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の居る場所



 東風の章  玖


 ここ数日は冬に逆戻りしたかのような寒さが続いたが、日が長くなっていることが春に近づいている何よりの証である。ひと月前よりも夜明けが早い。二日ぶりに空を見上げると、女はそう思った。


 守之介によって女が連れられたのは、敷地の西側に位置する蔵であった。建物の上部に小さな窓があるものの、昼間でさえ日の光が殆ど入らず薄闇に包まれていた。底冷えのする蔵の中では眠ることもできず、これからずっとこの場所で過ごすことになるのかと女は絶望した。守之介から城を出て別の屋敷で働くことを命じられたのは、そんな矢先のことであった。
「明日の夜明けと共に城を出る。おまえは今後、田辺の傍系である田代の屋敷に仕えるのだ」
 昨晩、冷えた粟飯を持って蔵を訪れた守之介は淡々とそう告げた。下級武士である田代家の屋敷は町の外れにあり、当主夫婦とその母親が暮らしているらしい。当主の母は足が不自由で歩くことができず、更には心を病んで息子のことも分からなくなっているという。その老婆の世話をするようにと、そう命じられたのだ。
 きっとその屋敷で仕えるのは、難儀なことになるであろう。守之介から与えられた情報は限られていたが、女には容易にそう察せられた。仕える相手も働く環境も大きく変わり、誰ひとり知る人もいないのだ。けれど、当然ながら彼女に拒否権などなく、新しい主人の人柄が良いことをただ祈るのみであった。

「少し此処で待っていろ」
 城を追われる身である自分は、不浄門からあっさりと外へ放り出されるのであろう。茜子はそう思っていたのだが、意外にも守之介からは、蔵から出てすぐの所でそう声をかけられた。
 夜が明け始めたばかりのこの時間にこのような場所を訪れる者はいないが、女は顔を隠すように頭から布を被り、気配を消すように佇んでいた。共に働いてきた者たちは、突然姿を消した女のことをどう思っているのだろうか。布の隙間から天守を見上げると、ふとそんな疑問が頭をよぎった。真実に近い噂が流れるか、真実とはほど遠い噂が出回るか。それとも誰も、居なくなってしまった者のことなど気にも留めていないだろうか。
 幼い頃から働いてきた城には気心の知れた仲間が少なからずおり、せめてその者たちには別れの言葉を告げたかった。けれどもそれが、決して許されない我侭であることは分かっている。そんな資格のない自分は、黙ってさっさとこの城から身を消してしまわねばならないのだ。心の内でそう言い聞かせながら白い息をひとつ吐いた瞬間、女は背後に人が近づいて来る気配を感じた。化

「茜子」
 己の名を呼ぶ小さな声に、女はぴくりと体を強張らせる。その声の主は、振り返らずとも誰であるか明らかであった。
「蝶姫が、どうしてもおまえと話をされたいとのことだ」
 守之介の声に恐る恐る向き直ったものの、蝶子に合わせる顔がなく、茜子は深々と頭を下げた。きっと妻を案じて付き添っているのだろう。視界に入った蝶子の足元の隣には、蒼山伊織と思しき人物が寄り添っているのが見てとれた。やがて伊織と守之介がその場を離れて行く。恐らく蝶子と茜子のふたりだけで話ができるようにと、少し離れた場所から見守るつもりのようであった。
「茜子」
 もう一度、静かに己の名が呼ばれる。幼い頃から何度も何度もこの人に名を呼ばれたが、これが最後だ。そんなことを考えながら小さくはいと答えると、空気が微かに白く染まった。

「一昨日の夜、義兄上が自害なされました」
 やがて小さく息を吐くと、感情を交えることなく蝶子は静かにそう告げた。
「さようでございますか」
 その言葉に、茜子は俯いたまま微かに頷く。彼女が閉じ込められた蔵の中は外の世界から遮断され、何の情報ももたらされなかったけれど、そんな予感はあったので動揺はなかった。
「髪の中に、毒薬である附子を隠し持っておったそうなのです」
 あのお方らしい。蝶子の説明を受け、茜子は密かにそう思った。執着しているように見せかけてその実、すべてのものを簡単に手放してしまえるくらい、あの人は何に対しても頓着などしていなかったのだ。愛した人がもはやこの世にいないという喪失感はもちろんあるけれど、栄進が誰かに道を決められるということには違和感を感じるので、最期は自身の手で道を断ったということに茜子は微かな喜びすら感じていた。

