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散らない日葵



番外編  膨らむ蕾、すなわち春はもうすぐ


「えー!? あれってそういうことですよね?」
「やっぱりふたりは付き合ってるんですか!?」

 わたしの同期であり親友である矢野律子と、上司の辻内課長が姿を消したのち。残された者たちは状況についてゆけずぽかんと顔を見合わせ、やがて我に返ると興奮気味にまくしたてた。
「付き合ってないと思うよ、まだ」
 彼女と同じ職場で働いた年数は他の人たちより短くとも、付き合いが一番長いのは同期のわたしだ。だから疑問の矛先は必然的にわたしに向けられ、俄然テンションの上がった面々はワイドショーのレポーターさながらの質問をぶつけてくる。だけど不器用で生真面目な友人は恋心をひた隠しにしており、ふたりの関係に変化があったとは到底思えなかった。
「まだと言うことは、閉館してから付き合うんですか?」
「うわー、どんだけ真面目なんだよ……」
 ふたりが相思相愛であることはどうやら決定事項らしい。何故か当人は実らぬ片想いだと決めつけているようだったが、傍から見れば、互いの気持ちに上司と部下以上の感情が滲んでいるのは何となく感じられるものだ。
「きゃー、いつから好きなんだろう。もしかして新入社員の頃からですかね?」
 いかにも恋バナが好きそうな浜ちゃんが、そう尋ねてくる。
「さあね。わたしもちゃんと聞いたことがないのよ。だから本当のところは、何も知らないの」

 それは半分本当で、半分は嘘だ。
 同期入社のわたしたちは、配属先は違ったものの定期的に飲みに行っていた。そこでいつも律子から聞かされたのは、指導担当の先輩がどれだけ仕事ができるかということで、自分も早く彼のようなホテルマンになりたいということだった。だけど彼女がその先輩のことを語る顔はどう見ても恋をする乙女のそれで、だからわたしは好きなんでしょうとよくからかったものだ。
 自分の気持ちをようやく自覚したのか、はたまたわたしの追及に屈したのか。やがて彼女は彼への想いを認めた。一旦白状したら開き直ったようで、以降は酔うと延々と彼の魅力を語るようになり、いつか彼女になりたいと口にするようになった。ある意味、そうやって密かに両想いになる夢をみている時間が一番幸せなのかも知れない。まだ若かったわたしたちは、恋人になったらどこにデートに行きたいかとか、誕生日には何をプレゼントしたいかとか、そんな妄想をしてはきゃっきゃと喜んでいたのだ。

 けれど、家族でも恋人でもないふたりが毎日会えるのは決して当たり前のことではない。突然、彼が福岡に転勤になったのだ。
 入社以来ずっと同じ職場で働いていたその人と離れ離れになってしまい、律子は随分と落ち込んでいた。いや、当人はそう見せないように普通に振る舞っていて、他の人には気づかれていなかったかも知れないが、彼女の想いを知っていたわたしには痛々しく見えた。
 だからわたしは、告白すれば良かったのにと、内心で意気地のない律子を詰った。当時のわたしはまだ若かったこともあり、想い続ければ報われると信じているお花畑なところがあって、律子の大好きな先輩には会ったことすらないくせに彼女の想いは叶うと決めつけていたのだ。ちょうどわたしには好きな人ができて、今の旦那だけれども、彼に勇気を出して告白して上手くいっていたこともあり、同じ関係に留まり続けている律子のことを歯がゆく感じていたのだ。

 ――告げさせては、もらえなかったのよ。

 本当はわたしが知らないだけで、あの頃ふたりには何かがあった。そしてわたしは、そんなことも知らずに何度も律子のことを煽っていて、きっと傷つけたと思うと若かりし頃の自分の無神経さに恥ずかしくなる。
 だけど、当事者じゃなくても分かることはある。当事者じゃないから、気づくことがあるのだ。



「よう、久しぶり」
 琥珀色の液体が入ったジョッキを握り締め、わたしが物思いにふけっていると、のんびりとした口調でちょっぴり懐かしい人物が登場した。
「あっ、寺本マネージャーだ」
「マネージャー、どうもお久しぶりです」
 辻内課長と律子が立ち去り、ふたりの行く末が気になって仕方のない面々の異様な空気の中に現れたのは、昨年末に退職した寺本マネージャーだった。本社の桐谷課長と同期ということなので一応声をかけていたのだが、先程の展開ですっかりそのことを忘れていた。
「えっ、何。この空気……」
 どうやら空気の読めないことが多々あったこの人でも気づくくらいに、その場にいた全員が気もそぞろだったようだ。自分は招かれざる客だったのかと勘違いし始めそうだったので、わたしは慌ててかつての上司にドリンクメニューを差し出した。
「お疲れさまです。どうですか、新しい職場は?」
「開業したばかりだからオペレーションも固まってないし、経験の浅いスタッフ中心だからバタバタしてるかな。辻内や矢野のようなベテランがもうひとりいれば違うんだろうけどさ」
 タイムリーに飛び出してきた名前に、皆が面白いくらいに反応する。とりあえずわたしは店員さんを呼んで、寺本マネージャーに生ビールを注文した。

