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イトコ



 無神経の代償 3


 始業式の翌日は実力テストだ。一学期の授業内容の習熟度をはかる為に、一年生は英国数の三教科の試験が行われる。
 夏休みには当然宿題が出されていたので全く勉強しなかったわけでは無いが、長い休みが続くと気持ちがだれてしまって集中力が持続しない。 三科目の試験を終えた頃には、教室中に疲労感が漂っていた。
 とりあえず埋めた解答用紙を提出すると、志穂子はのろのろと筆記用具をしまって立ち上がる。 試験の時は出席番号順に座らなければならないが、午後はロングホームルームなので元の席に戻ることになっている。本来の席に鞄を置くと、志穂子はちらりと後ろを見やった。

 昨日から、美奈とは話をしていない。恵が事情を説明するとは言ってくれたが、自分の口からもきちんと伝えるべきだろう。 朝一番で謝ろうと思っていたが、美奈が登校して来たのは予鈴とほぼ同時だった。そのまま試験が始まり、声をかけるタイミングを失っていたのだ。
 志穂子が意を決して美奈の席に近づくと、それに気づいた美奈が立ち上がった。
「……美奈」
「ごめん、今日は学食でお昼食べるから」
 志穂子から目を逸らして早口でそう言うと、美奈は慌ただしく鞄から財布を取り出して教室を出て行く。 申し訳なさそうな表情で恵が志穂子に視線をやりながら、けれども何も言わず、先を行く美奈を追いかけて行ってしまった。

 試験を終えて解放感に溢れている教室の中で、志穂子はぽつんとひとり取り残されていた。
 志穂子の通う高校には学食が設けられていたが、いつも混み合っているので基本的に三人ともお弁当を持参していた。 たまにお弁当が無い日は購買や学食に行くこともあったけれど、そんな時は弁当箱を持って志穂子も食堂に行くので、昼食は必ず一緒にとっていたのだ。
 賑やかな昼休みの教室では、お弁当派の生徒たちが既に机を寄せ合って昼食を始めている。 志穂子は自分の席に戻ると鞄の中から母が作ってくれた弁当を取り出し、そっと教室の外に出た。




 久しぶりに訪れた特別棟の裏のベンチには、相変わらず校舎内の喧騒が嘘のように静寂が広がっていた。 一学期の間、毎朝訪れていたその場所に、志穂子はそっと腰かける。
 見上げると、濃い緑の葉の隙間から、夏の終わりの太陽が放つ強い光がきらきらと差し込んでいた。九月に入っても相変わらず気温は高く、日差しもきつい。 けれども、あれだけ毎日のように鳴き続けていた蝉は九月に入った途端に何処かへ行ってしまったようで、志穂子の周りで聞こえるのは時折吹く風がおこす葉擦れの音だけだった。
 やがてのろのろと、志穂子は弁当箱の蓋を開ける。食欲はあまり無かった。大きな溜息をひとつつくと、志穂子は卵焼きを口に入れた。 いつもは美味しいと思う母自慢の卵焼きは味がせず、まるで義務のようにただ咀嚼した。
(どうしてこんなことになったんだろう……)
 まるで被害者のように、そう呟いてみる。けれども、もう志穂子は気づいていた。あの教室の中に志穂子の居場所が無いことに。いや、居場所を作ろうとしてこなかったことに……。

 知り合いがいない高校生活は不安で、よく知らない人と家族になることも不安で、志穂子はとにかく早く何処かに自分の居場所が欲しかった。 だから入学後すぐに、たまたま近くの席になった恵に話しかけられた時は心底ほっとしたものだ。
 中学卒業と同時に引っ越して知人がいないという志穂子を、親友同士の恵と美奈はあっさりと受け入れてくれた。それで志穂子は居場所ができたと思っていたのだ。 他のクラスメイトとはろくに関わることもせず、もうそれで満足していた。クラスで浮きたくは無かった。目立たないように、何処かに属していたかった。 ミーハーなふたりにたまに呆れながらも、それでも居心地は悪くなかった。
 箸箱に箸をしまうと、志穂子は弁当箱の蓋をそっと閉める。中にはまだ半分ほど残っていたが、もうこれ以上は食べられそうになかった。

 ―― 志穂は愛想笑いで誤魔化すからちょっと分かりにくいのよ。
 ―― 他の人に壁作ってるように感じられたら困るなってちょっと心配してたんだ。

 千明に高校で馴染めているか心配された時は、不思議に思ったものだ。それくらいの社交性は持ち合わせていると思っていた。 けれども違う。自分は友達の顔をしながら、恵と美奈に少しも心を許していなかったのだ。そして今に至るまで、そのことにすら気づけていなかった。

 ―― 志穂が大変だったのは分かったし、わたしたちに言いづらかったのも分かった。
     けど、それでも友達なら言って欲しかったとわたしは思うよ。

 鼓膜の向こう側で、昨日の恵の声が響く。千明が心配していたのは、このことだったんだ。そう思うと、志穂子は情けなくなった。
 二学期から何かが変わると感じた予感は、皮肉にも別の意味で当たっていた。




 志穂子が教室へ戻ると、昼休みの終了間際で殆どの生徒が既に戻って来ていた。あちらこちらで人の輪ができ、楽しそうに笑い合う声が聞こえる。 誰も志穂子が戻って来たことに気づいていないようだ。そもそも、昼休みに志穂子がひとりで出て行ったことにも気づかれていないのかも知れない。
 本当は、楽しそうに笑っている輪の中に入って何を話してるのと声をかければ良いのだろう。楽しそうだねと、笑いかければ良いのだろう。 けれどもそれは、あまりにも都合が良すぎると志穂子は思った。今までは挨拶を交わすくらいのうわべだけのやりとりで、深く分かりあう努力は避けてきたくせに、何を今更と思われるのが恥ずかしかった。
 壁を作りながらひとりになりたくないだなんて、何と自分は身勝手なんだろう。できるだけ気配を消して自分の席につくと、志穂子は自嘲気味に口元を歪めて小さく笑った。

