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の記憶



16. 氷雨が降る中で


 祖母が肺炎で亡くなったのは、秋と冬が交わる季節だった。数年前に癌を患い、手術ですべて摘出して転移は認められなかったものの、寒暖差が激しい季節の変わり目に風邪をこじらせて呆気なく逝った。

 その日は、朝から雨が降っていた。
 小学校から帰ると、まるで雨音の帰りを待ちわびていたかのように、誰もいない家に電話が鳴った。ずっと祖母に付き添っていた母の声は、聞いたことがないくらい低かった。受話器を置くと、雨音は傘も持たずに家を飛び出した。
 呼吸が苦しいのは、全速力で走っているからか、それとも祖母の死が恐ろしいからか。心臓が、痛かった。

 見慣れた祖母の顔は昨日までと何ら変わりはなく、まるで眠っているようだった。
「おばあちゃん」
 囁くように、呼びかける。
「おばあちゃん!」
 声が震えた。
「ばあちゃん、ばあちゃん、ばあちゃんっ!!!」
 いつの間に到着したのか、会社から駆けつけた父にうしろから肩を強く掴まれた。
「おばあ、ちゃん……」
 雨と涙が滴になって頬を伝い、ぽたりぽたりと床を濡らす。最後の呼びかけは喉の奥で掠れ、声にはならなかった。

 結局、雨は通夜と葬儀を終えるまでやむことはなかった。
「涙雨だねえ」
 手伝いに来てくれていた近所のおばさんたちが寂しそうにそう呟いていたのを、雨音は今でも鮮明に覚えている。





 三学期が始まり、表面上では穏やかな毎日が続いていた。
 文化祭や体育祭があった二学期に比べ、三学期は行事も少ない。先週、実力テストを終え、来月にはマラソン大会が開かれる。そのあと学年末テストを終えたら、もう終了式だ。つまり、このクラスで授業を受けられるのもあと僅かなのだ。
 理系を目指す智子と、文系の美雪と雨音は、二年生になると確実にクラスが離れるだろう。同じく理系を志望している凪とも。

 あれから雨音は夢を見ることがなくなった。だから逆に、何度も何度も、夢に見た内容を思い出す。恐らくこのまま、凪とは言葉を交わすことなく進級することになるだろう。その方が良いのだと思う一方で、本当にそれで良いのかとも思う。自分がそれを望んでいるのだと言い聞かせながら、本当にそれが自分の願いかと問いかける声がする。
 過去の自分に対して意地になっているのか、過去の自分に操られているのか。自分の気持ちという一番明白なものが、雨音にとっては何よりも複雑でわかりにくいものになっていた。
 ふと我に返ると、黒板に書かれた構文に赤と黄色のチョークを使い分けてアンダーラインを引きながら、英語教師が熱弁をふるっていた。カツカツと音がするたび、チョークの先が小さく砕ける。雨音はそっと溜息を漏らすと、慌てて板書を写した。ちらりと窓の外を見やると、鉛色の雲が重く垂れこめている。
 ここ数日、憂鬱な気持ちに拍車をかけるように曇天が続いていた。今日は夜から雨の予報だ。どうせ降るなら雪が降ればいいのにと心の内で呟きながら、雨音はもう一度小さく溜息をついた。


 雨が降るのは夜からという予報だったが、雨雲が大急ぎでこの地域の上空に集まったのだろうか。時間が経つほどに雲は厚みを増し、六限が終わる頃には今にも降り出しそうな空模様だった。
 迂闊にも傘を忘れてしまった雨音は、ホームルームが終わると友人たちへの挨拶もそこそこに慌ただしく教室をあとにする。駐輪場から自転車を出すと、降るな降るなと念じながらペダルに力を込めた。その願いが通じたのか、ぽつりと頬に滴が落ちてきたのを感じたのは、最後の角を曲がって雨音の住む家が見えてきた時だった。
「ただいま」
「あら、雨音ちゃん。お帰りなさい」
 コートを脱ぎながらリビングを覗くと、叔母の明子が母と向かい合って座り、お茶を飲んでいた。父の妹である明子と母はいわゆる小姑と嫁の関係だが、同い年ということもあり妙に気が合うのか、たまにふたりで買い物に出かけたりしている。今日は母のパートが休みの日なので、二駅先に住む叔母が遊びに来たのだろう。

「明子おばさん、ケーキを買って来てくれたわよ。先に手を洗って、おやつに頂きなさい」
「やったあ、ありがとう。そうだお母さん、雨降ってきたよ」
「あら、やだ。洗濯物を取り込んで来なきゃ」
 お茶は自分で淹れなさいと言い残し、母はパタパタと二階のベランダへ駆け上がって行った。雨音は洗面所で手洗いうがいを済ませると、缶の中からティーバッグを取り出してお湯を注いだ。冷えた体に、立ちのぼる湯気が温かい。冷蔵庫を開けると白い大きな箱があり、その中には色とりどりのケーキが入っていた。駅前の人気店のケーキのようだ。
「うわあ、どうしよう。すっごい迷うなあ」
 苺に惹かれるがチョコも捨てがたいし、チーズケーキにも心が揺れる。
「お父さんとお兄ちゃんは残りもの決定だから、雨音ちゃんの好きなもの選びなさい」
 結局、雨音は大きな苺が載ったショートケーキを選ぶと、残りが入った箱を名残惜しそうに冷蔵庫に戻した。
「いただきます」
 子供のように手を合わせて元気よく唱えると、真っ白の生クリームに覆われた柔らかなスポンジにそっとフォークを差し込んだ。
「美味しい!!」
「それだけ美味しそうに食べてくれると、買って来た甲斐があるわね」
 ティーカップに口をつけながら、叔母がくすりと笑った。
「そういえば、今日は明子おばさん何かあったの?」
 苺を口の中に放り込みながら雨音が尋ねる。甘酸っぱい苺の味が、口の中に広がった。

