雨の記憶
17. 腕の中のぬくもり
それは、衝撃だった。腕の中の細い肩を、強く、強く抱きしめる。
既に凪と雨音は冷たい雨に濡れそぼっており、にわかに強くなった風がふたりの体温を奪ってゆくが、触れ合っている部分は目眩がするくらいに熱かった。
あの日、夕暮れの教室で、凪は雨音を苦しめたくなかったから彼女の記憶を刺激しないように避けていたと告白した。それは嘘ではない。嘘ではないけれど、それだけが理由ではなかった。
凪は、記憶を戻した雨音に拒まれることが怖かった。ひとりでレンを逝かせてしまった弥風の狂おしいくらいの後悔の念が、記憶を戻した彼女から拒絶されることへの恐怖となっていた。
そのくせ、自分だけが過去の記憶を持っていることに対して、理不尽さを感じていたりもした。物心ついた頃から、何度も何度も、吐き気がするくらい繰り返し見た夢。一体自分にどうしろと言うのかと、ぶつける先のない怒りを持て余していた。過去の自分が犯した罪は、生まれ変わっても負わねばならないのだろうか。凪というあまりに皮肉な名前も、罪人が負う焼印のようなものなのだろうか。どうして自分だけがと、ひとりその運命を呪った。
だから、彼女には思い出させたくない、思い出して欲しくないと強く願っていた。けれども同時に、自分だけでなく共に過去の記憶を持て余して苦しもうという屈折した思いが、常に凪の心の奥底に混在していたのだ。
思い出されても、本当は困るだけのくせに……。
拒絶されれば当然傷つくだろうけど、万が一、意識することになっても当惑する。もしも雨音が凪を特別だと感じてくれたとして、それが凪だからと言える証拠は一切ないのだ。凪が雨音を常に目で追いかけている理由が、雨音に惹かれているのか凪の中の弥風がレンを見つめているのかわからないのと同様に。
過去の記憶に引きずられて互いを想うことは、雨音にとっても凪にとっても不幸だった。
しかし、雨音は凪の知らないところで行動し、自ら過去の記憶を覚醒させてしまう。風邪で寝込んでいる間、すっかり記憶を取り戻してしまったのだろう。三日ぶりに登校した雨音の顔は、儚いくらいに白かった。
凪は、死ぬほど後悔した。彼女が自分と同じように記憶を取り戻して苦しむようにと、少しでも願ってしまったことを。そして彼女が寝込む前に、明らかに記憶を取り戻す引き金になるような会話をしてしまったことを。
だから、もう二度と雨音に関わらないでいようと決めた。あと少しでクラスが変わる。クラスが離れれば、二度と関わることもない。もう、雨音の姿を視線で追うこともないのだ。
口にはしなかったが、それはふたりが互いに了承した暗黙の決めごとのようだった。
けれども今、雨音は凪の腕の中にいるのだ。
華奢な体のどこにそんな強さを抱えていたのかと思うくらい、まっすぐな想いを、唐突にぶつけてきた。
心が震えないわけがない。
涙が出ないわけがない。
ずっとずっと、茜色に染まる放課後の教室でも抱きしめたかったその細い肩を、引き寄せない理由なんてなかった。
渡り廊下の脇の駐輪場には、雨の音と、互いの鼓動の音しかしなかった。
抱き潰してしまいたい衝動に駆られて腕に力を込めると、遠慮がちに凪の背中にまわされていた雨音の細い手が思いのほか強く抱きしめ返してきたので、胸が熱くなった。
次の日曜日は快晴だった。一週間停滞していた灰色の雲は消え去り、空には澄み切った青色だけが広がっている。
凪は、目の前の小さな背中を黙って見つめていた。晴れてはいるが、冬の太陽の威力は気温を上昇させるにはまだ弱い。肌を刺す冷たい空気に、マフラーを口元まで引き上げた。
何を話しているのだろうか。目の前の背中はまだ立ち上がらない。北風が頬を掠め、微かに花の香りがした。
あの雨の日、家に帰った雨音はこっぴどく母親に叱られたらしい。年末に寝込んだばかりなので当然だろう。
翌日登校した雨音は、少し鼻声だったが元気そうだった。昨日は散々心配かけたし、これで風邪をひいたら母親が激怒するから意地でも体調は崩せないと言って、少しおどけたように笑った。