「……哀しい人ね」
 ぽつりと、まるでひとりごとのように蝶子が呟いた。その言葉は栄進を指しているのか、あるいは愚かな幼馴染のことを形容しているのかは分からない。けれど、身の程知らずと思いながらも密かに栄進を慕っていた茜子が、彼に抱かれて哀しいと思ったことなど一度もなく。ただ、いつも孤独を纏っている男のことだけは哀しいと感じていた。
 なりゆきで半ば強引に奪われて以来、栄進とは夜の闇に紛れて何度も逢瀬を重ねた。最初は単なる気まぐれだろうと思ったが、関係を持った直後に蝶子が蒼山伊織のもとへ嫁ぐことが決まり、茜子に流れる紅野の血を求めていたのだと察した。彼女の実家は、紅野家に微かに繋がる遠縁にあたるのだ。けれどもそれは瑣末なことで、そもそも手の届かないと思っていた人に触れられるだけで茜子は幸せであった。甘い睦言が叶うと本気で信じるほど愚かではなかったが、束の間の夢だけで喜びを感じられる程度には幼い恋だ。それ故に、茜子は彼の為ならば何も厭うことはなかったのだ。
 大人である栄進は決して茜子に心の内を見せることはしない。けれども実の父である豪進には穂積国を手中に収める為に利用され、義理の父である和孝には亡き忠孝の身代わりとして利用されていると信じているようであった。栄進が海原国に対して毅然と振る舞い、穂積国に対して薬草の知識を活かそうと努めたのは、様々な思惑に翻弄されている己の立場を確固たるものにしたいという考えの表れではないか。栄進はきっと誰よりも自分の居場所を求めているのだと、茜子はいつしかそう確信するようになっていたのだ。

「茜子はこの城を追われるようなことは、何もしていないというのに」
 黙って頭を下げ続けるかつての侍女に、主はもう一度哀しい人だとそう零した。どうやらそれは、自分のことであったらしい。茜子はそうではないと、気づかれないくらい微かに首を横に振った。哀しい人ではないけれど、この城を追われるには充分なことをしてしまったのだから。
「義兄上との関係は確かに驚きましたが、男女の仲をわたくしがとやかく言うことはできませぬ。茜子はただ義兄上と愛し合っただけ。そしてわたくしがこの城を去ったのちは、体調の思わしくない父上のことを懸命に看病してくれたのでしょう? 義兄上の煎じた鬼灯の薬湯は、咳や熱をおさえる効能があると聞いております」
「……」
 本当はもう、茜子には分からなくなっていた。栄進が床に臥せっている和孝を案じて薬を煎じた時、義父を想うその気持ちに心動かされたのは事実だ。こんなにも優しい人だから、船越家の六男であると警戒せずに、紅野家の鬼灯として皆に受け入れて欲しい。茜子は強くそう願っていた。
 けれど、腹の中で密かに宿っていた己の子が激痛によって流れた際、和孝に服用してもらう為に毒見をしていた薬湯が原因ではないかという疑念が頭を掠めたのだ。たまに和孝も口にしてくれることがあったが彼に腹痛の症状は見られず、ほっとしながらも薬湯を出す際はいつも何故か緊張した。蝶子を呼び戻そうと和孝の病を文で知らせた時も、帰郷することが決まった際に倒木で塞がれた道があると知らせた時も、心の奥底を仄暗い疑念が掠めたような気がした。だからこそ、蝶子の姿が見えないと和孝や伊織が狼狽していた時に、茜子は鬼灯の間と呼ばれる栄進の部屋を真っ先に思い浮かべたのだ。