「おばあちゃんが書いたメモが、見つかったんですって」
 二階から下りて来た母が、制服を着替えもせずに行儀が悪いと小言を言いながら、雨音の質問に答えた。
「おばあちゃんの、メモ……?」
「ええ。亡くなったあとに形見分けでもらった本の中に、挟まっていたの」
 叔母の答に、雨音の心臓がとくりと鳴った。
「明子おばさんち、もうすぐ建て替えるから暫くマンションに仮住まいするって言ってたでしょう? それで引越しの準備をしていたら、そのメモが見つかったんですって」
 事の顛末を説明する母の言葉が、まるで薄い膜を通しているかのように、どこか遠くに聞こえた。

「雨音ちゃんも読んで。おばあちゃんから、みんなへのメッセージ」
 そう言うと、叔母は鞄の中から赤茶けた本を取り出し、その間に挟んでいた小さな紙を雨音に差し出した。指先の震えは、もはや止められない。黙って受け取ると、雨音は息をひそめて、折りたたまれた紙をそっと開いた。
 和紙のような風合いのそれには、左下に水仙の花が描かれており、毛筆で書かれた一文は紛れもなく祖母の字だった。その瞬間、弾かれるように雨音は立ち上がる。
「ちょっと雨音、どこ行くの!?」
 背後で母の困惑した声がしたが、雨音にはそれに答える余裕はなく、雨の中へと飛び出して行った。

 ペダルに力を込め、必死に自転車をこぐ。いつの間にか、雨はみぞれに変わっていた。氷まじりの冷たい雨が、容赦なく髪を、顔を、全身を濡らした。息が切れる。それでも何かに憑かれたかのように、雨音は学校への坂道を全力で上っていた。
 雨音が当番ではない木曜日だから、たぶんきっと、彼は図書室にいる。雨音はそう確信を持って通用門をくぐり、スピードを緩めないまま駐輪場のある方へ右折した。

「うわっ!」
 右側にハンドルを切った瞬間、視界に紺色のコートを着た男子生徒が飛び込んできた。雨音は両目をぎゅっと閉じ、渾身の力でブレーキを握る。しかし慌ててブレーキをかけた為にスリップしてしまい、雨音の自転車は派手な音をたてて転倒した。倒れる瞬間、緑色の傘が宙を舞うのが見えた。
「大丈夫!?」
「ごめんなさい!」
 慌てて緑色の傘の主が駆け寄って来る。雨音は反射的に立ち上がり、放り出された傘を拾った。右手の甲と右膝を擦りむいて赤く血が滲んでいたけれど、不思議と痛みは感じなかった。
「澤田、さん……?」
 顔をあげると、驚いた表情を浮かべる凪の姿があった。

「何か、あったの?」
 凪は雨に打たれている雨音の自転車を起こすと、至極真っ当な質問を口にした。衝動的に家を飛び出した雨音は真冬なのにコートを着ておらず、傘も持っていない。あまりにも尋常じゃない彼女の様子に、凪は訝しんでいる様子だった。
 凪は雨音が拾い上げた自分の傘を受け取り、そのまま雨音の頭上へ傾けた。大きな緑色の傘の中で、雨音と凪は見つめ合う。そこにあるのは、ただ、雨の音だけだった。
 緑色の傘の中、雨音は震える手でスカートのポケットにそっと触れた。濡れて悴んだ指先に殆ど感覚は残っていないけれど、制服の生地の上からかさりとした紙の手触りを微かに感じる。
「わたしは……」
 白い息と共に吐きだされた雨音の声は、震えていた。気持ちが昂ぶっているせいか、寒さのせいか。たぶん、両方だろう。

「わたしは、澤田雨音として生きたい」
 傘を持つ凪の手が、一瞬びくりと動いた。
「たとえ過去にどんな人生を送っていても、わたしはわたしだから。前世の記憶に惑わされてるかも知れないとか、囚われてるのかもとか、頭がぐちゃぐちゃになるくらい考えて。ずっと苦しくて辛くて。でも、やっと結論に辿り着いたの。わたしはわたしだから、自分の気持ちに正直に生きていきたいの」
 支離滅裂なことを言っている自覚はあった。けれども、ただ伝えなければ、言葉にしなければという思いに突き動かされていた。
 入学した時から、無意識に彼を視線が追いかけていた。目が合うと鼓動が高まり、逸らされると落胆した。その気持ちが何なのか、認めないと後悔する。伝えないと、きっとあとの人生で、死ぬほど後悔する。

 ――これはわたしの人生なの。過去なんか関係無く、わたしが好きだと思う人をわたしが選ぶの。
 ――生まれ変わりだから好きになるのと、好きな人が生まれ変わりなのは全然違うからね。


 智子の言葉が、脳裏に響いた。
「わたしは……」
 小さく息を吸う。
「わたしが、谷岡くんを好きなの」

 レンではなく、澤田雨音が谷岡凪を好きなのだ。


 不意に抱きしめられた。無言で、強く。
 その腕は、微かに震えていた。二月の雨は肌を刺すように冷たいのだけれど、触れ合っている部分は確かな熱を持っていて。だからその震えは寒さなどではなく、泣いているのだと雨音は思った。
 ふたりの足元には、再び緑色の傘が転がっていた。



2011/01/04

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