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ぎ出すカエル



 05. 旧友とカエル


 出勤していつものように前夜からの引き継ぎを受けると、果恵はまず残りのチェックアウトの件数を確認した。今日も十時出勤の中番なので、チェックアウトのピークは既に過ぎている。 順調に業務が進んでいることを確認すると、果恵はこっそりと聡の名前を入力した。
(まだ、チェックアウトしていない……)
 きっともう出発しているだろうと思っていたので、表示された画面に果恵は戸惑いをおぼえた。
「佐々木、ちょっと良いか?」
「は、はい!」
 不意に背後から声をかけられ、思わず声がうわずった。何もやましいことはしていないのだが、慌てて聡の名前が表示されている画面を閉じる。 幸いにも声をかけてきた営業の丸井は果恵の挙動不審な様子に気づいていないようで、特に突っ込みを入れることもなく手にしていたメモを見せてきた。

 業務が専門的で細分化されているシティホテルに対し、ビジネスホテルであるホテル・ボヤージュは安く提供する為に最低限の人員で運営している。 経理や営業はいるが、人手不足の時は彼らもまたフロントに立つ。 当然、予約課や企画課なんていうものは存在せず、多くの仕事はフロント業務と並行して行われていた。 毎日が時間に追われ大変ではあるが、色んなことが経験できるのがビジネスホテルで働く大きな魅力だと言えるだろう。
 そんな中で、果恵は団体予約の打ち合わせから受け入れ準備までの一切を受け持っていた。
「新規でスポーツ団体の予約が入ったからまた確認しといて」
「分かりました」
 営業がとってきた予約を管理するのが、果恵の仕事だ。渡されたメモにざっと目を通すと、日程は三月になっていた。春休みは団体が多く、既に複数の予約が入っている。 今年も大変になりそうだなと心の内でそっと溜息をつくと、あとで事務処理をする為にメモをクリアファイルに挟んでデスクの上に置いた。

 事務所からフロントに出た瞬間、果恵はエレベーターを降りてこちらに向かって歩いて来る宿泊客と目が合った。 チェックインの時と同じく黒のキャリーケースを引いたその人は、真っ直ぐに彼女が立つカウンターにやって来る。 現在フロントに立っているのは菜乃花と夜勤明けの内藤のふたりだが、ふたりとも接客中なので今空いているのは果恵が立つカウンターのみだ。
「チェックアウトお願いします」
 そう言うと、聡はルームキーを差し出した。いつもの笑顔を貼り付け、かしこまりましたと鍵を受け取る。手早く追加料金が発生していないかを確認し、事前に準備していた領収書を差し出した。
「追加のご精算はございません。ご利用の領収書でございます」
 ありがとうと言いながら領収書を財布にしまう聡の顔をちらりと眺めながら、彼はまた来ることがあるのだろうかと果恵は思った。常連客が多いホテル・ボヤージュだが、もちろん一見の客もたくさんいる。
「ありがとうございました。またお越し下さいませ」
 自分は同じ中学の同級生なのだと、一瞬、目の前の人物に声をかけてみようかという思いが頭をよぎった。 けれども、思い出せずに戸惑った表情を見せられることを想像すると恐くて、そんな考えは思い浮かんだその瞬間に消え去ってしまう。
 結局、他の客にかけるのと同じ言葉をかけ、同じ笑顔を浮かべて彼を見送った。

 キャリーケースを引きながら、彼が歩き出す。ちょっと話してみたかったなと名残惜しい気持ちを感じながら、もう一度ありがとうございましたと去り行く背中に声をかけた。 その瞬間、自動ドアに向かっていた聡がぴたりと足を止めた。そしてくるりと向き直ると、つかつかとフロントカウンターに戻って来る。
 忘れ物でもしたのだろうか。果恵がそう尋ねようとするよりも早く、彼が意を決したように言葉を発した。
「あの、つかぬことを聞きますが、港中出身の佐々木さんですよね?」
 思いもよらぬ質問に驚いた果恵は、聡の問いに答えることもできず固まっていた。
「やっぱり、覚えてないか。三年の時に同じクラスだったんだけど……」
 果恵の様子に忘れられていると思った聡が、きまり悪そうにぼそぼそと説明する。それを聞いて我に返った果恵は、慌てて弁解した。
「違います。ちゃんと覚えてます。三年五組で一緒だった筒井くんだって!」
 まさか彼が気づいていたなんて。驚きと、何とも言えない嬉しさが湧きあがってくる。きっと彼も果恵と同様に、声をかけようか悩んでいたのだろう。
「良かった、覚えていてくれて。忘れられているかと思った」
「お久しぶりです。こちらには出張で?」
「はい」

