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の居る場所



 夕凪の章  陸


 ――蒼山家当主の正室ならば、もっと公の場にでるべきだ。
 夫の右腕である河合虎之新からそう言われたものの、蝶子は己の立ち位置が分からず、結局はこれまでと変わらぬ生活を送っていた。 虎之新の言葉はいつも心の奥に引っかかっているものの、夫は何を言うわけでなく、果たして人質として大人しくしていれば良いのか正妻として城内を取り仕切れば良いのか分からない。
 けれども、そんな風に密かに悶々としていた蝶子が城の外に出る機会は、存外すぐにやってきた。



「わざわざ来てもらって悪いわね。本当は蝶子さんが染乃に来られた時に、挨拶に伺わなくてはいけなかったのに」
「とんでもございません。わたくしこそ今までご挨拶もせず、大変失礼いたしました。して、お体の具合はいかがでしょうか?」
 朝晩は幾分涼しい風が吹くようになった頃、蝶子に会いたいと知らせを寄越したのは伊織の母であった。
「すっかり平気よ。もともと体は丈夫な方なんだけど、今年の夏は尋常じゃなく暑かったので少し参ってしまってね。 伊織がようやく迎えた可愛いお姫様に早く会いたかったのだけれど、こんなに遅くなってしまったわ。ごめんなさいね」
 年のせいかしらと言いながらころころと笑う女性を前に、そんなことはと否定しながら蝶子は笑みを浮かべる。 幼い頃からしつけに厳しかった母のおかげで表情には出ていないと思うが、彼女は内心ひどく驚いていた。冷徹な鬼と呼ばれる人物の母親は、拍子抜けするくらいに気さくな女性だったのだ。

 伊織の実母である雪寿尼は、数年前に夫を病で亡くしたのちに出家し、里から少し離れた小さな寺で自由気ままに暮らしているという。 本来ならば嫁いで来た蝶子が真っ先に挨拶しなければならない相手だが、暑さのせいで体調を崩し夏の間はずっと床に臥せっていたとのことで、今日まで会うことができなかったのだ。
「それにしても、あの朴念仁がこんな可愛らしいお姫様をお嫁さんにするとはねえ」
 蝶子の顔を眺めながらしみじみとそう言われると、何となく居心地が悪くなって俯いてしまう。 涼しくなれば一度挨拶に伺わねばとは思っていたが、伊織から母が会いたがっていると聞いた時は当然緊張した。 それは夫の実母であり、今は出家しているとはいえ先代の正室として長年蒼山家を取り仕切っていた人物ということもある。 彼女が息子の元へ嫁いで来た敵国の姫をどのように思っているのか知る由もないが、染乃での暮らしを円滑に進める為に蝶子は凛と居住まいを正していた。
「少しはこちらの暮らしにも慣れたかしら?」
「はい。お屋形様はじめ皆様には良くしていただき、感謝しております」
「そう言えば先日倒れたと聞いたけれど、具合はいかが?」
「暑さで少し気分が悪くなっただけにございます。ひと晩休めばすぐに良くなりました」
 そのようなことも伝わっているのかと思いながら笑顔で体調の良さを強調すると、向かい合って座る雪寿尼が蝶子の方へ体を寄せながら声を落として尋ねてきた。
「あのね、蝶子さんが倒れたと聞いて、わたくしに孫ができたのかと思ったのだけれど違うのかしら?」

