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の記憶



14. 触れ合う右手


 三日ぶりの外の空気は清々しく、熱が引いたあとの気だるさが残る体に、十二月の凛と澄んだ冷気が心地良い。玄関を出て大きく息を吸うと、雨音は心配顔の母に手を振って自転車のペダルに力を込めた。

「おはよう、雨音」
「もう大丈夫なの?」
 雨音が教室に入ると、既に登校していた美雪が駆け寄って来た。その後ろから、智子も心配そうに声をかける。
「うん。もう熱も下がったし大丈夫」
 ふたりを安心させる為に、雨音は笑顔で力強く頷いた。
「最近ずっと調子悪そうだったし、わたしも智子も心配してたんだよ」
「雨音は意外に頑固だから、弱音吐かないんだもん。美雪みたいにすぐにしんどいと言われても困るけど、無理しすぎて倒れられたら本当に心配するんだからね」
 冗談めかして言っているものの、その目は真剣だ。いつも通りに振る舞っていたつもりでも、様子がおかしいことはふたりにはしっかり伝わっていて、逆に心配をかけてしまったのだと痛感する。雨音は親友ふたりに、小さくごめんと呟いた。

「ちょっと智子、わたしそんなにしんどいアピールしないもん。智子はさ、いつもひと言多いんだよ」
 いかにも不本意だと言わんばかりの不機嫌な声音で、大袈裟に顔をしかめて美雪が智子を睨む。智子は悪びれることなく美雪の抗議をさらりと流した。何気ない風を装う為に、智子が敢えて美雪をからかったのも、美雪がそれをわかって大袈裟に振る舞っていることも、雨音にはしっかり伝わっていた。
「ごめん、もう無理しない。それからノートもありがとう」
「いいよ、いいよ。カッコいい雨音のお兄ちゃん見れたしね」
「美雪ってば帰りの電車でも、ずっとその話だったんだよ。風邪ひいてる友達の心配しろっつーの!」
「わたしはちゃんと心配してたもん。智子はおばさんにご馳走になったプリンの話ばっかりだったよね」
 ふたりの暴露合戦に、雨音は思わず吹き出した。

 雨音が早退した翌日の学校帰りに、ふたりはわざわざ家に立ち寄ってくれたらしい。しかし、雨音がそのことを知ったのは昨日のことだった。高熱を出している雨音に近づけてテスト前に風邪をうつしたらいけないからと、母はふたりを娘の部屋には通さずに、持って来てくれた授業のノートだけ受け取っていたのだ。
「やっぱり持つべきものは友達だね。今回、ふたりの愛をひしひしと感じたよ」
 雨音がおどけてそう言うと、先程までバトルを繰り広げていたふたりが顔を見合わせる。
「何よ、今頃気づいたの?」
「雨音ってば鈍感ね」
 珍しく智子と美雪がタッグを組むと、びしりと言い放った。
「だから、何かあったらちゃんとうちらに言うんだよ」
 予想外のふたりの言葉が嬉しくて、雨音はただ、うんと頷くことしかできなかった。けれども同時に、ごめんと心の中で謝罪する。他の何を相談しても、このことだけは言えなかった。
 だから、ごめん。もう心配かけないようにするから。雨音がそう心の中で誓うと、一日の始まりを告げるチャイムが鳴った。


 三日間寝込んだあとの学校は活気がありすぎて、午後には少し疲れてしまった。
 それでも雨音は嬉しかった。ひとり悶々と答の出ない答を求め、熱に浮かされながら様々な感情が脳内に流れ込んでくる。そんな悪夢のような三日間に比べると、何の変哲もない学校生活が何よりも健全でかけがえのないものに思えた。
「雨音、帰らないの?」
 ホームルームを終えた賑やかな教室で、雨音は背後から智子に声をかけられた。
「うん、これから数学の補習なの」
「え、マジで!?」
 隣で美雪が盛大に顔をしかめた。
「他のクラスでも風邪で欠席してた人が何人かいたらしくて、山下先生が補習してくれるんだって」
 期末テストまで一週間を切っているのだが、数学のテスト範囲の授業はまだ終わっていない。運悪く雨音が休んだ三日間のうち三日とも数学の授業があり、テスト範囲を終える為に随分と駆け足で授業が進んでしまったようだ。ただでさえ数学が苦手な雨音は智子にとってもらったノートだけで理解できるのか不安だったが、補習を開いてくれるというので少しほっとしていた。
「補習なんて面倒だけど、でもまあ良かったんじゃない?」
「うん。正直、自力で理解できる自信がなかったから助かったよ」
 テスト前の最悪のタイミングで寝込んでしまったから、これから試験の日まで必死で詰め込まなければならない。智子もそれを心配して解りやすくノートをまとめてくれていたのだが、補習の話に少し安心したようだ。
「美雪も山下に頼んで、一緒に補習を受けさせて……」
「必要ありません!!」
 にやにやと笑いながら提案する智子に対し、美雪がぴしゃりと拒絶する。
「絶対に智子はそう言うと思った」
 言い終わらないうちにかぶせるように返されてしまった智子は、自分の発言が美雪に読まれていたことに不満顔だ。
「珍しく今日は美雪の勝ちだね」
 雨音がそう言うと、得意気だった美雪が珍しいは余計だと口を尖らせた。



