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の記憶



13. 揺れる足許


「弥風様、どうぞわたくしに構わず先にお進み下さいませ」
 傷ついた左腕は止血しているが、出血のせいか痛みのせいか、どうしてもレンがひとり遅れがちになる。気遣わしげに何度も振り返る弥風に、レンはそれまで何度も口にした言葉を再び告げた。
「おいては行けぬ」
「少し休んで、あとから必ず参ります」
 弥風が強い口調で彼女の言葉を遮るが、レンは穏やかに、けれど有無を言わさぬ強さをもって言い放つ。
「しかし……」
「どうぞ姫様を、先に安全なところまでお連れくださりませ」
 レンが深々と頭を下げる。弥風はもう、何も言えなかった。視界の端を掠める赤い光が、徐々にその面積を広げていたのだ。

 宇美の国と長年その領土を巡って争っていた隣国の天美は、火の一族と手を組み、突如攻撃を仕掛けてきた。火の一族は、動揺した風の一族を煽って一気に宇美を焼き尽くす作戦だったようだ。けれどもレンがそのことにいち早く気づいた為に風は凪ぎ、火の海になることは免れた。しかし、東の方からぽつぽつと広がる赤い光がこの辺りを飲み込んでしまうのは時間の問題だ。
 このところ天美側が不穏な動きを見せていた為、警戒していた宇美の兵も攻撃を受けて即座に出陣したが、まず守るべきは城であり田畑であり村々である。辺境の地で、半ば独立してひっそりと暮らす異質な集団は、自分たちでその身を守るしかない。
「わかった。では、セン姫と先に参る」
 覚悟を決めたように弥風が頷くと、センが短く叫んだ。
「レンも一緒じゃなきゃ嫌よ。わたしたちは、常に一緒だったのだから」
「なりませぬ。姫様はスイ族の第二姫。まずは逃げ伸びて、混乱している我が一族を安心させてくださりませ」
「わたしだけ逃げても意味がないわ」
 レンは、センの手首を強く掴んだ。
「わたくしもあとに続く者たちと合流し、すぐに参りますから」

「この期に及んで、レンはどこまでも他人行儀なのね」
 センは哀しそうにそう呟くと、レンの手をそっと離した。
「セン姫、そろそろ参ろうか」
 弥風がセンを促す。赤い光はどんどんと迫り、もうあまり猶予がない。諦めたようにセンが小さく頷くのを見て、レンはそっと安堵の溜息を漏らした。不意に、センが射抜くようにレンを見つめる。そしてきっぱりと宣言した。
「レンがわたしをどう思っていようと、わたしにとって一番大切なのはレンだから」

 その瞬間、弾かれたようにレンが叫んだ。
「しっかり歩きなさいよ、セン。絶対に、絶対に弥風様の手を離しては駄目だからね」
 レンがセンの名を呼んだのは、子供の頃以来だった。
「早く来てよ、レン」
 センが嬉しそうに笑って、大きく手を振る。
「すぐに追いつくから待っていて」
 そう言うと、レンも右手を振り返した。
 追手の火にちらりと目をやり、弥風がセンの背に手を回す。そして、参りましょうと短く促した。
 ちらりと、弥風がレンを振り返る。口を開きかけたが、結局何も言わなかった。レンも何も言わない。目と目が合ったその刹那で、今生の別れの言葉をすべて伝え合えたような気がした。
 弥風が深く一礼し、踵を返す。レンも深く、深く、頭を垂れる。
 弥風がセンの手を取り、迫る火と反対の方向へ歩みを進めて行った。そして二度と、弥風がレンを振り返ることはなかった。

 ――何故、出会ったのだろう?
 これまで何度も何度も、繰り返し問い続けた疑問。レンの頬を、一筋の涙が伝った。
 運命を嘆き、不幸を呪い、天を恨む気持ちは正直消えないけれど。今レンが一番望むことは、弥風とセンが生き延びることだ。
 レンの両手が、無意識に胸の前で合わさる。そっと、眼を閉じる。
 草木が焼ける匂いが鼻を掠め、熱い空気が頬を撫ぜる。無心で祈りを捧げた。ただただ、ひたすらに。
 不意に分厚い雲が空を覆い、欠けた月を隠す。天からぽつりぽつりと、火の一族の野望を砕く雨の滴が落ちてきた。


