イトコノコ
熱い背中 1
八月三十日はあいにくの雨だった。志穂子の家から最寄りの駅までは歩いて二十分程かかるのでいつも自転車を利用するのだが、雨の音を聞く限りそれは無理そうだ。 バスも出ているが本数が少ないので、早々に諦めた志穂子は予定より早めに家を出た。
雨に濡れる町は、土の匂いがした。その中を志穂子は足どりも軽やかに駅へと向かう。天気の悪さなど気にならなかった。それは降りしきる雨がこの夏ずっと上昇し続けた気温を抑えてくれているからであり、何よりも、懐かしい町へ帰り懐かしい友に会えるからに他ならなかった。
志穂子が現在住んでいる町から、生まれ育った町までは電車で約二時間だ。高校生になった志穂子なら、友人に会いにひとりで行ける距離ではある。けれど、なかなか気軽に行ける距離ではなかった。
途中で一度乗り換えて乗客がまばらな電車に揺られていると、やがて車窓から見慣れた景色が見えてくる。志穂子は水滴がついた窓の向こうに広がる景色を、じっと眺めていた。
ホームに降り立つと、雨は霧雨に変わっていた。家を出た時よりも雨脚が弱まっているのは、ここが遠く離れているせいなのか、時間が経過したからかは分からなかった。
「志穂!」
改札を出ると、千明と宏美が手を振っていた。志穂子は小走りでふたりに駆け寄った。
「久しぶり!」
「わあ、髪伸びたね」
きゃあきゃあとはしゃぎながら、三人で久々の再会を喜ぶ。
「ところで香織は?」
きょろきょろと周囲を見回しながら志穂子が尋ねると、千明と宏美が顔を見合わせて溜息をついた。
「いつもの遅刻よ。さっきメールが来て、五分くらい遅れるって」
「昨日の晩、時間厳守だからってあれだけ念押ししたのにさ」
子供の頃から香織はマイペースだった。待ち合わせに一番最後に来るのはいつも香織で、高校生になっても変わっていないのだなと志穂子は苦笑いを浮かべた。
「ごめん、遅れた!」
ふたりの愚痴を聞きながら駅の外で待っていると、ビニール傘を揺らしながら香織が駆けて来た。
「遅い!!」
三人が声を揃えて一喝する。
「ごめん……」
香織は肩で大きく息をしながら謝罪の言葉を口にした。ずっと走って来たのだろう。息はかなりあがっており、額には汗が滲んでいる。
「忘れずにアラームセットしなよって、昨日メールしたじゃん」
「ちゃんと起きたんだよ。でも、着ようと思ってた服が見当たらなくて……」
ごにょごにょとした言い訳は、語尾が消え入りそうで最後は何を言っているのか分からない。叱られて、言い訳にならないような言い訳を繰り広げるのがいつもの流れだ。ちっとも変わっていないやりとりに、志穂子は思わず吹き出した。
「もう、何笑ってるのよ」
くつくつと肩を震わせる志穂子を、千明が軽く睨む。
「だって、相変わらずなんだもん」
「だから笑って許しちゃ駄目なのよ!」
腕組みして憤慨している千明に、香織はしゅんと小さくなっている。
「まあ良いじゃん。たった五分だし、香織にしたら早いよ」
志穂子がそう言うと、千明はまあねと同意した。
「やっぱ志穂ちゃんは優しいね」
そう言うと、するりと腕を絡ませて香織が甘えてくる。昔から、こういうところが憎めないのだ。
「あのね、言っておくけど諦められてるんだよ。五分くらいの遅刻なら、香織にしては合格だろうって」
「まあ、そう言うことだね」
からかうように口を挟む宏美に志穂子も同調すると、香織が拗ねたように頬を膨らませて呟く。
「悔しいけど、言い返せない……」
その声音があまりにも不本意そうだったので、三人は声をあげて笑った。つられるように香織も笑う。霧雨けぶる中、四人の明るい声が響いていた。
それから四人が向かったのは、駅前のファミリーレストランだった。店内に入ると、ランチタイムにも関わらずすぐに席に案内された。雨のせいか、いつもより客足が鈍いようだ。
「やっと念願叶ったね」
全員がオーダーを済ませると、嬉しそうに香織が口を開く。
「だね。ずっと四人で来ようって約束してたもんね」
