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ぎ出すカエル



 22. 海でもがくカエル


 異動を決めてからは時間が経つのが早かったが、東京での生活を始めるとより加速して過ぎていった。
 新しい環境で新しい仲間と新しい仕事を与えられ、毎日が精一杯で夏の終わりからの記憶は正直あまりない。 ふと気づけば知らぬ間に秋がおとずれ、そしてそれすらも去ろうとしている。都会は夜も明るいが、クリスマスのイルミネーションでより華やかに彩られていた。


「佐々木チーフ、明後日シングル一室の空きがあるか問い合わせなんですけど」
「禁煙は満室だけど、喫煙ならまだ大丈夫だよ」
 真新しい事務所で果恵が来年上期にエージェントに提供する客室の設定書を作成していると、受話器を手にしたアルバイトが予約を受けて良いか尋ねてきた。 果恵が指示を出すと、たどたどしい敬語で言われたままに答えている。どうやら先方は喫煙ルームで問題ないようで、そのまま予約に至ったようだ。
「残室の見方、前に教えたよね。これだけ余裕があれば、わたしに確認せず自分の判断で受けて良いよ」
 電話を切った部下にそう伝えると、大学生である彼女は生真面目に頷いた。

 九月に異動した果恵は、マネージャーの小野が既に立ち上げていた開業準備室に加わった。同時期に他のグループホテルのスタッフも異動を終え、オープニングメンバーがようやく顔を揃えた。
 そこで果恵にまず与えられた仕事は、アルバイトの面接だった。当然、異動してきた社員だけで運営できる筈はなく、実際に現場で中心になって働くスタッフは現地で採用しなければならない。 フロントスタッフに関しては果恵が担当することになり、求人サイトへの掲載依頼から面接、トレーニングまでの一連の業務を担った。 更にはレストランやハウスキーパーなど他部署のチーフとミーティングを重ね、今後どのように業務を進めていくか細かいやり方をマニュアル化していった。
 それと並行して、新しく建物が完成して引き渡されると、いよいよ全客室に備品等を準備していかなければならない。とにかく毎日が、目の回る忙しさだった。

 十月最終週にプレオープンし、十一月に正式に開業した時の感動は想像を超えていた。 本当にオープンを迎えられるのかと何度も何度も不安になったが、何とか無事に初日を終えると異動を決意して良かったと心底思った。
 けれども、オープンさせることが終わりではない。それは全ての始まりなのだ。ほっと一息ついた果恵を待っていたのは、精神的にも肉体的にも過酷な一ヶ月だった。
 未経験のアルバイトを多く抱えた現場では、イレギュラーな事態になかなか柔軟に対応できない。トレーニングは幾度も重ねてきたが、実際に接客するのとはわけが違う。 予想外のトラブルが起こると、すぐに現場はパニックになった。やがて、耐え切れずに辞めてゆく者が出てくる。 華やかなイメージを抱いて応募した者は、なかなかにハードな現実とのギャップに幻滅して早々に見切りをつけるのだ。
 ようやくアルバイトが慣れてきた頃、今度は現地で採用した中途入社の社員と、果恵たち異動組との間に軋轢が起きた。 中途採用の社員は即戦力となる経験者ばかりを選んだが、新しくホテルを作り上げたいと希望を抱いていたにも関わらず、主要な業務は既存社員が握っていると不満が膨らんだのだ。
 毎日何かトラブルが起こり、帰宅することもままならない。とにかく必死でもがき続け、何度もホテル・ボヤージュに戻りたいと願った。異動しなければ良かった。 海へと泳ぎだしたカエルは、早くも元のプールに戻りたいと後悔の日々を送っていたのだった。

「チーフ、ボヤージュの岸本さんからお電話です」
 完成した設定書をメールに添付して送信していると、背後から声をかけられた。懐かしい名前に嬉しくなって、慌てて受話器をとり保留を解除する。
「お電話代わりました、佐々木です」
「果恵さん、お久しぶりです。お元気ですか?」
 変わらぬ菜乃花の声に、思わず涙が出そうになる。異動してからも何度か菜乃花や由美とはメールのやりとりをしていたが、電話ははじめてだった。
「元気だよ。なっちゃんはどう?」
「なかなか果恵さんのようにはできないけど、皆さんにサポートしてもらいながら何とか頑張っていますよ」
 由美がメールで菜乃花の成長をしきりに褒めていたので全く心配はしていなかったが、元気そうな本人の声を聞くとほっとした。
「それで今日お電話した件なんですけど、先程シマザキフーズの中谷部長からお電話がありまして……」
「何かあった?」
「いえ、実は予約の問い合わせなんです。そちらの近くのデパートで来月物産展があるらしく、期間中その担当者の方が泊まりたいとのことなんですよ。 空室状況と料金を教えて欲しいとのことなので、果恵さんから連絡して頂いて良いですか?」
 果恵の異動が決定した際、お世話になっていた法人やエージェントの担当者には連絡していた。中谷にもメールで挨拶していたのだが、まさか異動後も付き合いが続くとは思っていなかったので驚いた。
「ありがとう。すぐに連絡する」
「お願いします」

 それで菜乃花の用件は終わった筈なのだが、そのあとに微妙な間が空いた。
「じゃあ、またメールするね。みんなにも宜しく伝えておいて」
「あの、果恵さん……」
 中谷に連絡を入れなければならないので菜乃花との電話を切り上げようとすると、彼女は遠慮がちに口を開き果恵に呼びかけた。
「どうしたの? 何かあった?」
「いえ、何でもないです。面白いことがあったので果恵さんに伝えようと思ったけど、忘れちゃいました。思い出したらメールします」
「ええー、気になるなあ。じゃあ、早く思い出してまたメールしてね」
 果恵が笑いながらそう告げると、菜乃花は了解ですと明るく答えて電話が切れた。