「茜子」
 やがて静かに蝶子が名を呼んだ。
「兄上や伊織様、そして守之介は、穂積と染乃は互いに真の敵ではないと見抜かれました。そして父上も長吉郎も、蒼山家の家臣らも、それで相違ないと判断されたのです。それはきっと、真実と向き合おうと努めておられたから成し得たのでございましょう」
 ああ、やはり蝶姫様は気づいておられる。茜子は悟った。‘何もしていないのに’という言葉は、すべて栄進が茜子を騙していたのだから仕方がないということではなく、彼女が盲目であろうとしたことを指しているのだ。
「ねえ、茜子。そなたがこの城を出て新たに田辺家へ仕えることになるのは、もはや変えようのない事実。ならばわたくしは、田辺の家の者たちにそなたを大切に思ってもらいたいのです。これまでと勝手が違うことは多々ありましょうが、新しい主と確かな信頼関係を築いて欲しいと心の底から願っているのです」
「蝶姫様……」
 その言葉に耐え切れず、冷えた頬に熱い涙が落ちる。それは蝶子が染乃へ向けて発つ際に、茜子がかけた言葉であった。
 穂積国では冷酷な鬼であると噂される伊織であったが、和平の為に彼のもとへ嫁ぐことが避けられないならば、せめて妻となる蝶子のことだけは大切にする人であって欲しい。それは幼い頃から共に過ごしてきた茜子の、偽らざる願いであった。その言葉を、今度は蝶子が茜子に贈ってくれたのだ。
「茜子の祈りのとおり、伊織様はわたくしのことを誰よりも大切にしてくださっています。だから次はわたくしが、茜子の未来に光が差すようにと祈る番でございましょう」

 恐る恐る顔を上げると、蝶子は真っ直ぐに茜子を見つめていた。一日のうちでもっとも冷え込む夜明けの時分だからか、彼女は上掛けの上に更に男物の上掛けを羽織っていた。恐らく夫が妻を気遣ったのであろう。それだけでも、蝶子がどれほど伊織に大切にされているかを窺い知るには充分であった。
「ありがとうございます」
 茜子は再び、深々と頭を下げた。これが蝶子との今生の別れだ。蝶子が蒼山家へ嫁ぐ際にも二度と会えないだろうと思っていたが、それでも文を交わすことは許されていた。けれども城を追われる茜子には、もはやそのような資格などない。
「わたくしは、生きまする」
 やがて小さく、けれどもきっぱりと茜子が宣言する。その言葉に対して蝶子が頷く気配を感じた。
 蝶子は祈ってくれると言うものの、己の未来にそう簡単に光が差すことはないだろう。茜子はとうに覚悟を決めていた。大切な幼馴染の姫君を己の愚かさのせいで危険に晒し、あまつさえ二国間の争いを引き起こすことに加担しようとしていたその報いが、そんなに易いものである筈がないのだ。
 けれど生きる。今度は目を開いて、しかと生きようと茜子は心の内で強く誓った。

「そろそろ刻限だ」
 やがて、近づいて来た守之介がそう声をかける。門の外には、田辺家の者が迎えに来ているとのことであった。
 言葉を発することなく、最後にもう一度深く頭を下げる。そしてそのまま茜子は、守之介に促されて不浄門へと向かった。ふと見上げると、東の空が少しずつ明け始めている。その空の色は、蝶子が羽織っていた彼女の夫の上掛けと同じ藍色であった。



* * *   * * *   * * *



 すっかり日が昇り、城内の者たちはいつものように動き回っている。変わらない日々の営みを感じながら、蝶子はぼんやりと縁側から庭を眺めていた。昨日までは寒の戻りで随分と冷え込んだが、今日はここ数日に比べると空気が緩んでいる。この先も三寒四温の言葉のとおり、何度も冬と春の間を行ったり来たりしながら季節は進んでゆくのだろう。

「良い庭であるな」
 不意に背後からそう声をかけられる。そして蝶子が振り向く前に、夫は妻の隣に胡坐をかいた。
 目の前に広がる庭は花を咲かせるにはいささか早く、華やかさには欠けている。けれども春に向けてきちんと手入れがなされているのは明白で、夫が褒めてくれた言葉に蝶子ははいと小さく頷いた。
「そなたは病み上がりだ。今朝も早くから外に出たが、熱は出ておらぬか?」
「大丈夫でございます。伊織様が上掛けをお貸しくださった故、体が冷えることはございませんでした」
 冷酷な鬼とは、一体誰が言い出したのであろう。本当の伊織は心配性で、常に妻である蝶子のことを気にかけてくれるというのに。人の噂などまったくあてにならぬものだと思いながら、妻は夫を安心させるように微笑んだ。
「まだ冷える故、油断は禁物だぞ」
「はい、承知しておりまする。なれどもう少しだけ、伊織様と一緒にこの庭を眺めとうございます」
 栄進がこの世を去り、茜子はこの城を去った。問題はまだまだ山積しているものの、あとは穂積国内の問題だ。当面の染乃への脅威がなくなった今、蝶子らは明日、染乃城に向けて発つ予定にしていた。