 一瞬懐かしさで盛り上がったけれど、当時殆ど話したことのないふたりの間にはすぐに微妙な間ができてしまった。 フロントカウンターを挟むと、同級生とは言え思わず接客用の丁寧語になってしまい、余計にぎこちない会話になってしまう。
「じゃあ、また来ると思うのでその時はよろしく」
「お待ちしております」
 そう言って微かに笑みを浮かべた聡は、今度こそ自動ドアの向こうに消えて行った。
 また来てくれるんだ。最後の彼の言葉に、果恵はそわそわと浮き立つような気持ちを感じていた。



* * *   * * *   * * *



「最近何か良いことあった?」
 水曜日の午後のカフェは、穏やかな時間が流れている。目の前に座る郁子は、いつものようにそう尋ねてきた。郁子の言う‘良こと’とは、‘良い人と出会う’という意味だ。
「あるわけないでしょ」
「ふうん」
 果恵の返事に短く返すと、郁子はカフェオレに口をつけた。
 郁子とは中学時代からの付き合いだ。佐々木と柴田で席が前後していた為、入学してはじめてできた友達が郁子だった。 その後も腐れ縁が続いて結局三年間ずっと同じクラスとなり、卒業後に別の進路を歩んでも付き合いは現在に至るまで続いている。
「あー、癒しが欲しい」
「フットマッサージ行ったじゃん」
「精神的な癒しが欲しいの!」
 郁子は地元の病院で医療事務の仕事をしている。土曜日出勤する代わりに月に何度か平日が休みになるので、果恵のシフトと合えばランチに行くのだ。 以前は日帰りでドライブしたりショッピングで歩き回ったりしていたが、最近はランチを食べてそのままお茶することが多い。
 今日は郁子が見つけてきた割引クーポンを使ってリラクゼーションサロンで三十分間のフットマッサージを受けてから、カフェでランチとデザートを楽しんでいる。 アクティブだった二十代を振り返りながら、癒しばかりを求めるようになったのはいつ頃だろうかと果恵はふと考えた。

「ちょっと前までは、刺激が欲しいって言ってたのにね」
「お年寄りと接するだけの毎日なんだから、少しくらい刺激が欲しくなるのは当然でしょ?」
「でも、今は癒しが欲しいんだよね?」
「もうさ、新年早々地獄だったの。毎日残業続きで、何か癒しがないと働けません」
 どうやら職場でインフルエンザが大流行したらしく、感染しなかった郁子は休んだ人の分まで働いて大変だったようだ。 毎年、職員全員が予防接種を受けさせられるらしいが、職場が職場だけに感染の確率は高いのだろう。
「ホテルは良いよね。スーツをびしっと着こなしたビジネスマンとかさ、癒しがいっぱいありそうじゃん。うちは逆に、癒してあげないといけない人しか来ないからさ」 
「治癒的な意味でね」
「そうそう!」
 そう言うと、ふたりけらけらと声を上げて笑った。仕事の愚痴が増えても、フットワークが鈍くなっても、他愛のないことで笑えることだけは十代の頃から変わらない。 ひとしきり笑うと、果恵は運ばれてきたばかりのガトーショコラにフォークを入れた。

「郁がどんなの想像してるか知らないけど、ドラマに出てくるようなビジネスマンなんてそうそういないよ」
 そう言いながら、果恵は気の良さそうな常連のおじさま方の顔を思い浮かべた。
「でもさ、たまには目の保養になるような人もいるでしょ。うちの職場では、ときめきのかけらさえも見つからないからさ」
「ときめきって……」
 郁子の言葉に、果恵は思わず苦笑する。郁子は華やかな職場だと誤解しているようだが、果恵だって同じようなものだ。三十を過ぎてしまえば、そんな簡単に心がざわめくこともない。
 そう思った瞬間、果恵はつい最近心が騒いだことを思い出した。いや、騒いだというよりも、単に懐かしさで少しだけ心が弾んだだけなのだけれど。

