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ぎ出すカエル



 17. 知ってしまったカエル


 県内有数の進学校である汐見高校は、海を見守るように校舎が建っていた。
 中学三年生だった果恵が、クラスメイトである聡の志望校を知ったのはほんの偶然だ。その日、日直だった果恵は放課後に日誌を職員室に提出すると、鞄を取りに教室に戻った。
「筒井は汐見? それとも海稜学院?」
 教室には男子が数名残っているようで、クラスメイトたちの声が聞こえてきた。どうやら互いの志望校を確認しているようだ。質問を受けた人物が何と答えるのか、果恵は扉の前でそっと耳を澄ます。
「汐見。あそこの教室からは海が見える」
「おい、そんな理由かよ。俺なんか、海が見えようが山が見えようが合格できれば良いって言うのに」
 ひとりが自虐的に言うと、扉の向こうで笑いが起きた。男子たちが騒いでいる声を聞きながら、果恵はほっとしている自分に気づいた。 果恵が密かに目標としている人物は、私立の男子校ではなく共学の公立校を第一志望にしている。それならば、果恵だって目指すことができるのだ。
 夏休み前の三者面談で、果恵はランクをひとつ上げて汐見高校を受験したいと明言した。担任教諭は反対はしなかったが、今のままでは難しいけれど頑張ることができるかと尋ねてきた。 果恵は努力は惜しまないつもりだった。自分も海を臨む教室で、高校生活を送りたいと思っていた。

 やがて春になり、果恵は汐見高校の生徒となった。
 入学式の日、紺色のブレザーに身を包んだ果恵は自分のクラスを確認すると、それから元クラスメイトの名前を探した。けれども貼り出されている模造紙のどこにも、聡の名前を見つけることはできなかった。
 願書を提出するのも試験を受けるのも、揃って行くようにと中学の学年主任からは指導されていた。けれども思春期の中学生は微妙に意識し合っていて、男子と女子のグループに分かれて別々で行動していた。 汐見高校を受験した女子は果恵を含めて三人で、常に女同士で行動していたので男子が何人受けたのかは知らなかった。もっとも席次でだいたいの志望校は想像できるもので、何となく誰が受験したかは予想がつく。 聡が汐見高校を第一志望にしていたのは確かなので、果恵は彼が受験しないという可能性を全く考えてはいなかった。 諦めきれずもう一度、一組から順に名前を追ったが、やはり彼の名を見つけ出すことはできなかった。
 ――受験しなかったのか、不合格だったのか。
 どちらも果恵が予想しなかった結末だった。自分が頑張りさえすれば同じ高校に通えると当たり前のように信じていた果恵は、彼がいない現実に茫然とするしかなかった。

「佐々木さん、久しぶり」
 入学して一週間後、はじめての委員会が開かれた。くじ引きではずれを引いた果恵は、強制的に美化委員に任命された。 委員会で声をかけてきたのは、同じ中学出身の男子生徒だった。クラスは一緒になったことはないが、三年間たまたま同じ委員で顔馴染みだった。
「高校でも同じ委員か。縁があるね」
「本当だね」
 クラスメイトでも言葉さえまともに交わさない人もいれば、クラスメイトではないのに不思議と接点が多い人もいる。全ては縁のせいなのかと果恵は考えた。彼女は聡と、縁がなかったようだ。
「そう言えば、筒井には驚かされたよな?」
「え?」
 突然話題にのぼった名前に、微かに動揺する。
「あれ、佐々木さん同じクラスだったよね? あいつ東京に越して行ったんだろ?」
 あまりにも衝撃的な内容に、果恵は隣の席に座った人物の顔をまじまじと見つめた。
「え、知らない? 親父さんの転勤らしいよ」
「そんなの知らない。だって何も言ってなかったよ」
 もしや知らなかったのは自分だけなのだろうか。果恵は喉の奥がカラカラに乾くのを感じていた。
「あいつ、クラスメイトにも言ってなかったのかよ。俺は中一で同じクラスだったんだけど、卒業式まで何も知らなくてさ。 てっきり高校も同じだと思っていたから何で教えてくれなかったんだって聞いたらあいつ、どうせ卒業したらバラバラだから言っても言わなくても一緒だろうって」
 そこで、担当の教師が入室して来た。委員会が始まり、強制的に会話は終了となる。
 果恵は混乱している頭を整理する為に、そっと息を吐いた。聡はこの町にはもういない。やがてその事実が押し寄せてくる。 この高校にいないということは進路を変更して男子校に行ったのかと思っていたのだが、此処から遠く離れた都会の高校に進学したのだ。
 ふと窓の外に視線をやった。三階にあるこの教室からは、海が一望できる。春の海は穏やかで、太陽の光が波間にきらきらと反射しているのが眩しかった。