 昨年の春は染乃への輿入れが決まり、蝶子は絶望的な思いでこの庭を眺めていた。それなのに今は伊織の隣にいられることが何よりも幸せで、そのことが何よりも感慨深い。人の関わりとは不思議なものだと、蝶子は芽ぶきの季節を待つ庭を眺めながらそう思った。
「もう少し暖かくなれば、色とりどりの花が美しく咲き誇ります故、いつか伊織様にも春の庭をご覧いただきとうございます」
「もう見たぞ」
「え?」
 かつて母が愛し、父が自慢に思っているこの庭のもっとも美しい姿を夫にも見て欲しい。そんな願いを蝶子が口にするも、夫はあっさりとそう返した。己の意図が正しく伝わらなかったのか、それとも何か勘違いをしているのだろうか。伊織が穂積の花咲く庭を見たことがある筈はなく、蝶子はもう一度説明し直そうと口を開いた。
「昨年の春に私はこの城を訪れ、美しく花が咲き乱れるこの庭をしかと堪能した。そしてあのあたりだったか、咲く白い花の向こうから蝶子の姿も見ておったのだ」

 一体何の話をしているのだろうか。蝶子には心当たりがなさすぎて、伊織の言葉に戸惑った。そんな妻の様子に笑みを浮かべると、夫はいつもながらの穏やかな声音で当時のことを語り始めた。
「守之介の働きにより栄進の企てが明らかになると、当然ながら和孝殿は蝶子をあの者の妻にはできぬと決断なされた。奴の狙いは染乃と穂積の関係を悪化させることであり、それが明白になった時点で蝶子の嫁ぎ先は蒼山家の一択となったのだ」
 父からは蝶子を和平の駒にしたわけではないと言われたが、伊織から自分たちの結婚について言及されるのははじめてのことだ。蝶子は少し緊張しながらも、じっと夫の話に耳を傾けた。
「忠孝殿と和平交渉を進めていた時も、私が蝶子を貰い受ける話は出ていた。なれど私が忠孝殿の命を奪ってしまった時点で、もはやそれはないと思うておったのだ」
「伊織様……」
 思わず伊織の手を握り締める。指先の冷えた蝶子の手に対して伊織の方が温かく、逆にその大きな掌で熱を分け与えるかのように包み込まれてしまった。

「守之介を通じて、和孝殿から縁談の話が届いたのは昨年の今頃である」
 兄はかつて和平の為に蝶子を駒にするようなことを匂わせていたけれど、実は忠孝が伊織に一目おいており、己が認めた男のもとへ妹を嫁がせたいと願っていたのではないだろうか。父も守之介も、蝶子の結婚を決断したのは相手が染乃国の領主であったからではなく、蒼山伊織その人であったから。この時世に楽天的な考えかも知れないが、あながち外れてはいないのではないと、彼らの言動から蝶子はそう予想していた。
「蝶子にしてみれば兄の仇に嫁ぐこととなる故、その気持ちを慮ると政略結婚は避けたかった。なれど海原国の脅威を鑑みれば、我らが生き抜く術として私と蝶子の婚姻はもっとも効果的な方法であったのだ」
「わたくしとの婚姻は、お嫌でございましたか?」
 輿入れ当初は政略結婚を強いられたと自分ばかりが被害者のつもりであったが、夫はどう思っていたのだろうかと急に不安になる。恐る恐る尋ねると、握られた手にぎゅっと力が込められた。

「正式に婚姻を進めるにあたり、私は一年前の春にこの城を訪れた。和孝殿に挨拶をすることと、今後のことを話し合うことが目的である。なれど誰に栄進の息がかかっているやも知れず、私は虎之新とふたり極秘で城に入り、そのことを知っているのは和孝殿と守之介だけであった」
 蝶子が輿入れする前に、伊織はこの城を訪れていた。蝶子が目を瞬きながら夫を見つめると、伊織は当時を思い出すかのように庭に目をやり、懐かしげにすっと目を細めた。
「無事に会談を終え、我らが染乃へ帰ろうとしたその時に、妻となる蝶子の顔を見て行くかと守之介がそそのかしたのだ。ちょうどこの庭は春の花々が咲き乱れ、その奥に隠れておれば庭を眺めている紅野の姫を盗み見できると奴は言う。庭の奥からであれば見つかる可能性は低いからと、言われるがままに私はあちらに潜んでおったのだ」

