうだわ」
 伯母の言い方が面白くて、志穂子は思わず吹き出した。甘いものが好きかどうか心配だったけれど、母が作ろうと言い出したので、たぶん好きだと知っていたのだろう。
「やっぱり良いわねえ、女の子は。一緒にお菓子作ったり、憧れるわ」
「可愛い息子と一緒にお好み焼きを焼いてるのに、何の不満があるんだよ」
 羨ましそうに溜息をつく伯母に対し、祐介がそう言いながら志穂子にねえと同意を求めてくる。
「はいはい、そうですね。可愛い祐ちゃんと圭ちゃんに囲まれて、お母さん幸せですよ」
「うわ、全然心がこもってねえー」
 軽妙な親子のやりとりに頬を緩ませながら、ここに来たら明るい気分になるなと志穂子は感じていた。

「じゃあ、お邪魔しました」
 会話が途切れたタイミングで、志穂子が声をかける。まだ昼の片づけが残っているようだし、あまり長居して邪魔することはできない。
「また遊びに来て頂戴ね」
「はい。伯父さんと、圭介くんにもよろしくお伝えください」
 圭介が部活で不在だろうということは予想していた。あれだけ迷惑をかけたのだから明日にでも直接謝らなければいけないが、とりあえずは伯母に伝えてもらった方が良いだろう。

「圭介か。あいつ、学校でどうなの? 無愛想だろう?」
 表まで見送りに出てくれた祐介に尋ねられ、思わず志穂子は言葉に詰まる。圭介は、母親似で人当たりの良い祐介とは正反対の性格で、お世辞にも愛想が良いとは言えない。以前、恵も愛想が悪いと言っていたし、きっと中学の頃からなのだろう。
「無口だとは思いますけど、でも優しいです」
 かけられた言葉は僅かだったけれど、その一言一言が志穂子の心に染みてきたのだ。思ったことをそのまま口にしたけれど、言った瞬間に少し志穂子は恥ずかしくなる。
「あらまあ。あの子を優しいと評価できる志穂ちゃんの方が優しいと思うけどねえ」
「ほら、女の子の前だからあいつも頑張ったんじゃない」
 ここにいない人物のことをあれこれ評するふたりを見て、志穂子は何となく圭介が無口な理由が分かった気がした。母も兄も、そして父もおしゃべりな性質の金澤家において、一番年少の圭介は口では敵わなかったのだろう。そう考えると何だか可笑しくなって、志穂子はひとり笑いを噛み殺していた。

 外に出ると相変わらず太陽は高い位置にあり、じりじりとアスファルトを焦がしている。
 暑いなあと、思わず愚痴が漏れる。けれども気持ちは頭上に広がる青空のように晴れ渡り、志穂子は二学期から何かが変わる予感を感じていた。



2011/11/25

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