 数日前まで一日中飽くことなく鳴き続けていた蝉たちは、知らぬ間にどこかへ行ってしまったようだ。 開け放たれた引き戸の向こうからは爽やかな初秋の風が吹き込み、蝶子の髪を微かに揺らす。 目の前の人物が目を輝かせながら発した予想もしない言葉に呆けていた蝶子は、庭から聞こえた甲高い鳥の声でようやく我に返った。
「いえ、ただの立ちくらみにございます。ご期待に沿えず申し訳ございません」
「あらそう。もしかしてと思ったのだけれど、さすがにややこができるには早すぎるかしらね」
 早とちりだったわねと苦笑いを浮かべる姑を眺めながら、蝶子は憂鬱な気持ちになっていた。 腹に子を宿した女子の多くが体の不調を訴えるということは聞き及んでいるが、まさか己が懐妊したと思われていたとは予想もしなかった。 けれども言われてみると、誤解されても不思議ではない。他にも雪寿尼と同様に勘違いをしている者がいるのだろうかと思うと、蝶子の気分は落ちた。
「あの子が己の子を抱く時は、どのような表情をするのかしら」
 母親でさえも、冷静沈着で無口な息子が子をあやす表情は想像がつかないのだろうか。くすくすと笑い声を漏らしながら楽しげに想像している姑を、蝶子は他人事のように眺めていた。 懐妊のわけがない。伊織が子を抱くなんて、ある筈がないのだ。あるとすれば、いずれ迎えるであろう側室の子だ。

 蒼山伊織の元へ嫁いで二ヶ月が過ぎたが、未だ蝶子は清い身であった。夫である伊織が蝶子に触れたのは、婚儀が行われた日の夜の一度きり。 それも髪をひと房すくっただけで、その後は一切、伊織が蝶子に触れることはなかった。 嫁ぐ前に穂積で教えられたのはすべては殿方に任せよということだけで、夫婦の契りについての詳細は知らない。 けれど、今の状態で子が宿るということがありえないことは、さすがに無知な蝶子でも分かっていた。
 別に蝶子は、己がないがしろにされているとは思っていない。 相変わらず夫は蝶子が正室としての立場を損なわない頻度で部屋を訪ねて来てくれるし、先日倒れた時に見せた気遣いも本物だと思う。 けれど正室である蝶子に指一本触れないことが、いずれ側室に迎えたい女性がいるのだろうという予測の根拠であり、正室として城を取り仕切るという務めを躊躇う理由でもあった。
 城内の連中は蝶子と伊織が無事に初夜を済ませたと信じて疑っていないようだが、傍に仕えている者たちは当主が正室の元を訪れても契りを交わしていないことにいい加減気づいているだろう。憎いと思っていた相手は実際は想像していたような冷酷な人ではなくて、けれども大切な兄を奪ったというわだかまりが簡単に消えるわけでもない。 だから触れられないということは蝶子にとっては好都合で、だけど虎之新は蝶子に正室として表に出ることを求め、雪寿尼は子を成すことを楽しみにしている。
 自分は一体どう振る舞えば良いのだろうか。姑に対して笑顔で応えていた蝶子だが、いつしか表情が陰っていることに本人だけが気づいていなかった。

「あらあら、わたくしとしたことが少々はしゃぎすぎたわね。あの伊織が蝶子さんとややこにはどう接するのか想像したら楽しくて。
今日も一緒に来て欲しかったのに、わたくしがからかうと思って蝶子さんだけ訪ねさせたに違いないわ」
「本日は浅葱の里へいらっしゃるそうでございます」
 気づかぬうちに思考の淵にもぐっていた蝶子だが、呑気な姑の声に引っ張り上げられる。拗ねたように息子への不満を漏らす母に、彼女は慌てて弁明した。 実際に伊織は多忙で、頻繁に領内を回っているようだ。
「別に今日でなくとも良いでしょうに。昔からあの子は何かしら理由をつけて、わたくしから逃れようとするのです」
「では、次はお屋形様と共にお伺いいたします」
 蝶子がそう答えると、姑は約束よと言って笑った。その嬉しそうな顔を眺めながら、無口な夫は先代に似たのだろうかとふと思う。 朗らかで気取ったところのない雪寿尼は虎之新の父と兄妹であるとのことだが、息子よりも甥の方とむしろ親子のように見えて、蝶子は何だか少し可笑しくなった。
「先程は先走ったことを言ってごめんなさいね。わたくしが蒼山家に嫁いだ時に義母上から世継はまだできぬのかと毎日のように言われて、いっそ天狗か鬼に攫われてしまえと願うくらい嫌だったのに、蝶子さんにも同じようなことを言ってしまったわ。どうかわたくしのことは、天狗か鬼に攫われろと願わないで頂戴ね」
 あまりにあけすけな物言いに呆気にとられていた蝶子だったが、やがて堪え切れずに肩が揺れる。
「あら、そんなに笑うことないでしょう。それから誤解のないように言っておきますが、わたくしは願っただけで効力はありませんでしたからね。 義母上は四年前にお亡くなりになるまでお達者で、最期まで小言を仰っていらっしゃいましたから」
 だから問題ないのだと言う。雪寿尼の言い分がいっそ清々しくて、はしたないとは思いつつ蝶子はついには笑い声を我慢することができなくなっていた。 心の底から笑ったのは、いつ以来だろうか。婚儀が決まって以来ずっと心が晴れることのなかった蝶子は、雪寿尼が姑で良かったと思い始めていた。

