backindexnext

ぎ出すカエル



 13. けしかけられるカエル


「果恵さん、果恵さん!」
 事務所で果恵が団体手配書を作成していると、フロントに立っていた菜乃花が満面の笑みを浮かべながら事務所に駆け込んで来た。
「今、チェックインされましたよ」
「へ、誰が?」
 一体何の話だろう。菜乃花の報告に頭を巡らせながら、不思議そうに問い返す。
「筒井様です」
 果恵の質問に対し、菜乃花は語尾にハートでもつきそうなくらいうきうきとした口調で答えた。

 色んな意味で聡に助けられた三月最後の日。四月にまた来ると言っていたものの具体的な日程は知らないまま、四月も既に第二週に入っていた。
「じゃあ、今度こそ飲みに行かなきゃね」
 先程まで打ち合わせの電話をしていた筈の由美が、そう言いながら嬉々として会話に加わってくる。
「……はい」
「へえ、今まで消極的だったのに今回は前向きじゃない?」
 先日の別れ際の約束を思い出しながら果恵が小さく頷くと、すかさず由美が反応してきた。
「だって、散々迷惑かけたからお詫びしなくちゃ……」
「まあ、そうだわね」
 果恵の台詞に納得の表情を浮かべた由美の隣から、菜乃花が口を挟んできた。
「もちろんお詫びも大切ですけれど、でもでも、すっごい偶然なんですから普通に同級生として再会を喜んだら良いじゃないですか」
「もちろん菜乃花の言う通りだよ。まあ、何にせよ飲みに行くのは良いことじゃん」
 力説した菜乃花に対し、由美が軽い調子で話をまとめる。その適当さ加減に思わず果恵が吹き出した。酒豪の由美が言うと、単なる酒飲みの発言にしか聞こえなかった。

 春の午後の事務所には、のんびりとした空気が流れていた。上司たちは皆、営業や会議などで席を外している。今日は電話も少なく、残された女子社員たちの会話は弾む一方だった。
「お酒大好きな由美さんの飲み会賛歌はひとまずこちらに置いておいて、果恵さんはさっさと筒井様にお誘いメールしなきゃですよ!」
 少し呆れたように由美を見やった菜乃花が、果恵に向き合うとぴしりと言い放った。
「なっちゃん、最近しっかり度が増しすぎだよ」
 苦笑いを浮かべながら果恵が呟く。一皮むけたともっぱらの評価だが、対象は仕事だけでないらしい。
「だって、背中押さないと果恵さん絶対メールしなさそうですから」
「背中押してもらっても、メールできないんだけどね」
 きっぱりと言い切る菜乃花に果恵がへらりと笑みを浮かべながら答えると、彼女は眉間に皺を寄せた。
「果恵さん、まさかとは思いますけど……」
 ためらいがちに言葉を区切ると、恐る恐る確認するように尋ねてくる。
「筒井様のメアド知らないとか言いませんよね?」
「言っちゃいます」
 胸を張って果恵が答えると、菜乃花の顔には信じられないという文字が浮かび上がっているようだった。

「ありえない! だってこの間、果恵さん社用車で筒井様を北町まで送りましたよね? メアド聞くタイミングも口実も、いっぱいありましたよね!?」
 あんぐりと口を開けて果恵を見つめていた菜乃花だったが、我に返ると矢継早に質問を浴びせてきた。
「いや、無かったと思うけど」
「普通のお客様ならともかく、同級生なら当然の流れじゃないですか?」
 そうなのだろうか。さも当然のように主張する菜乃花は出会いをアグレッシブに求める社交家だが、果恵は同級生の聡に対して未だ敬語も抜けないような不器用な人間なのだ。 そんな性格の人にとって、仲良くもない相手のメールアドレスを聞いて食事の約束をとりつけるなど至難の技だ。 助けを求めるようにちらりと由美を見やると、自分の席でにやにやと笑いながら面白そうにふたりのやりとりを眺めていた。