 誰もいない廊下は、茜色に染まっていた。
 普段は運動部のかけ声や吹奏楽部のパート練習の音が響いている放課後の校内は、テスト前は部活禁止の為にしんと静まり返っている。補習を終えた雨音は、鞄を取りに行く為に足早に自分の教室へと向かっていた。数ヶ月前のこの時間にはまだ高い位置にあった太陽も、今はその軌道を低く変えている。
 ふと雨音は足を止めた。上履きの先から、自分の黒い影が廊下の先まで長く伸びている。窓から覗く夕日は燃えているように赤く滲み、迫りくる火の色に染まった廊下に、雨音はぞくりと背筋を震わせた。

 教室の扉を開くと、静かな校内に予想以上にがらりと大きな音が響く。そして教室に一歩足を踏み入れた瞬間、雨音の体はびくりと固まってしまった。誰もいないと思っていた教室には、ひとりの生徒が窓際の机に腰かけていたのだ。
 窓の外を眺めていたその人物は、開いた扉の音に驚くでもなく、ゆっくりと雨音の方を振り返った。灯りをつけていない教室は薄暗く、その輪郭ははっきりしない。しかし雨音にはそれが誰なのか、扉を開けたその瞬間にわかっていた。
 まるで言葉を失くしたかのように、雨音はじっと立ち竦む。かける言葉も内容も、言葉を交わして良いのかさえわからず、今日一日その人から視線を逸らし続けていたのだ。
 薄暗がりの中で、ただ互いに見つめ合う。ぼんやりとした薄闇の中で雨音は、目と目が合っていることを確信していた。

 どれほど見つめ合っていただろうか。やがて凪が、浅く腰かけていた机から立ち上がった。まるでそれが合図であるかのように、雨音は机と机の間をゆっくりと凪の方へ近づいて行った。
「ごめん……」
 雨音が凪の傍まで行くと、彼はそっと視線を逸らして苦しそうに呟いた。
「どうして謝るの?」
「全部、何もかも全部、思い出したんだろう?」
 雨音は肯定も否定もせず、黙って凪の横顔を見つめた。あれがすべてなのか、雨音にはわからない。全部なのかも知れないし、まだ夢に見ていない重大な事柄が残っているのかも知れない。それを知る術を雨音は持たないのだ。

「俺は入学式ではじめて澤田さんを見た瞬間から、君がレンだとわかっていたんだ」
 予想もしなかった凪の言葉に、雨音は驚いたように目を瞬いた。口を開こうとしたが、それを拒むように凪が言葉を続けた。
「そして、君が何も思い出してないことにもすぐに気づいた。自分が不用意に近づけば、君の記憶が覚醒するかも知れない。こんな無意味な記憶を蘇らせたって苦しむだけなんだから、それなら俺は距離をとって君の記憶に刺激を与えないでおこうと思った。来年になれば、理系の俺と文系の君は確実にクラスは離れる。今年君が覚醒しなければ、君は一生思い出さなくて済むんじゃないかと思ったんだ」
「だから、わたしを避けていたの……?」
 震える唇から掠れた声が漏れる。雨音の問いに、凪は苦笑した。
「ばれていないと思ったのにな。あの雨の日にバス停で、避けられてると思っていたと言われた時には、どうしようかと思った」
 先程から、雨音の鼓動は早い。何かを聞きたいのに何を尋ねたら良いのかわからなくて、ただ黙って言葉を探していた。
「君は徐々に覚醒して、自分で色々と調べ出して。でも、そこで止められたかも知れないのに、結局俺の行動とか余計なひと言が引き金になって君にすべてを思い出させてしまった」