 午後のロングホームルームの議題は、十月最後の日曜日に行われる文化祭についてだった。委員長と副委員長が教壇に立ち、簡単なスケジュールを説明している。
「じゃあ、まずは文化祭実行委員を二名決めたいと思います。誰か立候補者はいませんか?」
 委員長が教室を見回すと、クラス中が一斉に俯いた。志穂子もそっと目を逸らす。
「誰も立候補者がいなければ、現在何かの委員になってる人以外から、公平にくじ引きで決めたいと思いますけど良いですか?」
「いいですよー」
 体育委員の男子生徒が、自分は関係ないとばかりに無責任に即答する。現在どの委員にも属していない生徒たちは盛大に溜息をついてみるものの、反論の余地は無い。 最初からくじ引きになると思っていたのだろう。副委員長が予め用意していたくじの入った袋をふたつ取り出すと、男女別にくじを引くように指示をした。

 入学直後に各委員を決めた時のくじ引きは上手く免れ、現在何も委員に入っていない志穂子も袋に手を伸ばす。一番最初に指先に触れたくじを引くと、そっと開いた。 もちろん志穂子も絶対にやりたくないと思っていたが、何となく大丈夫な気がしていた。確率で言うと、一割にも満たないのだ。
 けれども志穂子が開いた白い四角の紙切れには、中央に大きく ‘あたり’ と書かれていた。ご丁寧に、ピンクのハートで文字を囲っている。無理だ。 絶望に似た気持ちで、志穂子はくじを手にしたまま固まってしまった。こんな状態で、クラスを仕切ることなんてできる筈がない。
「あ、藤原さんあたりだ」
 隣に立っていた女子生徒が、志穂子の手元を覗きこんで声をあげる。
「良かったー。藤原さん、ファイト!」
「てゆか、これハート書いてるよ。こっちはドキドキしてるのに、悪趣味!」
 先程までは全員が緊張した表情をしていたのに、自分じゃないと分かった瞬間に笑顔が零れる。きゃっきゃとはしゃぎながら、友達同士で胸をなでおろし、志穂子を励ましたりしている。 憂鬱な気持ちであたりくじを小さく折りたたみながら掌で握り潰していると、男子グループからも歓声が上がった。どうやら、あちらでも決定したらしい。

「ちょ、マジ俺は無理だって!」
 あたりくじを引いたと思われる男子生徒が、懇願するように声をあげた。
「そんなこと言ったって、公平にくじを引いた結果なんだから仕方ないだろ」
「でも、部活忙しいんだよ。秋は練習試合多くて、委員会とか出てる暇無いんだ」
 何部に属しているのだろうか。志穂子は知らないが、余程練習が厳しい部活に所属しているのだろう。男子生徒は必死だった。
「じゃあ、他の奴にやれって言うのか? おまえがあたり引いたくせに、それはちょっと勝手だろ!?」
「分かってる。でも、こっちだってレギュラー獲りがかかってるんだよ!」

「先生」
 険悪な空気が広がり始めた教室で、誰かが静かに声をあげた。
「何だ、大宮?」
 窓にもたれ、生徒たちが言い争う様子を黙って見ていた担任教諭がのんびりとした声を発する。呼びかけたのは、志乃だった。
「先生、各クラス二名というのは、絶対に男女二名じゃないと駄目なんですか?」
「はあ?」
 予想外の質問だったのだろう。担任は面食らった顔をして、そして困ったように顎の辺りを撫でた。
「いや、まあ、絶対に男女二名という決まりは無いが……」
 いつの間にか教室中が黙りこみ、今後の展開がどうなるのか志乃に注目する。
「じゃあ、別に女子二名でも問題は無いんですよね?」
 志穂子は思わず目を瞬いた。一体、志乃は何を言い出すのだろうか。
「まあ、そうだが……。けどな大宮、やはり男女二名の方がバランスが良いと思うんだ。女子だけなら重い物を運ぶ時とか、色々困るだろう?」
「別に文化祭実行委員だけが働くわけじゃないんでしょ? 委員は代表して取りまとめるだけで、準備はクラス全員でやるんですよね?」
 それは先程、委員長が説明した文化祭実行委員の仕事内容だった。担任は、曖昧に頷く。
「じゃあ、わたしが藤原さんとやります。力仕事が必要になる時くらいは、あんた手伝ってくれるわよね?」
 あたりくじを引いた男子生徒に、志乃が問いかける。先程まで絶望していた件の男子生徒は、志乃の言葉にまるで救い主を見るような表情を浮かべ、そして力いっぱい頷いた。

「決まりー!!」
「じゃあ、次は出し物決めようぜ」
 先程までの険悪な空気が嘘のように、クラス中が活気づく。誰だって、自分が面倒な役回りから逃れられたらそれで良い。志乃がやると言ってるのだから、誰も反対する理由など無いのだ。
「と言うことで、文化祭実行委員は大宮さんと藤原さんに決定しました。では続いて、クラスの出し物を決めたいと思います」
 委員長が出し物について説明を始めると、副委員長が黒板に何やら書き出している。 高校に入ってはじめての文化祭に向けて浮足立つ教室の中で、志穂子はちらりと志乃の方を見やった。 同じくこちらを見ていた志乃と目が合う。にこりと微笑んだ志乃に対し、戸惑いながら志穂子もぎこちなく笑みを返した。

 


2012/01/28 


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