「今回の筒井様のご予約は今朝入れられたみたいなんですけど、それじゃあ果恵さんは、今日来られることも知らなかったんですか?」
 知っているわけがない。実は、たまに思い出した時に彼の新規予約が入っていないかを確認する為、こっそりと聡の名前を予約端末に打ち込んでチェックしたことが何度かある。 けれども名前が見つからず、密かに落胆していたことは絶対に誰にも知られたくない秘密だ。
「まあ、そこが果恵の可愛いところ。今回は飲みに誘うって言ってるんだから良いじゃない」
 それまで黙って観察していた由美が口を開く。誘うだなんて積極的な言葉は使っていないのに、何故か飲みに行くことは決定事項になっているようだ。
「それはそうですけど。じゃあ、筒井様がフロントの前を通りかかったら呼び止めますね」
「ちょっと、なっちゃん勘弁して!」
「でも、メアドも知らないのにどうやって誘うんですか? 客室に内線かけます? それともメッセージをドアの下からスリップインさせますか?」
 畳みかけるような菜乃花の攻撃に、とうとう由美が腹を抱えて笑い出した。冗談とも本気ともつかないのが何とも恐ろしい。
「菜乃花、あんた想像以上に肉食だわ」
 笑いすぎて流れてきた涙をぬぐいながら由美がそう言うと、フロントからチンとベルの鳴る音がした。フロントには中途入社のスタッフが立っているが、複数の客が一度にやって来たようだ。
「しまった、フロント任せきりだった!」
 弾かれたように、慌てて菜乃花がフロントへ飛び出して行く。残された果恵と由美は、呆気にとられながら豆台風が去るのを眺めていた。

「いやあ、頼もしい後輩だね。もともと社交性が強いとは思っていたけど、予想以上だったわ」
「たくましすぎです……」
 そう言って大袈裟な溜息を吐いた果恵に、由美は再び笑い出した。
「まあ良いじゃん。仕事にもたくましさが出てきたんだから」
 それは事実なので、果恵は素直に同意する。けれども仕事面以外のところでこれまで以上に強くなられると、背中を押される果恵の身がもたない。 そう果恵がこぼすと、確かにねと少しだけ同情の色を浮かべながら由美が同意してくれた。
「でも、だいぶ果恵の負担も減ってきたんじゃない? 菜乃花だけじゃなく、内藤もしっかりしてきたしね」
「そうなんですよ。内藤くんも後輩が入ってきて、良い刺激になっているみたいですね」
 これまで一番下だった内藤も、新入社員が入社して急に成長した。由美の指摘に、やはり皆もそう思っているのだなと果恵は少し嬉しくなった。
「それだけじゃないと思うよ。自分の不用意さで果恵に迷惑かけたこと、だいぶ反省したみたいだから」

 静かな事務所に、ジジジと予約通知が流れてくる音が響く。
「内藤くんがわたしにかけた迷惑って、何ですか?」
 果恵は今しがた由美が発した言葉の意味が分からずに、不思議そうに彼女の顔を見つめ返した。
「例のシマザキフーズの変更の電話、あの子が受けたんでしょ。その詳細、きちんと果恵に報告しなかったって言うじゃない」
「確かに日程変更だとは聞かなかったけど、でも変更があるということは言ってましたよ」
「あんな重要な変更は、きちんと口頭で内容を報告するのが基本。果恵の確認不足もあるけど、内藤の責任も大きいとわたしは思うよ」
 由美は自分に厳しい分、他人にも厳しい。けれどもそれは、相手がやればできると信じているからなのだろう。正直、シマザキフーズの件では内藤がひと言添えていてくれたらと思わなかったわけではない。 けれども実際に変更内容を日程ではなく人数だと思いこんだのは果恵だし、入社一年目の彼にそこまで求めるのは酷なような気がしたのだ。
「果恵が奔走してるのを見て、だいぶ落ち込んでいたんだよ。丸井さんにも注意されていたし。まあ、それでしっかりしてきたから彼にとっては良い薬だったかもね」
 あっさりと言ってのけた由美に、果恵は目を丸くした。内藤の成長の裏に、営業の丸井の叱責があったことは初耳だった。