「そう言えば、辻内も矢野も今日はシフトか?」
「ふたりともさっきまでいたんだけど、壮吾が矢野を攫って行ったわ」
 おしぼりで手を拭きながらのんびりと尋ねてきた寺本マネージャーに、とんでもない答を返したのは桐谷課長だ。
「おお、冴子じゃん。久しぶり」
「よっ! 寺本くん、元気そうだね」
 そこでやっと桐谷課長の存在に気づいた寺本マネージャーが、久しぶりに会った同期同士の挨拶を交わす。いや、数年ぶりの再会だろうけど、そうじゃなくて。恐らくその場にいた全員が心の中でツッコミを入れたと思われるが、たっぷり五秒おいて、ようやくマイペースな寺本マネージャーは反応した。
「ちょっと待て。矢野が攫われたってどういうこと!?」
「寺本くん、相変わらずだねえ」
 しみじみしている桐谷課長をよそに、浜ちゃんが堰を切ったように先程の経緯を説明する。恋バナ大好きの彼女は、うずうずして我慢できなかったようだ。

「辻内は独占欲強そうだけど、よくここまで我慢したよなあ……」
 いや、ただヘタレてただけか。寺本マネージャーがにやにやとひとりごちると、浜ちゃんがすかさず食いついた。
「寺本マネージャー。そこらへん、もっと詳しく!」
「浜崎、おまえ生き生きしてるな」
「当たり前じゃないですか。わたしずっと、ふたりはお似合いだと思っていたんですから!」
 浜ちゃんの勢いに寺本マネージャーの方は若干引き気味だが、彼女はお構いなしに熱弁をふるう。他の面々も寺本マネージャーの発言に興味津々なようで、前のめりな浜ちゃんを面白がって見守る態勢に入っている。
「詳しくと言われても、別におっさん同士で恋バナするわけじゃないから何も知らないぞ。ただ、俺が矢野と喋っていたら、辻内がご機嫌斜めになるだけさ」
 ちょうどアスパラベーコンを口に放り込んだわたしは、予想以上の残念エピソードに思わずむせそうになる。一瞬皆が絶句し、次の瞬間どっと沸いた。
「うわー! 辻内課長、余裕ねえー」
「可愛い。中学生の初恋じゃん」
「休憩室で矢野と仕事の話していたら、たまたま辻内が入って来てさ。ほら、矢野っていつもチョコ持ってるだろう? 俺が夜勤明けで残業だったからチョコくれたんだけど、それ見てあいつめっちゃ機嫌悪くなってさ」
 おっかなくなってすぐに退散したよ。寺本マネージャーの飄々とした話し方も相まって、皆ひいひいとお腹を抱えて笑い転げた。

 わたしが知っているのは、律子が辻内課長のことを一途に想い続けていること。ただそれだけだ。辻内課長の気持ちは知らないし、ふたりに以前何があったのかも知らない。だけど辻内課長からは、律子のことを特別に思っているというのが漏れ出ているのだ。
 そこにはもちろん、かつて自分がOJTに就いていたという思い入れもあるだろうし、仕事のできる部下という信頼感も含まれているだろう。だけど時折、本当に愛しそうに律子のことを見つめるのだ。軽口を叩き合って、そんな気安い関係に優越感を覚えているような、そんな表情を見せることもある。
 当事者は気づきにくいものなのか、それともわたしが知らない過去の出来事に縛られているのか。はたまた、あのふたりが鈍感すぎるのか。
 それにしても、妻子持ちの先輩にやきもち焼くなんて、余裕がなさすぎやしないだろうか。向こう十年はこのネタでいじれそうだと、わたしは肩を震わせた。

