旨い料理と旨い酒で気持ちは満たされ、果恵の心はすっかりリラックスしていた。
当初は中学時代に殆ど接点がなかった為にぎこちなさを感じていたが、たとえ言葉を交わした記憶がなくても、同じ教室で同じ時間を過ごしたというだけで思い出話に花が咲く。
話しているうちに互いが持ち出すエピソードに記憶が刺激されて、頭の片隅に仕舞われていた思い出たちが次々に蘇ってきていた。
そうやって会話を楽しみながらも箸はしっかりと動いており、はじめにオーダーした料理は綺麗に平らげてしまった。メニューを開き、ふたり一緒に覗き込む。
何がおすすめかと尋ねられたので果恵がいつも由美と注文する定番メニューを挙げると、聡は店員を呼んでそれらを注文した。その際に、すかさず日本酒のお代わりも頼む。
「お酒、強いんだね」
アルコールにさほど強くない果恵の顔は既にほんのりと赤らんでいるが、向かいに座る聡の顔色は素面の時と全く変わらない。
「うん。ザルだってよく言われる」
「強いイメージがなかったから、ちょっと意外だった」
「どんなイメージだよ」
果恵の言葉に聡が吹き出す。これまでずっと丁寧語とフランクな口調が混ざってぎこちなかったのだが、果恵の口調はすっかり砕けたものになっていた。
「筒井くんは、真面目で控えめなイメージ」
「つまらなさそうな男だな」
果恵が答えると、聡がそう言って茶化した。
「つまらなくなんかないよ。いつも物静かで落ち着いていて、同い年なのに大人だなって思ってた。常にクラストップの成績で、黙って努力し続けている姿に偉いなって尊敬してたんだよ」
少し酔いが回って饒舌になった果恵がそう答えると、聡は面映そうな表情でグラスを呷った。
「ヘタレだっただけだよ」
「誰が?」
「俺が。自分から話題を提供するのが苦手で、特にあの頃は思春期だったから変に意識して女子には話しかけられなかった。本当は他の奴らみたいに気軽に声をかけたかったんだけどね」
意外な聡の告白に、果恵は目を丸くした。大人びて見えた聡も、ちゃんと中学生だったのだ。
「何笑ってるんだよ」
「笑ってないよ」
何だか中学生の聡が可愛らしく思えて果恵が笑いを洩らすと、拗ねたような表情で彼が軽く睨んできた。大人ぽく遠い存在だったクラスメイトが、急に身近に感じられた。
「じゃあ、俺も佐々木さんのイメージを発表する」
「ええっ!?」
果恵に笑われたことが悔しかったのか、聡がそう宣言した。イメージも何もあまり印象に残っていないのではないかと思うのだが、何を言われるのかと思わず果恵は身構える。
「佐々木さんはね、大人しそうに見えてかなり負けず嫌い」
にやりと笑いながら、聡はそう言い切った。
「どうして?」
確かに果恵は負けず嫌いだが、彼女と関わりがなかった聡が何故そんなにも自信満々に言い切ったのかが不思議だった。
「テストの答案用紙が返される時、いつもクラスで上位五人の点数が発表されていたよね。俺は相当の負けず嫌いだったから密かにオール一番を目指していたんだけど、英語がどうしても苦手でさ。
逆に佐々木さんは英語が得意で、クラスでトップの点数をとった時に一度俺と目が合ったんだ。覚えてる?」
聡の発言に、もともとアルコールのせいでほんのりと染まっていた果恵の顔が一気に耳まで赤くなった。
五教科まんべんなく優秀な成績を修めていた聡に対し、尊敬の念だけでなく一方的なライバル心を抱いていたのは事実だ。
理系科目では太刀打ちできないが文系科目では、せめて得意の英語だけでも、聡よりも良い点数をとって彼に認めてもらいたい。
何故聡に対してそのような気持ちを抱いていたのかは分からないが、幼い頃から負けず嫌いだった果恵は完敗するのが嫌だったのだろう。
