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ぎ出すカエル



 番外編  カエルと帰る 6


 甘い芳香を放つ白い花の脇、エントランスの手前にひっそりと果恵は佇んでいた。
「どうして此処に?」
「来たらダメだった?」
 質問に質問で返される。笑みのない表情には、疲労と、それ以外の感情も見てとれる。けれどもそれが不満なのか不安なのか、聡には分からなかった。
「そんなことはないけど……」
 だけど、果恵の方が嫌だろう。聡はそう思った。恋人がかつて婚約者と住む為に購入したマンションになんて、誰だって来たいと思わない筈だ。

 果恵が此処を訪れたのは、はじめて気持ちを伝え合った冬の夜以来だ。聡は家に誘わなかったし、果恵も来たいとは言わなかった。 だから会うのはいつも外で、一夜を共に過ごす時間がある時は、果恵のマンションを訪れたりホテルを予約したりした。
 幸せの場となるべき筈だった夢のマイホームは、今や聡にとって重荷でしかなかった。そして、恋人である果恵にとっても此処の存在は決して愉快なものではないだろう。 それは分かっているのだけれど、だからといって簡単に手放せるものでもない。 買値で売却できる可能性は低く、支払った仲介手数料の額を考えると平凡なサラリーマンが感情だけで売り払うことはできないのだ。
 ふたりの間に沈黙が流れる。湿度を含んだ重い空気が、じっとりと肌に纏わりつくのを感じた。
 不意に、ウィンと微かな音をたてて自動ドアが開いた。近所のコンビニにでも行くのだろうか。住民と思われるTシャツにハーフパンツ姿の若者が、サンダルを引きずるように通り過ぎて行った。
「とりあえず、中に入ろう」
 すれ違いざまに若者から訝しげな視線を受けた聡は、そう言って果恵を促した。

 凍えるようなあの冬の夜のように、エレベーターの中でふたりは言葉を発することはなかった。沈黙の中、聡は果恵が彼のマンションを訪れた理由を考えた。 もちろん、彼女は聡に会いに来てくれたのだろう。彼女が彼氏の家を訪れることは、ごく自然のことだ。
 けれども、果恵の様子がいつもと違う。半年も付き合っていれば残業が続いて疲れているなと感じることはあったけれど、基本的に大人な彼女が不機嫌な感情を露わにすることはなかった。
 良好な関係を築けていると思っていたのは自分だけで、知らぬ間に気持ちが離れていたのだろうか。 小さな箱の中で笑みもなく、ただ上昇してゆく数字を眺めている恋人の横顔を聡はそっと盗み見る。硬い表情を見せる果恵が何を考えているのかが分からずに、掌がじっとりと汗ばむのを感じた。
 けれども、今度こそ手放すわけにはいかない。不安な気持ちを誤魔化すのはもう限界で、聡は今のみっともない自分を全て曝け出してでも彼女を自分のもとに繋ぎとめようと覚悟を決めた。

 密かに腹を括った聡は、気づけば‘筒井’という表札のかかったドアの前に立っていた。鍵穴に銀色の鍵を差し込みドアを開けると、むっとした空気が広がっていた。 とりあえずエアコンで除湿をしなければと思いながら靴を脱ぐ。振り返ると、果恵は扉の手前で突っ立ったままだった。
「どうした?」
 怯える心を隠すように、聡は小さく微笑んで果恵に問いかけた。
「……いいの?」
 強張った表情で、果恵が問いかける。
「わたしがこの家に入って、いいの?」
 此処に来たらダメだったのかと、先程エントランスで果恵は聡に問いかけた。いつもは穏やかな果恵に似合わず、鋭い口調に内心聡はたじろいでいた。 けれども、今の彼女は触れれば崩れるのではないかと思われる程に弱々しい。
 ―― 俺は、何か大きな過ちを犯しているのではないだろうか。
 不意に、聡の胸に焦りが広がる。自分のことばかりに目が向いていて、果たして果恵の気持ちを思いやっていただろうか。聡は傘を持つ果恵の手を強く引くと、自分の腕の中に閉じ込めた。 足元に傘が倒れた瞬間、ゆっくりとドアが閉まった。


「好きだ」
 まず聡の口から吐き出されたのは、悲痛な告白だった。
 聡が果恵に伝えなければならないことも、彼女に確認しなければいけないこともたくさんあるような気がする。気持ちが通じ合ったことに満足して、ふたりは大切なことから目を逸らしていたのだ。
 けれどもそれらを説明することももどかしく、聡は不器用に自分の想いを吐露した。