「ねえ蝶子さん、少し庭へ出てみない?」
 蝶子が笑い疲れた頃、雪寿尼がそそくさと立ち上がりながらそう誘った。戸の向こうに広がる庭にあるのは岩と砂利と草木だけの退屈な色彩だが、蝶子は黙って姑のあとに続いた。
「あの木の向こうに屋根が見えるのが分かるかしら?」
 縁側から下りて雪寿尼の隣に立つと、姑はそう尋ねてきた。どうやら庭を見せたいわけではないらしい。松の木の向こうに僅かに見える建物を認めた蝶子は、はいと小さく頷いた。
「あそこの小屋で、すくもを作っているのよ」
「すくも?」
 聞き慣れぬ単語に、蝶子は小首をかしげる。そんな嫁に、姑は優しく噛み砕いて説明してくれた。
「すくもとは、藍の葉から作った染料の呼び名です。ここ染乃国で藍染が盛んなのは、蝶子さんもご存じでしょう?」
「はい。旅の僧にもたらされたということも、お屋形様より伺っております」
 染乃に藍染が広がったいきさつについては、つい先日夫が教えてくれた。蝶子がそれを伝えると、雪寿尼は嬉しそうに微笑んだ。
「伊織から聞いているのであれば話は早いわ。昔ひとりの旅の僧がこの地を訪れ、米作りに不向きな気候のこの地に藍染の技法を伝えて下さいました。 彼はこの地を終の棲家とし、民たちと共により美しい藍色を生み出す為に切磋琢磨したとのこと。その拠点となったのが、この寺なのです」
「え?」
「ここからは見えないけれど、小屋の向こうには藍畑が広がっているわ。刈り取った藍の葉を、あの小屋で染料にしてゆくのです」
 旅の僧がどこかの寺に居を構えたという話は伊織から聞いていたが、まさかその寺に出家した姑が暮らしているとは想像していなかった。 少し伸びをしてみるも庭からは小屋の屋根の一部しか見えず、藍畑に至ってはどのような景色が広がっているのかを想像するのも困難だった。

「今は刈り取った藍葉を乾燥させているの。それを水につけて発酵させ、すくもを作るのよ。今日は時間がないけれど、次に来られた時は小屋を案内するわ」
「よろしいのですか?」
 雪寿尼の問いに対する蝶子の答えは、驚きでやや力がこもっていた。 たっぷりと水が湛えられた水田に伸びる青々とした稲の苗や、重たげに頭を垂れる黄金色の稲穂。そんな景色は故郷の穂積国で見慣れているが、藍畑は見たことがない。 藍色の染料になるということは、そもそも葉や茎が藍色をしているのかしら。 内心興味をひかれていたので雪寿尼の提案には応えたかったが、けれども勝手に約束して良いのかどうか分からない。 藍染は染乃国における主産業で、しかも雪寿尼が住まうのは藍をこの地にもたらした僧が移り住んだ寺。 つまりは藍染の拠点であり、そのような重要な場所に敵国の姫である自分が容易に足を踏み入れて良いのか蝶子は判断しかねていた。
「あら、伊織は蝶子さんを束縛しようとしているの?」
「いえ、そのようなことは……」
 からかい気味に質す姑に、蝶子は歯切れ悪く否定した。染乃の城に入ってから、一度も伊織に何かを強制されたことはない。 けれども指示をされたこともなくて、だから出過ぎない方が良いのかといつも同じところで悩んでしまうのだ。
「ねえ、蝶子さん。あなたの部屋のお庭がとても美しいと噂で聞いたわ。今度見せてもらえないかしら?」
「ええ、もちろんでございます」
「蝶子さんのお庭に招待して頂く代わりに、わたくしも今度すくも作りをお見せするわね」
 そう言って笑う雪寿尼の目尻には小さな皺が刻まれていて、それがより柔和な印象を与えていた。 顔つきはまったく似ていないのに何故か亡き母を思い出し、蝶子は温かい気持ちになりながら深く頷いた。