 夫が指差す場所には、今は一輪の花も咲いてはいない。けれども毎年春になると、そこにはまるで雪が積もったかのように雪柳が真っ白な花を咲かせるのだ。
「まさか、あの時……」
 記憶を辿っていた蝶子の脳裏で、雪柳の花がざわりと揺れる。その奥から姿を見せたのは守之介であった。
「守之介は気づかれぬと気安く言いおったが、聡いそなたにはあっさりと隠れていることを気取られてしもうた。どうするかと思案していると、守之介がさっさと蝶子の前に正体を見せてごまかした。気配の正体が守之介だと分かったそなたは途端に気を許し、私は白い花の奥からその様子を盗み見ておったのだ」
 決まり悪そうに告白する夫に、やはりあの時かと納得する。あの日のことは、蝶子もよく覚えていた。
 父から敵国である染乃へ嫁げと唐突に命じられ、一晩泣き明かした蝶子は、心を慰める為に美しい花々を眺めていた。何となく人の気配を感じればそれは守之介であり、彼と他愛のない話を繰り広げる。そしてたまたまその場を犬猿の仲である長吉郎が通りかかり、それを見咎められた。その直後に守之介の死が伝えられ、あれが最後の会話であったと思っていたから、あの日のことはよく覚えている。そして彼の言葉も、蝶子はよく覚えていた。

 ――染乃に嫁いだら曇りのない目で、誰が己にとって害をなす人物で、誰が己にとって大切な人物かを見極めるんだ。

「たまたま通りかかった武藤殿との会話を耳にし、守之介が穂積で置かれている立場が察せられた。そして何よりも、紅野の姫が曇りのない目を持っていることがよう分かったのだ」
「わたくしは、そのようなもの……」
 守之介に託された言葉は胸に残っていたものの、蝶子は敵国である染乃の者たちに対して心を閉ざし、ずっと部屋に籠もっていたのだ。夫の言葉は買いかぶりすぎだと、蝶子はふるふると首を横に振った。
「守之介は当時色々と探っておった故、単独で行動しやすいようにと敢えて周囲と壁を作っておったのであろう。なれど蝶子は、壁を築くことを許さなかった。他の家臣が接触しないようにと進言してもそれを拒み、守之介自身が自虐的な言葉でもって距離をとろうとすればそれを咎めた。事の真相は何も知らない筈なのに、ひとり生き延びた為に裏切り者だと謗られる守之介のことを、誰よりも忠孝殿に忠誠を誓っていたとあっさり受け流したのだ」
 淡々と説明していた伊織だが、そこで言葉を区切る。そうして蝶子の顔を覗き込むように見つめると、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「白い花の陰で、私は聡明な姫が己の妻になる喜びを感じておった。そなたは穂積と染乃の和平を築く為の政略婚と思うておるであろうが、私にとっては惚れた女子を貰い受けただけのことなのだ」

 人気のない庭には、ただ静寂が広がっている。風も吹かず、鳥の声さえ聞こえない。そんな空間に落とされた穏やかな声が、じわじわと蝶子の心に広がってゆく。
「う……そ……」
「嘘ではない。和孝殿にはもう一度面会を申し入れ、その人となりに魅かれたから蝶子が欲しいと、改めてそなたを妻に迎えたいと請うた。蝶子の意思を無視して蒼山家へ迎え入れたのは国の為だけではない、己の為だ」
 まるでその言葉を体内に注ぎ込まれるかのように、蝶子は伊織に口づけられた。先程までの早春の冷えた空気が感じられないくらいに、蝶子の体が熱を帯びてくる。蝶子がどれだけその言葉に喜びを感じているか、そしてどれだけ伊織のことを愛しく想っているのか。それを表す言葉を見つけることはあまりにも困難で。だから、ほんの少しでも己の気持ちが伝わることを願いながら、妻は夫の優しい口づけにたどたどしく応えた。

 


2016/06/20 


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