「まあ、若者たちはどんどん成長しているんだ。だから果恵も変われば良いさ」
 内藤の話題から自分に矛先を戻されて、果恵は黙って由美の目を見つめた。姉と同い年の彼女は、妹を想う姉のような優しい目で果恵を見つめ返していた。
「果恵は真面目だから、全てを抱え込んで身動きとれなくなるのが心配だった。でも、最近の果恵は良い感じで余裕が出てきたから、変化を求めて動いてみても良いじゃない?」
「変化……」
 それは忙しさのピークの中で果恵が余裕を失くしていた頃、由美が言った言葉だ。あれはきっと、自分を追い込んでいる果恵の危うさを心配した由美からの、柔軟になれというアドバイスだったのだろう。 結局、その真意は果恵には届かず大失態を犯してしまうのだが、彼女の言う通り少し変化を求めてもみても良いのかも知れない。
「偶然再会したクラスメイトとお酒飲みながら、懐かしい思い出話をする。いいなあ、楽しそうで」
「お酒を飲むことがですか?」
 由美が飲みたそうな顔をするので、果恵はわざと茶化してみる。当然よと、尋ねた瞬間に即答された。
「さっさと誘わないと、菜乃花がありとあらゆる手段を使って動くわよ」
「うわあ、それは勘弁です」
 由美の脅しに大袈裟に怯えて見せると、ふたり肩を揺らして笑った。

 やがて笑い疲れると、果恵は手元の手配書をめくり由美はパソコンに向き合った。いい加減、おしゃべりは終わりにしないと仕事が片づかない。
「由美さん」
 新規予約を入力しながら、ふと果恵は由美に声をかけた。既に仕事モードに戻った由美はカタカタとテンポ良くキーボードを叩きながら、ちらりと僅かに視線を上げた。
「また、飲みに行きましょうね?」
 いつもフォローしてくれる由美に対し急にお礼を言いたくなったのだけれど、何だかそれは照れくさくて、代わりに飲みに行こうと誘ってみる。
「そんな感じで、インテリ眼鏡くんのことも誘えば良いのよ」
「インテリ眼鏡くんって……」
 けれども、何事も大人な由美にはそんな想いもさらりとかわされてしまう。敵わないな。密かに憧れる人生の先輩は、なかなか一筋縄ではいかない。 苦笑いを浮かべながら再び手配書に視線を落とすと、今度は由美の方が果恵の名を呼んだ。
「果恵」
「はい?」
「今度飲みに行く時は、菜乃花も誘ってみようか?」
 由美の提案に、果恵は良いですねと同意した。




 一日の業務を終えて制服を着替えると、果恵は従業員用の通路から裏口に向かった。途中、厨房スタッフにすれ違い、お先に失礼しますと声をかける。
 外に出ると、春の緩んだ空気が頬を撫ぜる。 定時直前に面倒な電話を受けてしまい結局一時間の残業になってしまったが、最近はすっかり日が長くなっているのでまだ周囲は明るかった。
 早く上がれたので、帰りに買い物をしてごはんを作ろう。そう決めた果恵は、冷蔵庫に残っている食材を思い出しながらメニューを考え始めた。 三月はあまり自炊ができなかったので、エンゲル係数も消費カロリーも上昇気味だったのだが、このところは割とまめに料理をしている。
 何が食べたいかな。ぼんやり考えていると、背後から不意に呼び止められた。

「佐々木さん?」
 果恵が振り返ると、そこにはグレーのスーツを着た聡が立っていた。

 


2013/05/16 


backindexnext