「そう言えばさ、中三の時に同じクラスだった筒井くんって覚えてる? この前うちのホテルに宿泊に来て、びっくりしたんだけど」
「筒井……。ああ、遅刻魔の筒井?」
 記憶を呼び起こそうと宙に視線を彷徨わせていた郁子は、けれども聡を形容するのに全く相応しくない語彙を選んできた。
「ちょっと待って、一体誰と勘違いしてるの? 筒井くんって、いつもテストでクラストップだった人だよ」
「え? いつも遅刻してたお調子者が筒井じゃなかったっけ?」
 毎日同じ教室で授業を受けていたというのに、十五年以上も時が経てば記憶ひとつ手繰り寄せるのもひと苦労だ。 先日見たばかりの卒業アルバムを頭の中で広げ、順に追っていると聡の隣にいたひとりの男子の顔が浮かぶ。
「それって、堤くんじゃない? ツツイじゃなくて、ツツミ」
「ああ、それだ。毎日呼び出しくらってたアホの堤!」
 苗字は似ているが、大人しい聡とは正反対に賑やかなクラスのムードメーカーだった人物の名前を果恵が挙げると、郁子がパンと両手を打って反応する。 ひとつ思い出せば数珠つなぎに忘れていた記憶が甦り、ふたりは懐かしい思い出話に花を咲かせた。

「でも、よく筒井のこと思い出せたね。わたしは会っても思い出せる自信が全くない」
「お客さんとして来てたからね。すれ違っただけとかなら、さすがに思い出せなかったよ」 
 面影が残っているとは言え、十代と三十代の顔は違う。 名前が確実に判明するシチュエーションで再会したから気づいたものの、そうでなければ思い出せずにもやもやしたままで終わっていただろう。
「名前が分かってもわたしは無理かも。だって、今も筒井に関する記憶がぼんやりしてるんだもん」
「大人しかったからね。でも、いつも試験ではクラストップで先生に名前呼ばれてたよ」
「頭良くて委員長とか生徒会長とかやってたならさすがに覚えてるんだけど、別にやってなかったよね?」
 委員長や生徒会長は成績順に選ばれるわけではないので、聡よりも席次が下でもリーダーシップに長けた生徒が就いていた。控えめな聡が注目を浴びるのは、テストが返却される時くらいだった。
「五教科すべてが良い点数だったから、わたしの中では結構印象に残ってるかなあ」
「果恵だって良い点数とってたじゃん」
「わたしは得意教科と苦手教科の差が激しかったもん。だから、理系でも文系でもトップレベルの点数をとる筒井くんが羨ましくてさ」

「好きだったの?」
「はあ?」
 テストの点数に一喜一憂していた時代を懐かしんでいた果恵に対し、いきなり郁子が爆弾を仕掛けてくる。ガトーショコラを思わず吹きそうになりながら、果恵は呆れた顔で郁子を見つめ返した。
「やっぱ記憶に残るのって、イケメンかお調子者かスポーツマンでしょ。関わりが無かったわりに、やけに果恵は筒井のことを覚えてるみたいだから、もしや淡い想いを抱いてたんじゃなかろうかと思ってね」
「違います」
 にやにやと笑う郁子に対し、果恵はきっぱりと言い放った。
「彼に抱いていたのはライバル心。あっちはわたしのことなんて意識してなかったと思うけど、得意教科くらいは勝ってやるっていつもメラメラ燃えてたの」
「はあ?」
 今度は郁子が呆れた表情で果恵を見つめる番だった。誰にも言ったことはなかったけれど、それは事実だ。 文系科目ではそこそこの点数がとれた果恵だったが理系はいつも苦戦していて、苦手科目の無い聡に対して一方的なライバル心を抱いていたのは若さ故だろう。
「知ってたけど、あんた中学時代から色気なさすぎ。そりゃあ彼氏もできないって」
「失礼な。わたしはその気になればいつでもできるけど、そうなると郁が寂しいかなと思って、郁ちゃんに彼氏ができるまで待ってあげてるの」
「えー、果恵優しい! って、あんた失礼だな。そんな見え透いた言い訳してないで、できるもんならさっさと彼氏つくって結婚しろ」
 店内が空いているのを良いことに、三十路女ふたりがお洒落なカフェできゃいきゃいと騒ぐ。 気のおけない友と過ごす時間は心地よくて、そんな時間を自由にとれる気楽な独身生活にどっぷりと浸かっていること自覚しながらも、それを手放す気はなかった。

 


2013/03/19 


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