「でも矢野さんの方は、やきもち焼かれていることに絶対気づいてないですよ」
 ようやく笑いが収まった頃、それまで黙っていた滝くんがぼそりと呟いた。
「寝起きで不機嫌なのかなあとか、下手したら不機嫌なことにも気づいてなさそうですよね」
 そう言葉を繋いで、くつくつと肩を揺らす。彼が指摘するとおり、不機嫌な辻内課長と不機嫌の理由が自分にあるとは思いもよらない律子のやりとりは、容易に想像ができてしまう。そんなふたりだから、傍から見ていてじれったいくらいに進展しないのだろう。
「辻内課長って仕事できるくせに、矢野さんのことになると残念な人になりますからね。面白いから、辻内課長の前でよく矢野さんの話題を出しましたけど」
「滝、おまえ勇気あるなあ……」
 黒い笑みを見せる滝くんに、寺本マネージャーが感嘆の声を漏らす。ここの職場の男共はアホばかりかと、少し頭が痛くなってきた。
「矢野さんとフロント一緒になった時の雑談の内容を、辻内課長と夜勤に入った時にわざと持ち出すんです。この前映画行ったらしいですよ、とかね。辻内課長は矢野さんのことを色々知れるし、俺は課長の反応を見て楽しめるし、ウィンウィンでしょ?」
「いや、ウィンウィンでしょってアンタ……」
 いじりがいのある辻内課長のことはわたしも飲みの席などで滝くんと一緒になっておもちゃにしていたが、彼は更に上級者だったようだ。何それ超楽しそうという気持ちに、ちょっとだけ辻内課長に対して同情心が湧いてくる。
「そんなにも矢野さんのこと好きなくせに。ホテルが閉館になれば上司と部下の関係も終わってしまうのに。あの人俺たちの心配ばっかしてるんですよね。俺たちの再就職先の斡旋に奔走するばかりじゃなくて、自分の恋愛も頑張って欲しいですよ」
 まったく困った上司だ。そう言って笑う滝くんの言葉はいつもと同じく皮肉めいているのに、上司に対する尊敬と心配が滲んでいて、わたしは心の底から共感した。三月で職を失うことが確定しているわたしたちの為にやきもち焼きの上司は、知り合いの同業者たちに求人があれば知らせて欲しいと声をかけてくれていた。実際、今日ここにいる野田さんと福島さんと浜ちゃんは、辻内課長の紹介で面接を受けて転職先を決めたのだ。わたしは子供のこともあるのでじっくり探すつもりで、滝くんはワーホリに出ると決めているらしい。だからわたしたち部下はもう大丈夫なので、次は自分のことを頑張って欲しいと、それがここにいる全員の願いだった。

「上手くいって欲しいなあ。律子さんには、絶対幸せになって欲しい」
「大丈夫だよ。律子さんが泣きながら帰ろうとした時、辻内課長ちゃんとカッコ良かったもん」
 浜ちゃんの呟きに、三宅ちゃんが応える。このふたりはどこまでも律子のことを慕っていて、そんな風に後輩に思われる律子のことが羨ましくあり、同期として誇らしくもある。
「うん、ちゃんとカッコ良かったな」
「ああ。やきもち焼きなのかもだけど、今日はちゃんとカッコ良かった」
 野田さんと福島さんは、ちゃんとカッコ良いというフレーズが気に入ったようで、うんうんと頷きながら繰り返す。そんな風に茶化してみたものの、泣いている律子に反応した速さも、拒まれても送ると言った強引さも、見ている方がちょっとどきどきするくらいにちゃんとカッコ良かったのだ。
「ところで、矢野はなんで泣いたんだ?」
 上手くいって欲しい。そんな全員の願いの中で、ふと寺本マネージャーが思い出したように疑問を口にする。それは席が離れていたわたしも気になっていて、あとで三宅ちゃんにでもそっと尋ねようと思っていたのだけれど、寺本マネージャーが安定のマイペースぶりでそう尋ねた。

「正直、わたしたちにもよく分からなくて……」
 少し戸惑ったように三宅ちゃんと浜ちゃんは顔を見合わせると、そう前置きをして先程の会話の内容を説明する。
「わたしが、以前律子さんに言われた言葉のお陰でフロントの仕事にやりがいを感じるようになったと伝えたんです。ホテルは二十四時間常に稼働しているから、良いサービスを提供するにはひとりだけの頑張りではどうにもならない。些細なことでもきちんと引継ぎをして、お客様に関する情報をスタッフ全員が同じように共有できるホテルこそが良いホテルなのだと」
「そうしたら律子さん、嬉しいって。その言葉で入社を決めて、ずっと大事にしていた言葉だから嬉しいって……」
 それは、昔から律子がよく口にしていた言葉だ。ホテルで働く上で大切なことを伝えているその言葉は、わたしも聞かされた時になるほどと納得したのでよく覚えている。それが誰の言葉かまでは言っていなかったけれど、恐らく彼女の敬愛する教官の言葉なのだろうと推測していた。だけど、それで律子はソレイユへの入社を決めたのだとすれば、辻内課長の言葉ではない誰かのものなのだろう。