   ***


 目が覚めると、暗闇の中にいた。体の芯が熱い。ここはどこだろうと、朦朧とした頭で考える。
 手を伸ばそうとすると、熱のせいか体が痛んだ。ああ、ここはわたしの部屋だと、暗闇に目が慣れてようやく雨音は納得した。
 そうだ。わたしは澤田雨音で、高校生で、今日は学校を早退して……。
 自分が何者かを確かめるように、ひとつひとつ自身に関わる事柄を確認してゆく。
 喉が乾いた。そう思ったけれど、起き上がるのが億劫だ。
 熱いなと感じながらゆっくり目を閉じると、再び雨音は夢の中へと堕ちていった。





「わたくしが姫様と共に、野分のお屋敷へ?」
「ええ、レンが一緒に来てくれたら心強いわ」
 目の前の少女は、懇願するようにレンの瞳を見つめている。
「もちろん、お伴させて頂きます」
 一瞬の間をおいた返事は、微かに震えていた。気づかれていないかと、承諾の返事に安堵の表情を浮かべるセンをちらりと盗み見る。
 それは別に驚くような内容ではない。幼い頃から仕えている従姉妹が嫁ぐことになれば、侍女としてついて行くのは当然のことだと思っていた。けれど代々の習わしから、嫁ぎ先は同じ一族の誰かだと決めつけていたのだ。
「まさか風の者の元へ嫁ぐことになるとは思っていなかったけれど、仕方がないわね」
 哀しげに、センが小さく笑う。
「わたしは姉様やレンのように強い力を持たないし、これくらいでしか一族の役に立てないから」
 庭に咲く黄色の花を見ながら、自分に言い聞かせるようにセンが呟いた。

 スイ族は代々女性が一族の長を務めており、現在の長はセンの実母でありレンの伯母にあたる人物だ。そして、その跡を継ぐのがセンの姉のランである。ランはセンより五歳年上で美しく、水使いの力も強い。そんなランに、幼い頃からいつもふたりは憧れていた。一方センは生まれつき水を操る力が弱く、従姉妹のレンの方がランと匹敵する力を持っていたのだ。
 しかし女性が権力を持つ一族の中で、長の弟の娘であるレンの地位はさほど高くはない。幼い頃は年も同じということもあり一緒に遊んでいたが、六歳になるとセンではなくセン姫と呼ぶように言われ、言葉遣いも改められた。
「政略結婚だけど、夫になる方が弥風様で良かった。いつか、わたし自身を好いてもらえるように頑張るつもりよ」
 不意に庭から、爽やかな風が吹き抜ける。微かに頬を染めて微笑むセンの、長く美しい髪が揺れる。レンは何も言えず、庭を見つめるセンの横顔から目を逸らした。

 どうして弥風は、風の一族の長の息子なのだろう。
 どうしてセンが、彼の妻になるのだろう。
 どうしてわたしは、ふたりを見守る立場にあるのだろう。

 センの結婚相手が弥風だと知った瞬間から、頭の中を支配し続ける疑問。
 弥風は悪くない。彼がどう足掻いたって、この状況は変えられない。この結婚に、風と水の一族の命運がかかっているのだ。
 センも悪くない。彼女は何も知らないのだから。彼女はただ、運命を受け入れ、前向きに生きようとしているだけなのだ。
 だからこそ、レンは辛かった。レンだって悪くない。彼女はただ出会い、ただ好きになっただけなのだから。
 誰かが悪いのなら、いっそその人を恨めば良いし憎めば良い。けれども全員が自分の意図しない方向へ運命が変わり、翻弄されているのだ。いっそセンがひとりで嫁いでくれれば、夫婦になったふたりを見ることがなければ、いつかレンの心は癒えるのかも知れない。しかし、レンは生まれた時からセンに仕えると言う役目を負わされていた。
 こんな結果が待っているのなら、何故あの雨の日に、自分は弥風と出会ったのだろう。何故、弥風と恋に落ちたのだろう。レンは答の出ない問いを、何度も何度も繰り返す。涙はもう、出なかった。


   ***


「……ね」
 遠くで誰かの声が聞こえる。
「……あ……ね」
 誰だろう、聞き覚えがある声だ。うっすらと瞼を開くと、目の前に心配そうに覗き込む顔があった。
「雨音、気がついた?」
 ほっとしたように、目の前の女性が笑みを浮かべた。
「おか、さん……?」
 声を出そうとしたが、口の中は喉の奥まで乾いていて上手く言葉にならない。
「もう、心配させて。お兄ちゃんが休講でたまたま家にいてくれたから良かったけど、パートから帰って来たら雨音が倒れたって言うからびっくりしたじゃないの」
 泣きそうな顔でそう言うと、額に手をのせた。ひんやりとした温度が心地良い。ああ、この人はわたしのお母さんだ。小さい頃から触れてきた手の温度にようやく雨音は納得した。