「何か良いことでもあったのか?」
 果恵が残業中に休憩室でカフェオレを飲みながら一息入れていると、あとから入って来た小野が声をかけてきた。先程までずっと本社と電話会議をしていたが、ようやく終わったらしい。
「え、どうしてですか?」
「何だか機嫌が良さそうだから」
 あっさりと答えた小野に、自分はそんなに分かりやすいかと果恵は気まずくなる。職場で極力感情は出さないようにしているが、どうやら簡単に洩れているようだ。
「実は、シマザキフーズから宿泊の予約が入ったんです」
 あのあとすぐに果恵は中谷に連絡を入れたのだが、結局予約が成立した。その経緯を小野に手短に説明する。すると上司はにやりと笑いながら頷いた。
「確かにうちからあのデパートまでのアクセスは良いからな。よし、今後も使ってもらえるよう丸井にこっちの営業も頼んでおくよ」
 そう言いながら小野は自動販売機にコインを投入し、ブラックコーヒーのボタンを押した。

「佐々木は、異動を受けたことを後悔しているか?」
 ぐびりとコーヒーを一口飲むと、不意に小野が尋ねてきた。
「毎日しています」
 一瞬躊躇したのち、果恵はきっぱりと言った。
「だよな。俺もした。毎日毎日残業でろくすっぽ家にも帰れず、たぶん全員が後悔しているだろうな」
 その通りなのだが、上司のあまりにもあけすけな言いように果恵は思わず吹き出した。
「でも、中谷部長から予約を頂いてちょっと浮上しました」
「ああ」
「異動しても以前の繋がりが続くのは、嬉しいものですね」
 だから辛くても嫌になっても、この仕事を辞められないのだ。もちろん責任感もあるが、それだけで辛い状況は乗り越えられない。 客から感謝されたり嬉しい言葉をもらったり、そしてまた繰り返し利用してもらえると、頑張ってきて良かったと思える。そういった些細な喜びを糧に日々働いているのだ。
 そしてそれは、見計らったかのように絶妙なタイミングで与えられる。今回だって毎日のように心の中で弱音を吐いている状態だったが、そこでかつて迷惑をかけた企業からの予約が入った。 別に団体ではないし、長期宿泊でもない。売り上げ的にはたかが知れているが、たったそれだけのことがもう少しこの仕事を頑張ろうというモチベーションになるのだ。
「部下がそういう風に思っていることを知って、俺も浮上したよ」
「真似しないで下さいよ」
 彼女の言い方を小野が真似たので、果恵が小さく抗議する。ここ数日はぴりぴりとしていて、こんな時間すら持てなかったので何だか少しほっとした。
「これからだよ」
 小野が呟く。それは果恵に対してのようでもあり、自分に対してのようでもあった。
 職場の人間関係は未だしっくりいっていないし、スタッフのレベルもまだまだだ。けれども果恵たちは、スタートしたばかりなのだ。もう少し頑張ろう。 そう言いながらも残業が続けばまた愚痴をこぼすと思うが、果恵はとりあえず前に進もうと心に誓った。



 その日果恵は、久しぶりに残業を短めに切り上げた。たまには早く帰れと小野に言われ、今日は稼働も低かったので上司の言葉に甘えたのだ。 もっとも早いと言っても三時間は残業をしているので、比較対象が異常なだけで実際は少しも早くないのだが、二十一時に家にいられることが嬉しかった。 これから閑散期に入るし、アルバイトが慣れてくれば果恵たち社員の負担も少しは軽減される筈だ。
 すっかり行きつけとなってしまった帰り道にある弁当屋で夕飯を調達すると、帰宅した果恵はお茶を沸かしてほっと一息ついた。 とてもじゃないが自炊する余裕はなく、東京に出て料理をしたのは休みの日だけだ。野菜をできるだけ摂るようには心がけているので、今日も煮物を中心とした和風弁当を購入している。 ぼんやりとテレビを眺めながら弁当を食べていると、不意に携帯電話が鳴った。

 鳴り続けるコール音に、誰だろうと思いながら鞄の内ポケットを探る。取り出した携帯のディスプレイには菜乃花の名前が表示されていた。
「もしもし?」
「果恵さん、今大丈夫ですか?」
「もう家だから、大丈夫だよ」
 果恵が既に帰宅していることを伝えると、菜乃花がほっと息を吐いたのが伝わった。
「あの……」
 けれどもその先は、言い淀んでなかなか続きを発しない。何かあったのかと果恵は頭を巡らせる。昼間も何か言いかけていたが、菜乃花は何でもないことのように打ち消していた。 けれども本当は、果恵に聞いて欲しいことがあったのではないだろうか。
「どうしたの? 何かあった?」
 先程の電話では元気そうだったが、もしかしたら仕事で悩んでいるのだろうか。まさか辞めたいと言い出すのではないかと、後輩の様子に果恵は徐々に心配になってきた。
「果恵さんが今大変なのは噂で聞いています。由美さんには言うなって口止めされました。でも、わたしは伝えた方が良いと思うんです」
 ようやく決意したように菜乃花は話し始めたが、果恵には何のことかさっぱり分からない。
「なっちゃん?」

「先週末、筒井様がボヤージュに宿泊されました」

 


2013/08/02 


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