* * *   * * *   * * *



 果恵と郁子が向かったのは、駅前にある海鮮居酒屋だった。漁港まではもう少し車で北上しなければならないが、この町でも容易に旨い魚が手に入る。
「悪いね、突然予定を変えて」
「別に構わないよ。久しぶりに家に顔出せたし」
 とりあえず乾杯を済ませると、果恵と郁子は適当にメニューの中から五品ほど注文した。
「おばさん喜んでいたんじゃない? 近いんだからもっと帰ってあげれば」
「まあね」
 郁子は未だ実家暮らしだ。彼女の言葉に気のない返事を返すと、果恵は郁子の隣の席を見やった。
「ねえ、それよりも今日は他に誰か来るの?」
 先程からずっと気になっていた疑問を口にする。店は郁子が予約してくれていたのだが、テーブルには三人分の箸と取り皿が用意されていたのだ。
「果恵を驚かせようと思って黙っていたけど、今日は一名ゲストがいます」
「誰よ?」
「それは来てからのお楽しみ。でも、イケメンとかじゃないから期待しないでね」
「いや、しないし」

 郁子と会う時はいつもふたりだ。中学時代は四人グループだったが他のふたりは他県に嫁いでしまい、今では年賀状のやりとりのみとなっている。 この町で待ち合わせるのだから地元の人間なのだろうけれど皆目見当がつかなくて、果恵は少し落ち着かない気分で入口に目をやった。
「いらっしゃい!」
 その瞬間、格子の引き戸がガラリと開いた。日に焼けた短髪の男性が顔を覗かせると、郁子がすかさず手を上げた。
「悪い、遅くなって。出ようと思ったら仕事の電話が入ってさ」
「まあ良いよ。ここはあんたの奢りってことで」
「何でそうなるんだよ」
 小さく詫びた相手に、郁子が軽口を叩く。パーカーにジーンズというラフな姿のその人物が郁子の隣の席に座るのを、果恵はまじまじと眺めていた。
「佐々木さん、久しぶりだね」
「堤くん!?」
「イエース!」

 気になっていたシークレットゲストは、中学三年の時に同じクラスだった堤だった。彼の母親が十日前にぎっくり腰にかかってしまい、連れて行った病院が郁子の勤務先だったとのことだ。 会計窓口に座っていた郁子と再会し、その後も何度か母親を連れて来院した際に顔を合わせ飲みに行く話になったらしい。
「佐々木さんと会う約束してるって言うから、じゃあ俺も混ぜてくれって頼んだんだ」
「そのくせ、時間も場所も堤の都合優先だよ。あーあ、ランチバイキング行きたかったのに」
「まあ良いじゃん。イケメンと飲めるんだからさ」
 堤が注文した生ビールが来たので、とりあえず乾杯をする。それから互いに近況報告をし合った。 中学時代はあまり男子と話さなかった果恵も、誰にでも気さくに話しかけてくれる堤とは喋りやすかったと記憶している。それは今も変わらなくて、お調子者の彼がすっかり会話の主導権を握っていた。

「佐々木さんがホテルでバリバリ働いているのは、何か想像がつくなあ」
「バリバリは働いてないよ」
「またまた。中学時代から佐々木さんはしっかり者だったしね。ところで、結婚はどうなの?」
 この年になれば、必ず結婚のことを尋ねられる。当たり前のように会話に組み込まれる質問内容に、果恵はいつも通り苦笑いで答えた。
「結婚はひとりではできないからね」
「彼氏は?」
「いないよ」
 もう何年も同じ回答だなと思いながら、果恵は変わり映えのしない答を目の前の同級生に返した。
「堤くんこそどうなの?」
「現在、嫁さん候補絶賛募集中です!」
「彼女いないの? 高校時代は見かけるたびに可愛い子と一緒にいたけど」
 からかいながらそう言うと、堤は恥ずかしさを誤魔化すように奇声を上げた。すかさず隣の席に座る郁子が、うるさいと言って頭を叩いた。
 さほど大きくないこの町では、卒業後に進路がばらばらになっても同級生と顔を合わせることは難しいことではなかった。学校の行き帰りに駅で見かけたり、商店街や海沿いの堤防や、どこかで誰かを見かけた。 そして友人や、たまには母親を介して、誰がどうしたという情報も入ってきていたのだ。 就職や結婚を機に町を離れる者も増え、卒業して十五年以上も経つとさすがに近況を把握できていないが、中学から一度も会っていない同級生の方が実際は少なかった。
「佐々木さん、いきなり攻めるね。今思えば、俺のモテ期は間違いなく高校時代だったな」
「調子に乗って、俺は特定の彼女を作らないとか言うからよ」
 遠い目をした堤に、郁子が追い討ちをかける。それは果恵には初耳だった。
「へえ、そうだったんだ」
「ひとりに決めるより、色んな子と遊びたいじゃないか。若かったんだよ!」
 最後は開き直りに似た発言をすると、堤は刺身に箸を伸ばしながらしみじみと呟いた。
「ああ、結婚してえ……」

