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11. 薄闇の中の自覚


 仄暗い意識の片隅で、虫の羽音のような音が響いている。
 うるさいなあと思いながらも暫く目を閉じたままでいたが、一向にその音はやまない。わたしはついに我慢ができなくなって、追い払おうと手をふりあげた瞬間、目が覚めた。

 ぼんやりとしていた頭の中が、徐々に覚醒してゆく。のそりと体を起こすと、ようやくわたしは空気を震わせる音の正体が、携帯電話のバイブ音であることに気がついた。
 部屋の中は薄暗く、明け方なのか夕方なのか、時間の感覚を失っていて軽く混乱する。そんな中でようやく携帯に出なければと思い至り、慌てて暗がりの中で点滅している青色の光に手を伸ばした瞬間、携帯電話はぷつりと振動を止めた。
 そっと手に取り、待受け画面を開く。薄闇の中にぼんやりと白く浮かび上がる画面には、着信履歴として楓の名前があった。

 今まで眠っていたわたしの意識が、その瞬間、一気に目が覚めた。
 一体、何の要件だろうか。メールでなく電話だというところに緊張感が高まる。良いことだろうか、悪いことだろうか、それとも他愛のないことなのだろうか。期待したら駄目だと思いながらも高まる鼓動を抑えつつ、わたしはリダイヤルのボタンを押す。コール音が一回鳴ったあと、もしもしという声が聞こえた。
「もしもし、桜子です。電話くれていたみたいだけど、どうしたの?」
 緊張を隠しながらそう言うと、電話の向こう側で大きく息を吐く音が聞こえた。
『いや、別に用はないんだけど。今朝のメールに今日帰るとあったから、もう着いたかなと思って』
 予想外のその言葉に驚き、そしてそれ以上に嬉しくなった。同時に、急激に楓に会いたくなる。会おうと誘ってくれるんじゃないかと、淡い期待が湧き上がった。
「昼過ぎに帰って来て、片づけていたらいつの間にか寝てたみたい」
 そう言いながら化粧のとれた寝起きの顔に手をやると、愚かにもわたしは何分あれば家を出られるかを計算していた。

『ごめん、起こしてしまって』
「ううん、起こしてもらって助かった。あのままだと夜中まで寝てそうだったから」
 わたしの言葉に、楓が微かに笑う気配が伝わってきた。
『随分と、ゆっくりしていたんだね』
「え?」
『もともとは、四日に帰ると言ってなかったっけ?』
 ああと、わたしは呟いた。今日はもう六日だ。
「そのつもりだったんだけど、色々あって。実は出産を控えた姉も実家に戻っていたんだけど、予定より十日以上も早く産気づいて、三日の夜に生まれてきたの」
 ふくふくとした小さな甥っ子の寝顔を思い出しながら、わたしは説明した。
『そうだったんだ。おめでとう』
「ありがとう。わたし、叔母さんになっちゃったよ」
 そう言って笑うと、携帯電話の先で楓も笑った。

 やがて、沈黙がおとずれる。まだ電話を切りたくなくて、けれども会いたいと言う言葉を出す勇気も出なくて黙っていると、楓が思い出したように言った。
『そうだ、写真ありがとう』
 今朝、実家を発つ前に神社で撮った楓の写真は、電車を待つ間に送信していた。電話越しの声に耳元で囁かれたような錯覚に陥り、わたしの心臓は早鐘を打つ。
「ううん。本物はもっと綺麗なんだけど」
『充分綺麗だったよ』
「あのさ……」
 電話の向こうから聞こえる優しい声音に勇気づけられ、わたしは言葉を紡ぐ。けれども続けたかった台詞は、かぶせるように発せられた楓の言葉に遮られてしまった。
『ごめんね、急に電話なんかして』
「あの……」
『じゃあ、また』

 名残惜しむこともなく、期待させるそぶりさえ見せず、残酷なまでにあっさりと電話は切れた。良かったら今から食事にでも行かないかという誘いも、今暇かという質問さえ発することは許されず、再び喉の奥に飲み込まれる。ツーツーと鳴り続ける電子音を聞いていると、ふつふつと恥ずかしさがこみ上げてきた。突然かかってきた電話に舞い上がり、勝手に期待して勝手に落ち込んでいる自分が何とも滑稽だった。
 携帯電話を枕の脇に放ると、再びごろんと横になった。時計を見ると、五時半を少し過ぎたところだ。開けたままのカーテンの向こうに、冷たく尖った月が覗いている。切ないなあと、無意識のうちに言葉が零れた。
 声に出した瞬間、わたしは急激に切なくなった。楓に恋をしていることを、もはや認めざるをえなかった。



2011/05/06

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