「違う」
 雨音は小さな声で、けれどもきっぱりと、悔恨に滲んだ凪の言葉を否定した。
「違うよ、それは。谷岡くんがわたしに一切接触しなかったとしても、結局わたしは思い出していたのだと思う。どうして過去の記憶を持たなきゃいけないのかわからないし、正直、わたしの人生にまで踏み込んでくるレンを恨みたい気持ちはあるけれど。でも、それは決して谷岡くんのせいじゃないから」
 その言葉に、驚いたように凪が雨音を見つめる。先程から逸らされていた視線がようやく合った。
「……俺が、弥風が怖くないのか? 恨んで、いないのか?」
 震える声で、凪が呟く。
「谷岡くんは怖くない。弥風も怖くない。ただ、押し寄せてくるレンの記憶にわたしの記憶が塗り替えられそうで、それが怖い。どちらがわたしの経験したことでわたしの感じたことなのか。それとも、レンも過去のわたしだからすべてがわたしの感情ということなのだろうかと、すごく混乱して怖くなるの」
 誰にも言えなかった恐怖を、雨音ははじめて口にした。上手く説明できないけれど、自分が何かに飲み込まれてしまいそうな恐怖。凪の手が微かに動いたが、思い直したようにすぐ元の位置に戻った。

「谷岡くんは、いつから弥風の記憶があるの?」
「さあ。気づけばもう、記憶はあった」
「え?」
 驚いたように、雨音が声をあげる。
「子供だったから前世の記憶という概念がなくて、知っていることや感じていることをすべて口にしたら親が病気だと心配してさ。当たり前だよな。小さい頃は色んな病院に連れて行かれたよ。小学生になってだんだんと自分が普通じゃないとわかりだして、夢に見たことを口にするのはやめたんだ。だから両親は、俺がすっかり普通になったと信じている」
 衝撃的な事実に、雨音は声も出なかった。物心がつく前にあの夢を見るという残酷さに、雨音はぞくりと肩を震わせた。

「一分だけ……」
「え?」
 俯いてしまった雨音の呟きに、凪がそっと聞き返す。
「一分だけ、谷岡くんの右手を弥風に貸して。わたしの右手もレンに貸すから」
「わかった」
 きっと雨音の意図を理解してはいないと思うけれど、凪は小さく頷いた。
 差し出された凪の右手に、雨音はそっと触れる。その手は大きく、ひんやりとして冷たかった。たぶん雨音の手が熱いせいだろう。また微熱が出ているような気がする。

「レンは、弥風を怖いだなんて思わなかった」
 大きく深呼吸して、雨音は静かに言った。触れ合った凪の手が、微かに震えた。
「あの瞬間、弥風の眼が鋭く光って嵐が起きて、まるで別人のようだった。けれど同時に、レンはそれが嬉しかったの。我を忘れて弥風が怒れば怒る程、レンを想ってくれているような錯覚をして。彼女はそんな自分の思考が恐ろしかったの」
 雨音の手を包む凪の手に、ぐっと力が込められた。
 太陽はすっかり沈んでしまい、窓の外には、地面の向こう側から僅かに放たれる赤い光だけが残っていた。音も光も微かな教室で、どれほどの時間そうしていただろうか。
 物足りないくらい刹那にも、目眩がするくらい長い時間にも、雨音はどちらにも思えた。

「一分経った」
 静かに凪が言った。右手と右手が、そっと離れる。手を離した瞬間に、その大きな手が名残惜しいと雨音は感じてしまった。
 不意にチャイムの音が響く。ふたりの肩が、びくりと震えた。
「帰ろう」
 凪の言葉に、雨音は小さく頷いた。

 きっと、明日からふたりの関係はもとに戻るだろう。こんなに言葉を交わすのは、今日が最初で最後だろう。明日からはまた、クラスメイトの中でも一番遠い存在になり、春にはクラスメイトですらなくなる。そうして卒業したら、きっと二度とふたり会うこともないのだ。
 雨音も凪も口にはしなかったが、それが最良だと思っていた。そして、お互いがそう感じていることも知っていた。
 過去の記憶に引きずられて、互いの目の前に広がる未来を束縛したくはない。そしてそれが、自分たちの人生に割り込んできたレンと弥風への、ふたりの制裁でもあった。
 雨音は左手でそっと、自分の右手に触れた。不意に、涙が出そうになった。



2010/12/19

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