そうして英語で僅かながら上の点数をとった時に嬉しくて、ちらりと彼の表情を盗み見たのだ。これで少しは自分の存在を意識してもらえるだろうか。
五教科の合計点では遠く及ばないものの次はその差を縮めて見せると心に誓っていると、不意に聡がこちらを向いた。
視線が交錯したのはほんの一瞬で、きっと彼は気づいていないだろうと果恵はそう自分に言い聞かせた。それをまさか、十五年以上のちに指摘されるとは夢にも思っていなかった。
「佐々木さんはちょっと得意気な表情で、こっちをチラ見していたんだ」
「してないよ。総合点では全然届かないのに、一教科勝ったくらいでそんな顔しないもん」
「いや、してたね。右の口角が確実に上がってた」
「上がってない!」
むきになって果恵が否定すると、聡がついに我慢できずに笑い出した。落ち着いて見えたクラスメイトは、実は少し意地悪で笑い上戸のようだ。
意外な一面ばかりを見せられて戸惑いながらも、素の聡を知ることができて果恵は密かに喜びを感じていた。
「五教科制覇を阻まれたのが悔しくて、勝手に佐々木さんをライバル視してたんだ。知らなかっただろう?」
「嘘だ」
「本当。苦手な英語の成績が上がったのは、確実に佐々木さんのお陰だよ」
予想もしなかった話に、果恵はまじまじと聡の顔を見つめた。眼鏡の奥の瞳はいつもながら涼しげで、けれども嘘をついているようには見えなかった。
「それはちょっと、かなり嬉しい」
戸惑い気味の表情を見せていた果恵だが、聡の発言がどうやら嘘ではないと分かり素直にそう呟いた。
「わたしの方こそ勝手に筒井くんをライバル視して、一教科だけでも勝ちたいっていつも思ってた。だから筒井くんもそう思ってくれてたと言われても、ちょっと信じられない気分」
「一年間も同じ教室にいて、殆ど喋ったことがなかったもんな」
「関わりがなかったからね。席は近くになったことないし、行事ごとの班分けも一度も一緒にならなかった」
だから尚更、三十歳を過ぎた今、こうやって酒を飲みながら思い出話をしていることが不思議だった。
「あの時の‘またね’が叶って良かった」
「え?」
溶けかかった氷が、グラスの中で微かな音をたてる。聡が感慨深そうにしみじみと呟いた。
「覚えていないかも知れないけど、卒業式のあとで佐々木さんと挨拶を交わしたんだよ」
「ああ、職員室の前だったよね。わたしがまたねって言ったら、またねと返してくれた」
「覚えてくれていたんだ?」
最近見た懐かしい夢を思い出しながら果恵が相槌をうつと、少し驚いたように聡が言った。
「覚えているよ。あのあとしばらくしてから筒井くんが引越したのを人づてに聞いて、またねなんてもうないくせにと思ったから」
冗談めかしたつもりなのに、心なしか詰るような口調になってしまう。内心少し焦っていると、聡は気づいていないようでさらりと返した。
「でも、あったよ」
そうなのだ。もう絶対に会うことはないと思っていたのに、‘またね’は確かにあったのだ。縁とは不思議なものだと、アルコールが回ってきた頭で、果恵はぼんやり考えた。
店の外に出ると、春の夜空に霞んだ月が浮かんでいた。
思い出話を肴に料理と酒を愉しんで、お腹と気持ちが満たされた頃、そろそろ出ようかと聡が言った。もう少し話していたい。そんな名残惜しい気持ちを抱きながら、お互い明日も仕事なので素直に頷く。
そして支払いは、もともとお詫びのつもりだったけれど結局は割勘になった。最初は聡が全額払おうとしてくれたが、それはあまりにも申し訳ないので何とか割勘にしてもらったのだ。
「帰りは電車?」
「うん」
果恵が頷くと、駅まで送ると言いながら聡が歩き出した。
「いいよ、すぐそこだし」