そして、そのあとに彼女から聞かされた事実は、凪にとって衝撃的なものだった。
「お待たせしました」
立ち上がった雨音が、凪を振り返る。雨音と入れ替わりで、今度は凪がしゃがみこんだ。
目の前には、清められた墓石がある。両脇には、雨音が持って来た白い花が手向けられていた。
何から話そうか。そう思いながらそっと手を合わせ、目を閉じた。
澤田家の墓は、電車で一時間ほどのところに位置する霊園にあった。雨音から祖母がセンであったという話を聞いて、墓参りに行きたいと言い出したのは凪の方だ。目を開けると、深緑色の線香の先から真っ直ぐに細い煙が立ち上っている。もう一度軽く手を合わせると、凪はゆっくりと立ち上がった。
高台にあるこの霊園からは、市内を一望できた。遮るものが何もないので吹きつける風は冷たいが、空が近くに感じられて気持ちが良い。どれくらいそうしていただろうか。ふたり黙って墓前に立っていたが、やがてどちらからともなく片づけ始める。
去り際に振り返ると、凪はもう一度、深く一礼した。
墓石を清める為に借りていた桶を返し、ふたりは並んで霊園を出た。すぐ目の前には広大な公園が広がり、その一角には白や黄色の花が凛とした姿で咲き誇っていた。雨音が供えた花と同じだ。
「何の花か、知ってる?」
凪の視線の先を確認すると、雨音が尋ねてきた。
「いや。花の名前は全然わからない」
凪は小さく首を振った。家で母親が色々育ててはいるが、凪自身は植物にさほど興味はない。
「水仙だよ。おばあちゃんが大好きだった花」
雨音の言葉に、凪は水仙の花から彼女の横顔へと視線を移す。穏やかな声と同じくらい、穏やかな表情だった。凪の視線に気づいたのか、雨音が凪を見上げてくる。目と目が合うと、雨音は微かに笑った。
「おじいちゃんに、あなたは水仙のような人だって言われたんだって。僕は水仙の花が一番好きだから、僕と結婚して下さいって」
気障でしょうと言って笑うと、雨音は水仙の花が咲く方へゆっくり歩き出した。花の匂いが、徐々に強く香ってくる。
「おじいちゃんにそう言われたからか、スイ族のセンという音にかけているのか、単に色や香りが好きなだけか。おばあちゃんが水仙の花を好きだった理由はわからないけど」
そこで雨音は言葉を区切ると、肩から斜めにかけている茶色の鞄から赤茶けた一冊の本を取り出した。
「知ってる、この本?」
「梅香日記」
雨音の問いに凪があっさりと答えると、彼女は特に驚くでもなく、そっと色褪せた表紙を開いた。
過去に囚われたくないと思いながらも、凪は過去を調べずにはいられなかった。図書館に入り浸り、インターネットを駆使して野分一族やスイ族についての情報を集めた。弥風の父についての記述が残っているこの本も、県立大の図書館で見たことがある。
「おばあちゃんの本なんだ。そしてこれが、おばあちゃんからの手紙」
本に挟まれていた二つ折りの紙を、凪は少し緊張しながら受け取る。水に濡れたのだろうか。少しふやけたその紙を、凪はそっと開いた。左下には目の前に咲く花と同じ水仙が描かれ、中央には毛筆で書かれた短い一文があった。
「幸せな一生でした」
雨音がその一文を読み上げる。凛と張り詰めた冬の空気は冷たく、声を発するたびに息が白く染まった。
「形見分けされたこの本の間に挟まれたまま、ずっと親戚の家で眠っていたらしいの。この前たまたま叔母が見つけて、皆でおばあちゃんの最後の惚気だねって笑ってた」
ああそうかと、凪は納得した。これを読んで、雨音はあの雨の日に自分のもとへと飛び込んで来たのだ。
凪は滲んだ文字をそっとなぞった。滲ませたのは雨なのか、涙なのかはわからなかった。
「これ、皆に頼んで、わたしがもらったんだ」
凪がその紙を雨音に返すと、彼女は再び古い本のページに挟み、宝物を扱うようにそっと鞄の中にしまった。
「おばあちゃんから、わたしへのメッセージの気がしたから」
そう言うと、雨音は白く咲く水仙の花を見つめた。
