ゴールデンウィークの谷間は静かだ。
世間では四月の終わりから五月のはじめまで十連休の会社もあるなどと報じられているが、大半の企業はカレンダー通りの休みだろう。
従って、ホテル・ボヤージュではゴールデンウィークの前半と後半に忙しさのピークがやってくる。連休と連休の間の平日には出張客も観光客もどちらも殆どおらず、朝からのんびりとした空気が漂っていた。
「おはようございます。果恵さん、今日来られますよ!」
中番で果恵が出勤するや否や、本日到着予定のゲストの受け入れ準備をしていた菜乃花が嬉しそうにそう報告をしてきた。誰が、と尋ねることはしない。
果恵の携帯には先日、当の本人から今日の予約を入れたことを報告するメールが届いていたのだ。
「みたいだね」
「果恵さん十九時上がりだし、今日も飲みに行けるじゃないですか?」
果恵が短く答えると、菜乃花はわくわくとした表情でそう尋ねてくる。
「今日のチェックインは遅いみたい。それに、予約も複数で入っているでしょう?」
一瞬驚いた表情を見せた菜乃花は、やがてにやにやと笑いながら果恵にすり寄って来た。
「なんだ安心しました。筒井様と、しっかり連絡取り合っているんですね!」
昨晩の稼働率は低く、当然ながら今朝のチェックアウト数も少ない。閑散としたロビーに人影はなく、時折、朝食会場であるレストランに向かう宿泊客が通りかかるくらいだ。
「違うよ」
恐らくいらぬ期待を高めているであろう菜乃花をセーブするように、きっぱりと果恵は否定した。
「たまたま食事をする機会があって連絡先を交換したから、礼儀として知らせてくれただけ。到着が遅くなることを伝えておきたかったんじゃないかな」
「そんなわけないじゃないですか」
呆れたような表情で菜乃花が即座に否定する。けれども果恵は、後輩が言葉を発する前に今回の宿泊が彼にとって最後の出張であることを説明した。
「彼が開業に携わった支店が正式にオープンするから、そのオープニングセレモニーに上司たちと参加するんだって。これで彼の業務は一区切りだから、もうこっちに来ることはないだろうね」
「じゃあ、今度は果恵さんに会いに来てもらえるようにアプローチするのはどうですか? 果恵さんと筒井様って、本気でお似合いだと思うんですけど」
聡の出張が今回で終わりということは、菜乃花にとってはあまり重要ではないらしい。果恵が告げたその事実を軽くスルーして積極的に動けとけしかける菜乃花に対し、果恵は思わず苦笑いを浮かべた。
「なっちゃん、筒井様はもうじき結婚される予定なのよ」
「ええっ!?」
さすがの菜乃花も、この事実は予想外だったのだろう。驚きの声を発してそのまま黙り込む。その瞬間、フロントと事務所を繋ぐ扉が開いた。
「佐々木、ちょっと良いか?」
僅かに開いた扉の隙間から顔を覗かせたのは、マネージャーの小野だった。ほっとした果恵は小さく頷くと、小野に続いて事務所に入って行った。
別に果恵の気持ちは誰にも告げていないし、菜乃花が騒いでいるのは異性の影が全く見えない先輩に丁度良い相手が現れて面白がっているからだ。
だから、聡の結婚に果恵が落ち込んでいるとは思わないだろうが、多少は気を使われるだろうし、何よりもこれ以上この話題を続けることが果恵には苦痛だった。
だから絶妙のタイミングで小野が呼び出してくれたことに、彼女は内心感謝していた。
「例の件だけれども」
自分のデスクに戻った小野はそう口を開くと、引き出しを開けて一枚の書類を果恵に差し出してきた。
「おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
緊張気味に書類を受け取ると、小野が小さく笑った。
「詳細の予定については、また改めて説明する。あまり気合いを入れ過ぎるなよ」
果恵は上司の励ましに応えるように、少し強張り気味の笑みを浮かべる。そして書類を自分のデスクの引き出しにしまうと、再びフロントカウンターへと戻って行った。
菜乃花は常連客のチェックアウトをしており、その後も宿泊客から質問を受けたりして、一度途切れた話題に戻ることはなかった。
ゴールデンウィークに入る前、唐突に聡からメールを受け取った果恵は少なからず驚いた。
以前、五月にもう一度だけ利用すると言っていたので律儀に知らせてくれたのだろうか。新事務所のオープニングセレモニーに出席したあと上司たちと宿泊するので、恐らく遅くなるということがメールには記載されていた。
必要な情報だけが書かれた簡潔な内容だったにも関わらず、個人的にメールを送ってくれたことに対して喜びが湧き起こる。そして、そんな些細なことに一喜一憂している自分が切なくもあった。
結局、果恵は二時間の残業をこなしたがメールにあった通り彼の到着は遅く、果恵は聡の姿を見ることなくその日は退勤した。
翌日の果恵のシフトは早番だった。さすがに朝七時にはチェックアウトしていないだろうと思ったが、実際にまだ出発していないことを確認して果恵はほっと安堵の息を吐く。
今日を逃せば、聡と会うことはないだろう。いつも通りの業務をこなしながらもどこか落ち着かない気分で、エレベーターの扉が開く度に果恵はびくりと体を強張らせていた。