「まだ熱が下がらないわね。喉、乾いたでしょう? たくさん汗をかいてるから水分を摂りなさい」
 母に抱えられ、のろのろと起き上がる。体が重い。まったく力が入らず、まるで自分の体ではないような感覚だ。枕元に置いてあったグラスを母が口元へと持ってくると、こくりと冷たい水が喉を通過した。渇きを潤すように、雨音は一気に飲み干した。
「少しは何か食べなきゃね。うどんと雑炊、どっちが良い?」
 母が空になったグラスを持って立ち上がった。
「今はどっちもいらない」
 雨音は再び横になり、掛け布団を引き寄せた。正直、何も欲しくなかった。体の芯は相変わらず熱を持ち、気だるい。食べることも、喋ることすら億劫だった。
「何か食べないとお薬飲めないでしょう? 一口だけでも良いから」
 幼子をあやすようにそう言うと、母は雨音の部屋を出て階段を下りて行った。何も要らないのに。そう思いながら目を閉じると、再び雨音は意識を手放した。





 それから雨音は、何度も何度も夢を見た。

 幼いレンとセンが、無邪気に遊んでいる夢。
 弥風と出会って、痛いくらい心臓が鳴っている夢。
 結婚の挨拶に来た風の一族の長とその息子を見た瞬間、息が止まりそうになった夢。
 毎夜、息を殺して泣く夢。
 別れの時に、弥風と視線を交わす夢。

 レンではなく、雨音自身の夢も見た。

 幼い雨音が、兄にまとわりつく夢。
 祖母の膝の上で、話をせがんでいる夢。
 智子と美雪と、他愛のない話で笑い合っている夢。
 美雪や和也に凪と似合いだと言われて、心のどこかで嬉しく感じている夢。
 凪に視線を逸らされて、傷ついている夢。

 時系列はばらばらで、過去のことも現在のことも入り混じっていた。そして目が覚めるたびに、自分が誰なのか、ここがどこなのかをいちいち確認する。自分が雨音なのかレンなのか混乱し、どちらが夢で現実なのかも曖昧になっていた。
 朦朧とする意識の中で眠ることを拒むのだが、まるで引きずり込まれるかのように、すぐにまた夢の中へと連れ戻される。雨音は、ただ恐ろしかった。レンの記憶が増えてゆくたびに、雨音自身の記憶を奪われるような気がした。夢の中でレンの感情と雨音の感情がないまぜになって、苦しくて切なくて、涙が流れる。まどろんでは覚醒することを何度も何度も繰り返し、もはや時間の感覚はなかった。脳内に流れ込んでくる様々な感情を処理できず、布団の中で小さく丸まって雨音は嗚咽を漏らした。
 ――眠りたくない。もう、何も知りたくない。
 雨音にはこれ以上新たな記憶を受け入れる余裕はなく、振り切れる限界ぎりぎりまで達した感情のリミッターをどうにか押さえながら、ただ眠ることを懸命に拒んでいた。痛みで意識を繋ぎとめる為に、ぎゅっと手を握り自分の爪を掌に食い込ませる。けれども熱のある体に力を込めることは不可能で、雨音の抵抗も空しく、やがて再び意識は夢の沼の中へと引きずり込まれていった。





「……まね」
 ああ、わたしはまた眠ってしまったんだ。ぼんやりと雨音は思った。夢を見ているという自覚が、思考の端にある。
「あ……まね」
 優しい声に反応し、幼い雨音がきょろきょろとあたりを見回す。雨音の意識は、幼い自分を俯瞰していた。
「雨音」
「おばあちゃん!」
 自分の名を呼ぶ温かな声に向かって、幼い雨音は嬉しそうに小さな手を伸ばした。その先には、雨音が小学校四年生の時に亡くなった祖母がいた。祖母は幼い雨音と視線を合わせ、まるで秘密を打ち明けるように囁いた。
「おばあちゃんはね、雨音のことを水のように大切だと思ってるよ」
「雨音もだよ」
 大好きな祖母の言葉が嬉しくて、幼い雨音は思わずぎゅっと抱きつく。祖母から微かな花の香りがした。この匂いを自分は知っていると、ぼんやりとした意識の片隅で雨音は思った。
「本当に?」
 祖母がまるで確かめるように、雨音の顔をそっと覗き込んだ。
「本当だよ。雨音はおばあちゃんが大好きだもん!」
「じゃあ、どうして……」
 くすりと祖母が笑う。
「どうして自分だけ、弥風と同じ時代に生まれ変わってるの?」
 その瞬間、水仙の強い匂いが雨音の鼻孔を突いた。



2010/12/13

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