「記憶が戻った時、一番わからなかったのはおばあちゃんの真意だった。どうしてレンと弥風の話を幼いわたしに聞かせたのか、どういう思いで話していたのか。センがレンの気持ちに気づいていたことも、おばあちゃんがわたしがレンであることに気づいていたことも、それは間違いないと思う。だから、これは復讐なんじゃないかとも考えた。事実を知ったわたしが苦しむようにと、敢えて仕組んだのではないだろうかって」
凪は何も言えなかった。弥風とセンが婚姻関係にあったとはいえ、その期間はほんの僅かだ。そんな凪でさえ、センに対して色々な感情がある。まして生まれた時から共に過ごしたレンとセンの絆は、第三者にははかり知れない。しかもそのふたりが、祖母と孫として生まれ変わったのだ。口にこそしなかったが、雨音が祖母に対して罪悪感を感じているのは明白だった。
雨音の心情を思っていたら、余程凪は辛そうな顔をしていたのだろう。大丈夫だと安心させるように、雨音がそっと微笑んだ。
「おばあちゃんは澤田ナミとして生き、おじいちゃんと共に自分の幸せを掴んだ。だからこれは、わたしにも澤田雨音として幸せに生きなさいというメッセージに思えたの」
「きっと……」
雨音に祖母がセンであったと聞かされた時から感じていたことを、凪は言葉にする。
「おばあさんは、どうやってもレンの記憶がいつか覚醒するとわかっていたんだと思う。だから、レンがセンに弥風のことを黙っていたという罪悪感を感じなくてもいいように、弥風の相手をレンとした物語を君に聞かせたんじゃないかな」
当事者である弥風の記憶を持つ凪にとって、そうあって欲しいという希望を含んだ仮説だったが、あながち外れてはいないと思う。敢えてこの本の間にメッセージを託したということに、何よりも大きな意味が含まれているような気がしてならないのだ。
「わたしもそう思う」
雨音は凪の言葉を肯定すると、嬉しそうに笑った。
「おばあちゃんは自分を水仙に、わたしを睡蓮の花になぞらえていたみたいでね。復讐なんかじゃない、与えてもらった愛情はすべて本物だったんだって、今はちゃんと信じられる」
何か吹っ切れたような、晴れ晴れとした雨音の表情に、凪の胸が温かくなる。
雨音に触れたい。そう思った瞬間、無性に凪は可笑しくなった。雨音の表情ひとつに戸惑うくらいの愛おしさを感じているくせに、そんな気持ちを自分自身でずっと疑っていたのだから。
凪の心の内を知らず、彼の隣で雨音が寒そうに自分の両手に息を吐きかけた。どうやら手袋を忘れたらしい。
「そろそろ行こうか。何か温かいものを飲みたいな」
体は芯まで冷え切っている。凪の言葉に小さく頷いた雨音の頬や鼻や耳は、寒さのせいで赤く染まっている。思い切って、凪は彼女の手をとった。そして指先まで冷え切った手を自分の掌で包み込むと、凪はそのまま自分のコートのポケットに突っ込んだ。
抵抗はされなかったが、少し不安になって凪がちらりと雨音の表情を窺うと、やはりその頬や鼻や耳は赤い。けれどもその赤さは尋常じゃなく、それが寒さのせいでないことは明白だった。
真冬の公園に人気はなく、手と手を繋いだことで一気に高まった緊張感がふたりを急に無口にした。
信じられないなと、凪は思った。入学式で雨音を見た瞬間に彼女がレンだとわかったが、あの頃は彼女の隣で手を繋いで歩く未来なんて微塵も想像できなかった。いや、想像してはいけないと、頑なにそう信じていたのだ。
「何、考えてるの?」
沈黙に耐え切れなくなったのか、雨音が小さく問いかける。恥ずかしいのか、凪の方は見ることができないようだ。
「入学式で、はじめて君を見た時のこと」
「第一印象は、地味な子だなあ?」
照れ隠しのように、悪戯っぽく雨音が笑う。そんなことは、ある筈がない。凪は、一年前のあの日の情景を思い浮かべた。
「第一印象は、チューリップかな。そうだ、俺には睡蓮よりもチューリップのイメージだ」
凪のポケットの中の手が、びくりと震えた。足が止まる。
「どうしたの?」