宏美の言葉に、全員が大きく頷いた。この店は、この町唯一のファミリーレストランだ。二年前にオープンした時はちょっと都会になった気がして、クラスでも暫くその話題でもちきりだった。もっとも、中学生だった彼女たちは殆どが家族と利用していて、談笑している高校生のグループを眺めながら密かに学校帰りに寄り道するのに憧れていたのだ。
「ファストフードじゃないお店に、友達同士で入ったらちょっと大人になった気がするよね」
店内をちらりと見まわすと、千明がにやりと笑いながら囁いた。その言葉に、皆が分かる分かると大きく頷く。
「わたしは定期を買ってもらった時、結構テンション上がったよ」
「それ、わたしは未だに憧れてるんだけど。自転車通学だから定期持ってないんだよね」
考えてみれば、大人になった気がするとはしゃいでいる行為がそもそも子供っぽいのだけれど、楽しいのだから仕方がない。そうこうしているうちに、注文した料理が続々とテーブルに運ばれてきた。それらを平らげながら、志穂子たち四人は空白期間を埋めるかのように色んな話をした。久しぶりの再会に加え、全員が新しい環境に身を投じているので話題には事欠かなかった。
「ちょっと安心した」
やがて、ふと会話が途切れた瞬間に、ぽつりと千明が呟いた。
「安心?」
不思議そうに目を瞬かせ、志穂子が千明を見つめる。
「うん。志穂が新しい学校で上手くやってるみたいで安心した」
「わたしのこと?」
安心したということは心配していたということで、志穂子はその対象が自分であることに意外な気がして思わず聞き返した。確かに志穂子は社交的なタイプではない。 けれども新しい環境でちゃんと人間関係を築けるくらいの対人スキルは持ち合わせているつもりだ。
「みんな別々の高校に進学したけど、志穂は引越しもあったじゃない。わたしたちは他に同じ中学出身の子がいたけど、志穂はひとりだったからちょっと心配してたの」
「千明……」
確かに、ひとりは心細かった。自分だけが別の町に離れてしまうことも寂しかった。けれど、友人たちが心配してくれていたことを知り、志穂子は心がじんわりと温かくなるのを感じていた。
「何かさ、千明ちゃんってば志穂ちゃんには優しいよね」
しんみりとした空気が漂う中、拗ねたように口を挟んだのは香織だ。
「はあ?」
「千明ちゃんと宏美ちゃんは同中の子いたかもしれないけど、わたしだって今の高校ひとりだったもん」
「あんたは誰とでもすぐ友達になれるじゃん。人の懐にもぐり込むの上手いしね」
こともなげに千明が言う。
「何かそれ、褒められてる気がしない……」
「だって、別に褒めてないから」
そう千明が答えると、香織は意地悪と言って睨みながら丸めた紙ナプキンを投げつけた。子供じみたふたりの応酬を、宏美が懐かしいやりとりだなあと感慨深げに眺めている。
「香織は何考えてるか分かりやすいから良いの。嬉しいとか嫌だとかすぐ分かるし、誰にでも心を開いているからね。でも、志穂は愛想笑いで誤魔化すからちょっと厄介なのよ。うちらは付き合い長いから分かるけど、他の人に壁作ってるように感じられたら困るなあってちょっと心配してたんだ。けど、友達もできたみたいだし安心した」
「取り越し苦労だったね」
宏美が言うと、まあねと千明が頷いた。
「ねえ、それはわたしのこと褒めてる?」
「褒めてるんじゃない?」
おずおずと尋ねてくる香織に宏美が肯定すると、両手を上げて喜んだ。志穂子はそんな三人のやりとりを、何も言えずにただ黙って見つめていた。
「さて、そろそろ出ようか」
ちらりと腕時計に目をやると、やがて千明が言った。四人が話し込んでいる間に隣のテーブルは三組くらい入れ替わっていたけれど、満席にはなっていなかったのでまあ良いかと心の中で言い訳をする。それぞれが別々に会計を済ませて外に出ると、いつの間にか雨はあがっていた。
「これからどうする?」
志穂子が尋ねる。片道二時間かかるとは言え、帰るにはまだ早い。何よりも気心知れた友人たちと過ごす時間は居心地が良すぎて、まだ家に帰りたくなかった。
「ちょっと歩こうか」
すると、宏美がそう提案した。そうしてゆっくりと歩き出す。三人はまるで行き先が決まっているかのように意思を持った足どりで前を行くので、志穂子は不思議に思いながらついて行った。
2011/11/07