「そんなに結婚したい?」
「したい!!」
 果恵が尋ねると、堤だけでなく郁子も力を込めて頷いた。
「前から思ってたけど、果恵は結婚願望薄いよね」
「そうなんだ。佐々木さんは、仕事を恋人にしたいタイプ?」
 堤に真顔で尋ねられて、果恵は思わずたじろいでしまう。
「うーん、結婚って色々大変そうじゃない?」
 全く結婚したくないわけではない。友人の結婚式に出席したあとは憧れの気持ちが湧き起こるし、幸せそうな惚気話を聞かされても羨ましくなる。
 けれども単に付き合うのとは違い、自分たちふたりだけでは済まされない問題がたくさんある。子供ができたら責任も増す。 ふたりの気持ちが強く結びついていれば何があっても乗り越えられるだろうが、人の気持ちなんて不確定なものだ。 それを考えると、最初からひとりの方が傷つかなくて良いし、余計な重荷を背負わなくて良いのではないかと思えてくるのだ。
「うわ、クール。手痛い失恋でもしたの?」
「ストレートな質問だねえ」
 思わず果恵は吹き出した。もともと恋愛経験の少ない果恵には、そんなトラウマになるような失恋の経験すらない。 学生時代に付き合っていた彼氏は関西に就職した為にだんだんと気持ちが離れ、社会人になってできた恋人とはシフト制という生活サイクルが合わずに別れを告げられた。 もちろん当時はそれなりに傷ついたが、別に今もそれを引きずっているわけではない。
「結婚って大変そうだけど、大変そうだと分かっていてそれでも結婚したいと思えるような人には出会いたいと思うよ。この人なら一緒に困難を越えてゆけると思える相手に」
「そりゃあ、誰だってそうだよ」
 ひとりで生きてゆくという覚悟はまだできない。何が何でも結婚したいとは全く思わないが、好きな人は欲しいし、恋愛に夢をみる気持ちも何処かに残っているのは事実だ。

「わたしは今すぐしたい。早く幸せになりたい!!!」
「じゃあ、郁と堤くんで付き合えば? 結婚前提にさ」
 郁子の心の叫びを聞きながら、果恵は目の前のふたりに提案してみる。
「はあ? どうせ妥協するのなら、もっと若いうちにしてるよ。アホの堤で手を打ったら、この歳まで待った意味がないじゃん」
「佐々木さん、俺は確かに嫁さん欲しいけど、誰でも良いわけじゃないんだぜ」
 半分は冗談だったけれど、残りの半分は割と本気の提案だったが鬼の形相でふたりに反論されてしまった。ごめんと謝りながらも、ぴたりと息の合ったやりとりに意外とお似合いなのになと果恵は思ってみる。
「結婚できないタイプには、たぶん三種類あるんだろうな。俺みたいにモテすぎるのと、佐々木さんみたいに臆病な人と、柴田みたいに単にモテない奴と」
 すっかり泡の消えたビールを飲みながら、しみじみと堤が言った。脂ののったほっけをほぐして口に運んでいた果恵は、思わず吹き出しそうになり慌てて口を押さえた。
「わたしはモテないんじゃありません。幸せ掴む為に相手を厳選しているだけです!」
 あまりにも失礼な堤の分類に、郁子は怒り心頭だ。
「へーへー、それは失礼しました。早く白馬の王子様が迎えに来てくれたらイイデスネ」
 中学時代と変わらない低レベルなやりとりに果恵が笑い転げていると、郁子がじろりと睨んでくる。やはりふたりはお似合いなのになと思いながら、郁子が恐ろしくてそれは口に出せなかった。

 幼い頃を知っている相手には気どる必要もなく、リラックスしたまま会話が弾んだ。やがて話題は、当時のクラスメイトの近況へと移ってゆく。 誰が出産したとか、誰が出世したとか。既に知っている情報もあれば、はじめて耳にする話もある。当時の仲間が今どのような人生を歩んでいるのか一端を知ることができて、懐かしくもあり感慨深くもあった。
「そう言えば、筒井くんのこと覚えてる?」
「ああ、聡?」
 郁子と堤がもたらす旧友たちの情報に、果恵も聡が彼女の勤務先に宿泊したことを伝えようと彼の名前を出してみる。すると、堤は声を弾ませて笑顔を見せた。 誰とでも仲が良かった堤なので、出席番号が前後する聡ともある程度は親しかったとは思う。 けれども一緒に行動するグループは別で、聡の話題に懐かしさを滲ませた表情を見せた堤に果恵はそんなにも仲が良かったのかと少し意外な気がした。
「そう言えば、聡も近々結婚するって言ってたな」

「え……?」
 果恵が発しようとした言葉は声になる前に、驚きのあまり喉の奥で潰れてしまった。出てきたのは情けない、掠れた音だけだった。 中学卒業後に引越してしまったクラスメイトの消息は知られていないだろうから、果恵が偶然会ったと知れば堤も驚くだろう。そう思っていたのに、驚愕させられたのは果恵の方だった。
「春頃に式を挙げると言ってたけど、まだ招待状が届かないな。さてはあいつ、俺を呼ばないつもりか」
 堤は一体誰の話をしているのだろう。彼の言葉の内容が理解できず、けれどもその詳細を尋ねることもできなくて、果恵はただ水滴のついたグラスをぐっと握りしめていた。

 


2013/06/16 


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