何かまずいことでも言ってしまったのかと、雨音の反応に凪は動揺した。
「ううん。ただ、どうしてチューリップなのかと思って」
手を繋いでからずっと恥ずかしそうに足元を彷徨っていた雨音の視線が、真っ直ぐ凪に向けられた。
「入学式の日、正門の脇の花壇の前でお母さんと写真を撮っていただろう?」
去年の春は桜の開花が早く、入学式の日には既に葉桜となっていた。その代わり、チューリップやパンジーなど、色とりどりの春の花が新入生を出迎えてくれた。例年、入学式に合わせて園芸部が準備してくれているそうだ。
「そういえば撮ったね」
「カメラを持ったお母さんに指示されて、少し恥ずかしそうに花壇の前に立っていた。それが、はじめて見た君の姿だった。だから俺が君を想う時に浮かぶのは、赤いチューリップの前で笑う姿なんだ」
凪から目を逸らすと、雨音は俯いてしまう。ぽろぽろと、大粒の涙が零れていた。
「ご、ごめん。何か気に障ること言ったんだったら謝る」
「違う」
突然の雨音の涙に動揺して、理由もわからずに謝ると、雨音は思いのほかきっぱりとした口調で否定した。
「そうじゃないの。これは嬉し涙なの」
凪のポケットから手を抜くと、雨音は両手で顔を覆った。細い肩が、微かに震えている。
「チューリップは、子供の頃からわたしの好きな花だから。わたしが、わたしが好きだったから……」
雨音は嗚咽を堪えるようにそう呟くと、そのあとはただ静かに泣いていた。凪は思わず、雨音を自分の胸に抱き寄せる。驚いたように体を強張らせたのを無視し、そのまま強く抱きしめた。
雨音が思い出した過去の内容を、凪は知らない。凪が抱える記憶も、雨音には知らせていない。レンと弥風が共有する記憶以外についてはお互い何も知らないし、それすらも果たして同じなのか定かではないのだ。
過去に囚われずに生きてゆくと決めたけれど、過去の記憶に苦しむことはこの先もきっとあるだろう。実はまだ思い出していない出来事があって、突然記憶が蘇る可能性がないとも言い切れない。前世の記憶を持つ以上、凪と雨音は普通の人たちとは違う問題で、すれ違ったりぶつかったりするかもしれないのだ。
やがて、おずおずと雨音が凪の背中に手を回し、遠慮がちにコートを掴んだ。凪の胸に、熱いものがこみ上げてくる。
未来に不安がないとは言えないが、ふたりの気持ちが同じであることは確信できる。その気持ちがあれば、きっと乗り越えてゆけるだろう。雨音の祖母のように、痛みも苦しみも悲しみも、いつか幸せという言葉に変えてみせるのだ。
不意に、凪は言葉にしようと思った。自分の気持ちを、きちんと言葉にして雨音に告げようと。
凪は雨音の耳元に、そっと顔を寄せる。
そして世界中で、雨音にしか聞こえないように囁いた。
「雨音が、好きだよ」
耳もとで囁かれた、自分の名前。
生まれた時から呼ばれ続けた名前は当然耳に馴染んでいる筈なのに、少し低い穏やかな声は体中に染みわたり、告白の言葉と相まって瞬く間に雨音の体温を上昇させた。
ようやく渇きかけたのに、再び涙が溢れてくる。今日はもう、涙腺が決壊してしまったようだ。
泣き顔を見られたくないのと、あとは赤面している自覚があるから、だから雨音は顔をあげられない。かといって、いつまでも凪の胸に顔を埋めている状態でいるのも心臓に悪い。体内の血液は、まるで沸点に達しているように熱かった。
すっかり体を離すタイミングを失って、半ばパニックになっている雨音の耳元に再び凪が顔を寄せる。
「耳、真っ赤だよ」
明らかにからかいの色を含んだ声が悔しくて、反射的に雨音は顔をあげた。
「谷岡くんは、弥風よりも意地悪だ」
自分は心臓が壊れるのではないかと心配になるほどドキドキしているのに、どこまでも余裕な凪の態度が悔しい。だから反撃のつもりでそう言ったのに、結果は凪を喜ばせただけだった。
「だって、別人だもん」
嬉しそうに笑いながらそう言うと、ゆっくりと凪が顔を寄せる。
甘い予感がして、雨音が瞼を震わせながらそっと瞳を閉じると、冷たい唇が優しく触れた。
2011/01/05