「佐々木さん、ちょっと客室に行って来ます。新しいタオルが欲しいそうなので」
内線電話を受けていた夜勤明けの内藤が果恵にそう告げると、非常階段を駆け上がって行った。今日もチェックアウトの数は僅かで、フロントはひとりでも全く問題はない。
もしもチェックアウトが集中すれば、事務所内にいる人間を呼べば良いだけの話だ。果恵がひとり黙々とチェックインの準備を進めていると、チンと音が鳴ってエレベーターが開いた。
そして黒のキャリーケースを引いたビジネスマンが、そのまま真っ直ぐ果恵の立つカウンターに向かって歩いて来た。
「おはよう」
「おはようございます」
穏やかな笑顔を浮かべながら朝の挨拶を交わすと、聡がルームキーを差し出した。慌てて接客用の笑顔を貼り付けると、果恵は鍵を受け取り追加料金の有無を確認する。
自然に笑えていますようにと、それだけを心の中で祈っていた。
「正式に事務所オープンしたんですね。おめでとうございます」
他の常連客に話しかけるように、果恵は何気ない風に話を振った。
「ありがとう。やっと肩の荷が下りたよ」
「お疲れ様でございました」
お酒が入った時は打ち解けた会話もできたけれど、カウンターを挟んでしまうとどうしても言葉遣いが戻ってしまう。
もしかすると、ホテルスタッフと宿泊客という関係なんだということを自分に言い聞かせる為に敢えてそうしているのかもしれないが、果恵には自覚はなかった。
「そう言えば」
ためらいがちに口を開く。
「この前、偶然堤くんに会って郁と三人で飲んだんですよ。そして筒井くんが結婚することを聞きました。おめでとうございます」
「え……?」
不意打ちだったせいか、聡は驚愕の表情を浮かべて固まった。狼狽している聡に対し、果恵は言うべきことを言ってしまおうと決意する。
「今後はなかなかこちらに来られないと思いますけど、これからもお仕事頑張って下さいね。そうそう、堤くんが連絡が来ないって拗ねてたのでメールしてあげて下さい」
聡の結婚の事実に動揺していることを微塵も気づかせない為に、最後は堤をだしにして軽口を叩く。言い終えると、果恵は領収書を差し出した。伝えたいことは伝えられたし、それにきちんと笑えていた筈だ。
「佐々木さん」
「おはよう、筒井くん」
聡が口を開いたのと、誰かが聡の名前を呼んだのは同時だった。驚いた表情で振り返った聡の背後には、上司と思われる中年の男性が立っていた。
「次長、おはようございます」
果恵は上司に挨拶をしている聡から目を逸らし男性から鍵を受け取ると、追加の精算が無い旨を伝えて笑顔で頭を下げる。そして聡に対して、準備していた領収書を改めて差し出した。
チェックインの際、聡が上司たちの分もまとめて精算していたらしい。
「筒井様、三室分の領収書でございます。ご確認下さいませ」
聡は領収書を受け取ると、さっと目を通して財布にしまった。隣に立つ上司から部長はまだかと尋ねられ、まだ待ち合わせまで十五分ありますからと落ち着いた声で答えている。
果恵はキーボックスに鍵を戻しながら、そんなやりとりを聞くともなしに聞いていた。
先程、彼は何を言おうとしていたのだろう?
ロビーの椅子に腰かけて上司と会話している聡を視界に捕えながら、ちらりと思う。けれども、恐らく続きは聞けないだろう。果恵が小さく溜息をついたその瞬間、エレベーターの扉が開いた。
「いやあ、ふたりとも早いなあ」
そう聡たちに声をかけながら、恰幅の良い男性がゆったりとこちらに向かって歩いて来る。果恵に鍵を渡すと、既に立ち上がっているふたりの部下に行こうかと声をかけた。
あまりにも呆気なく立ち去ってしまう聡の後ろ姿に向かって、慌ててありがとうございましたと声をかける。すると、振り返った聡と目が合った。
どきりとしながらも表情を崩さないように、果恵もじっと聡を見つめ返す。やがて、聡がおもむろに口を開いた。
「じゃあ、また」
「またね」
それは中学の卒業式のあと、底冷えのする廊下で交わしたのと同じ言葉だった。果恵は精一杯の笑顔を浮かべ、そして背筋をぴんと伸ばしホテリエとして最高のお辞儀で聡を見送った。
―― じゃあ、また。
前回のまたねの時には、また会えるものだと固く信じていた。でも、今回のまたねは、叶う可能性が限りなく低いことを知っている。
果恵の携帯電話のアドレス帳には聡の番号とアドレスが入ってはいるが、この先使用することはないだろう。出張を終えて果恵と関わる必要がなくなった聡から連絡が入る可能性も、皆無に等しい。
ただ聡と堤が親しいのならば、堤に会う為にまたこちらに来ることはあるかも知れない。その時にはまた、ホテル・ボヤージュを利用してくれるだろうか。
けれども、もしそんなことがあったとしても果恵が聡をチェックインすることは二度とないだろう。果恵は、夏が終わればホテル・ボヤージュを去るのだ。
あの遠い春の日の‘またね’が長い時を経て叶ったように、今回の‘またね’もいつか叶うのだろうか。
とうに人影が見えなくなった自動ドアの向こうを眺めながら、果恵はぼんやりとそう思った。