 縋るように聡が抱きしめると、腕の中の果恵がびくりと震えた。
「……どうして携帯の電源切ってたの?」
 掠れた声で返されたのは、予想外の言葉だった。一瞬意味が分からず頭を巡らせたのち、映画館でスマートフォンの電源を切ったままにしていたことを思い出す。 もしかしてずっと連絡をくれていたのかと問えば、腕の中で果恵は小さく頷いた。
「どうして、何時でも良いから家に来てって言ってくれないの?」
 更にもうひとつ、質問が重ねられる。ぎゅっと体を硬くしながら果恵が発した問いに、聡は言葉を失った。ごめんと、搾り出すように呟く。
 果恵が好きで、だから大切にしたかった。仕事を頑張る果恵が眩しくて、だから応援したかった。 その想いに嘘はないけれど、理解のある彼氏を演じていた理由の大部分は彼女に嫌われたくないという怖れが占めているのだ。けれども結局、そのことが逆に果恵を不安にさせていた。 離れがたいと思った夜も、会いたいと願った時も、物分りが良いふりをするのではなくそれを言葉にして伝えるべきだったのだ。

「ごめん」
 聡は何度も謝罪の言葉を繰り返す。すると、唐突に果恵が首を左右に振った。
「違う。筒井くんは悪くない」
 そう言って顔を上げると、果恵は聡を真っ直ぐに見つめた。
「いつも仕事優先でごめんなさい。わたしのせいで予定が変更になったのに、さっきは嫌な態度をとってごめんなさい」
 聡を見上げる瞳から、ぽろりと涙が零れる。
「だけど、嫌いにならないで……」
 言葉の終わりは、聡が唇で塞いだ。そのまま息をするのも忘れるくらいに、激しく互いを求め合う。恋焦がれる気持ちは上手く言葉にできなくて、そのもどかしさをぶつけるように口付けを交わした。

「やだ、わたし汗かいてるから……」
 やがて聡が抱きしめていた果恵を壁に押し付けると、躊躇するような言葉が返ってきた。けれどもその言葉とは裏腹に、果恵の腕は聡の背中に回されている。 一日中窓を閉め切った家の玄関先は蒸した空気が充満していて、更にふたりの熱がその温度を上昇させていた。
「俺は気にしない」
「わたしは気にする」
 彼女の柔らかな耳たぶに触れながら聡がそう言うと、果恵はやはり抵抗した。既に聡のシャツの中はじっとりと汗ばんでいて、果恵の頬に唇を寄せると、そこを濡らしているのは涙の雫か汗の粒か分からなかった。 けれども今の聡は果恵と一秒も離れがたく、それは彼女も同じようで、言葉では抵抗しながらも体は密着したままだった。

 不毛なやりとりを繰り返すふたりは、気づけばバスルームになだれこんでいた。もどかしげに服を剥ぎ取りバスルームへ押し込むと、聡はシャワーのコックをひねった。 未だに明るいところで肌を晒すことを拒む果恵は、さすがに恥ずかしそうに身をよじると肌を隠すように聡に抱きついた。
 どちらからともなく、再びキスを繰り返す。果恵の頬に触れていた聡の手が、うなじから鎖骨を辿り、柔らかな乳房へと下りてゆく。 これまで何度も触れた肌は、けれども煌々とした明かりの下で目にするのははじめてで、聡は体の奥の熱がいつもよりも上がるのを感じていた。
「筒井くん、好き……」
 感情が昂ぶっているのは聡だけではなく、いつもは受け身な果恵が積極的に聡を求めてくる。
「果恵、名前で呼んで」
「聡くん、聡……」

 シャワーから勢いよく放たれる湯が抱き合うふたりの髪を、顔を、体を濡らした。
「果恵が、好きだ」
「わたしも。聡のことが、一生好き」
 喉の奥に、熱いものがせり上がってくる。前髪から頬を伝ってぽたぽたと落ちる雫に紛れ、聡の目からぽろりと別のものが零れた。
「一生好きだよ」
 果恵は誓いを立てるようにそうささやくと、聡の頬に手を伸ばす。そして少し背伸びをすると、しょっぱいと思われるその雫にそっと口付けた。

 


2013/11/02 


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