「すぐそこだから送るよ」
そう言われるとそれ以上何も言えなくなる。果恵は黙って先を行く背中を追いかけた。
「果恵、帰ろう」
少し先を歩いていた聡が、不意に振り向くと唐突に言った。
「え?」
アルコールのせいでほんのり赤かった果恵の頬が、一瞬で朱に染まる。心臓の音が自分で聞こえるくらいに大きく跳ね上がった。
「放課後、帰る時にいつもみんなからそう呼ばれてたよね」
そう言うと、聡は悪戯ぽく笑った。
「郁、行くよもあったね。あと何だったっけ?」
「明美、開けて。美代子、見よう」
名前を呼び捨てにされたと思って一気に上がった体温は、勘違いだと気づき恥ずかしさで更に上昇する。夜で良かったと、果恵はさりげなく火照った頬に手をやった。
「そうだそうだ。懐かしいなあ、佐々木さんたちグループの駄洒落シリーズ」
箸が転げても可笑しい年頃なんてよく言ったもので、たまたま郁子が果恵に帰ろうと声をかけたら洒落みたいだと友人たちが笑い出したのがそもそもの始まりだ。
それ以来、わざと名前に引っ掛けた言い回しをするようになり、飽きもせずそれに毎日笑い転げていた。果恵が誕生日にピンク色のカエルのぬいぐるみキーホルダーを貰ったのも、それらの言葉遊びの延長だ。
今思えば、幼かったなと自分でも呆れてしまう。あの頃は、そんな些細なことが楽しくて仕方なかったのだ。
「もう、何でそんなこと覚えてるの」
ひとり動揺していたことが恥ずかしくて、誤魔化すように果恵が言う。先程までの会話でもそうだが聡の記憶力は素晴らしく、頭の良い人は記憶力も衰えないのだなあと密かに関心する。
「だって佐々木さんたち、いつも楽しそうだったから」
「下らないことで笑ってるなあって、呆れてたんでしょ?」
「親父ギャグだなとは思ってたけど」
「ひどい!」
果恵が冗談で拳を振り上げると、聡が大げさにのけぞった。その瞬間、チリンチリンと自転車のベルが鳴る。振り返ると、背後から自転車が近づいていた。
狭い歩道の端にふたり寄り、自転車が通過できるスペースを作る。思いがけず接近した聡からは、ほんのりとアルコールの匂いがした。
「帰ろう」
自転車が通り過ぎたあと、聡が再び歩き出した。今度は果恵の名前を呼んではくれなかった。
淡々と顔色を変えず日本酒を飲み続けた聡だが、少しは酔っているのだろうか。
果恵は彼から微かに漂うアルコールの匂いですっかり酔った気分になり、ふわふわとした足取りで黙って聡の隣を歩いた。
平日の夜の車内はさほど混雑していない。空いている座席は無いが、立っている人もまばらだ。規則正しく揺れる電車の中で、ドアの前に立った果恵はガラスに映る自分の顔をぼんやりと眺めていた。
結局、果恵は駅まで聡に送ってもらった。店から駅までは目と鼻の先で、あれから会話らしい会話をする間もなく改札口に到着した。
「じゃあ、また」
「またね」
ありがとうというお礼の言葉のあとに続いたのは、卒業式の日に職員室の前の廊下で交わしたのと同じ挨拶だった。けれども彼は、あと一回しかこちらに来ることはないと言う。
そのあとはまた、‘また’がある可能性が薄れてしまうのだ。
(東京に異動すれば、これからも会えるかも知れない)
ふと、自分でも思いもよらなかった考えが浮かぶ。酔った頭で考えた突拍子もないアイデアに、果恵は思わずどきりとした。
中学時代に殆ど言葉を交わしたことがないというのを忘れてしまうくらいに、聡との会話は弾んだと思う。会う回数が増えれば、もっともっと距離は縮まるかも知れない。そして……。
果恵はガラスに映る自分の顔を正視できず、その先にある夜の景色に目をこらす。電車の揺れに合わせて、どこか気持ちもふわふわと揺れているような気がした。