「いやあ、壮吾は幸せ者だね! 矢野の想いは筋金入りだ」
 不意に、桐谷課長が声をあげて笑い出す。一体どういうことだと顔を見合わせるわたしたちをよそに、桐谷課長はその見かけによらない豪快さでビールを呷った。
「その言葉、壮吾が言ってたのよ」
 やがて空になったジョッキをどんとテーブルに置くと、桐谷課長はきっぱりとそう言い切った。
「矢野の代の会社説明会で、先輩社員として出席したのが壮吾だったの。若い頃のあの子は結構熱くてさ。良いホテルマンの条件とは何ぞやとかをよく考えていて、さっき浜崎さんが言ってた内容をよく口にしていたわ。それを学生の前でも語って、確か本社人事の人に良いスピーチだったと褒められたとか言って得意げにしてたなあ」
「そうだったっけ?」
 覚えてないかと桐谷課長に尋ねられ、寺本マネージャーはまったく覚えていないと首を横に振った。それはそうだろう。だって十年以上も前の話なのだから。
「わたしも参加していた筈ですけど、全然覚えてません」
「そっか、越野さんは矢野と同期入社だったね」
 先輩社員が男性と女性ひとりずつ登壇し、日勤と夜勤の業務内容をかいつまんで話してくれた記憶はうっすらと残っている。けれどもそれは今の越野課長の説明でからかろうじて思い出しただけで、当時でさえも、様々な企業の説明会を回っていたのでその内容は混同していた筈だ。
「次の新卒のOJTは壮吾に任せるから、説明会に出てこいと支配人に命じられてね。はりきって説明会に出席して、はりきって新人を指導して。真面目な良い子が入社したとわたしたちが矢野を褒めていたら、きっと自分の説明会でのスピーチを聞いてソレイユに決めた筈だから、俺に感謝してくださいよと調子こいてたけど。まさか壮吾のあの冗談が本当だったとはね」

 そんなにも、そんなにも長くあの人を想い続けていたのか。わたしは親友の一途さに、呆れてしまった。
「……馬鹿ね」
 ひたすらにずっと想われているのに、やきもちを焼いている男はいっそ滑稽ですらある。過去に何があったか知らないが、いい加減さっさとくっついて幸せになれば良い。飲んで食べて既にお腹がいっぱいなのだが、ついでに胸もいっぱいになってわたしは長い長い溜息を吐いた。

「ねえ。ふたりの長い冬が終わったか、賭けない?」
 満腹感を感じているのはわたしだけではないようで、目をきらきらと輝かせている浜ちゃん以外は全員が脱力している。そんな中で、桐谷課長が右の口角をにやりと上げてそう提案した。
「それはさすがに、賭けにならないんじゃないですか?」
「いやいや、意外と辻内課長がヘタレ発動したりして」
「追いかけて家まで送って終わりとか? ちょっと辻内課長、男見せてくださいよ!」
 いい感じにアルコールが回った酔っ払いたちが、好き勝手に騒ぐ。何だかんだ言いながら結局はみんな冬の終わりを確信していて、三宅ちゃんが言うとおり賭けは成立しそうにない。そんな中、千円札を取り出した滝くんが言い放った。
「俺は年内結婚で」
 おおう、と一同どよめく。ふたりの想いが成就するのはもはや決定事項で、いつ結婚するかという賭けの方が異様に盛り上がってしまい、結局わたしたちはそのあとも終電まで騒ぎ続けたのだった。

     ***

 結論から言うと、その賭けは不成立となった。籍を入れる時点とするか式を挙げる時点とするのか、そこをしっかり詰めていなかったからだ。
 想いを告げるのにあんなにも長い時間を要しておきながら、結婚までの時間は一瞬だ。長い片想い期間に終止符を打つと同時にふたりは同棲を始め、年内にはもう籍を入れてしまったのだから。結婚式は準備期間が必要なので翌年になったのだけれど、それを考慮して翌年と賭けた女性陣と、一旦自分のものになったらさっさとゴールまで突っ走るだろうと予想して年内に賭けた男性陣と。どちらにせよ、幸せなふたりのゴールインは早かったということで全員正解だ。

 結婚式は、爽やかな風吹く初夏のとある吉日に、新郎の勤務先のホテルで執り行われた。咲き始めたばかりの向日葵を前に、幸せそうなふたりが永遠の愛を誓う。長い間その恋を見守ってきたわたしはかつての同僚たちとシャンパングラスを傾けつつ、頬が緩みっぱなしの師弟、もとい新郎新婦をからかい続けた。



2020/03/14

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