 寺を訪れる前は緊張して仕方がなかったのに、姑の人柄に触れて今はすっかり安心している。 このような気持ちは染乃に来てはじめてのことで、だから蝶子は先程微かに感じた疑問を素直に口にしていた。
「雪寿尼様が城にいらっしゃった時には、あのお庭はなかったのでございますか?」
 先代の正室であった雪寿尼は当然城で暮らしており、それなのに先程の口調では蝶子の部屋の庭を見たことがないようだった。 彼女が暮らしていた頃にはあの部屋が誰かにあてがわれていて庭を見る機会がなかったのか、そもそもあの庭自体が存在しなかったのか。 けれども姑は蝶子の問いに答えることはなく、逆に静かに問い返した。
「蝶子さんは、あの庭がお好き?」
「ええ、とても」
 芙蓉の花が咲き始めた庭を思い浮かべながら、蝶子は姑の問いに即答した。 以前、虎之新からも同じ質問をされたような気がするが、あの季節の花に溢れた庭がどれほど蝶子の支えになっているのか彼らは想像もつかないだろう。
「それは良かったわ」
 そう言って嬉しげに笑う雪寿尼の表情はとても優しくて、似ていないと思っていた筈なのに、蝶子は無意識のうちに夫の顔を思い浮かべていた。

 結局、姑は蝶子の問いに答える気はないらしく、ただ黙って庭を眺めているので仕方なく彼女も倣って退屈な景色を眺めていた。
「染乃の庭に彩りはないけれど、心に静寂が沁みるような気がするの」
 やがて雪寿尼が呟いた。それは蝶子に対してというよりも、ひとりごとのようであった。 しみじみとした口調に蝶子も改めて庭を眺めてみるも、確かに静寂ではあるが、砂と岩と草木だけの景色は物寂しい気がした。
「砂に描かれた紋様が水を表しているのよ。色彩は限られているけれど、この庭は無限なのです」
「はい」
 相槌はうってみたものの、雪寿尼の言わんとすることはよく分からない。そんな思いが表情に出ていたのか、姑はまだ幼さが残る嫁の横顔を見やるとくすりと笑った。
「穂積国では色とりどりに咲く花を愛で、それによって季節の移ろいを感じるのだと聞いたことがあります。 季節の花に溢れた庭と静寂を感じられる庭が両立するなんて、染乃の城は何と贅沢なのでしょう」
 この方は、花に溢れた庭を美しいと感じられるのか。雪寿尼の言葉に蝶子は内心驚いた。 殺風景な庭を好む染乃の人たちとはそもそも感覚が違うのだと思っていたが、どうやら雪寿尼は違うらしい。
「せっかく蝶子さんが嫁いで来て下さったのだから、穂積と染乃の良いところが混ざりあえば素敵ね」
 兄を殺した国には、このように心の広い人物がいるのか。雪寿尼の温かな声音を聞きながら、蝶子は何とも不思議な思いを抱いていた。 殺風景だのつまらないだのと染乃の様式を否定し、嫁ぐ前から蝶子は花を愛でる文化のない染乃の人たちをどこか蔑んでいた。けれども本当にそれは正しいのだろうか。 もしかしてどちらも美しいと感じられる懐の深さこそが大切なのではないかと、蝶子は傍らに立つ雪寿尼を盗み見る。 石庭を見つめる彼女の目ははっとする程に穏やかで、蝶子も倣って砂の紋様を眺めると、先程までは単調に見えていたそれが雨の日の池に描かれる美しい波紋に見えてきたような気がした。

 


2014/11/01 


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