散らない向日葵
14. 追いかけた背中、逆に追いかけられていた背中
かつて同じホテルで働いていた大先輩が来館したことで唐突に企画された飲み会は、いつも律子たちが行きつけにしている居酒屋で夜七時にスタートした。一応冴子の上司である人事部長にも声をかけてみたものの、管理職がいると気を使うだろうと辞退されてしまった。恐らく律子らの上司である総支配人や部長と、安い居酒屋ではなくお高めの小料理屋にでも行くのだろう。
「では、我々の前途を祝して乾杯!!」
全員が揃ったところで、仕事が終わって息子を実家に預けて来た真理が、ジョッキを高々と掲げて乾杯の音頭を口にした。それを合図に皆が口々にお疲れさまと言いながら、ジョッキやグラスを合わせた。
「矢野に会うのは久しぶりだな。今日が八勤目だっけ? お疲れさん」
七時ちょうどに冴子と揃ってやって来た辻内は、空いていた律子の隣の席にどかりと座った。乾杯の音頭のあと、ごくごくと琥珀色の液体を旨そうに呷ると、そう言って部下である律子を労ってくれる。ぼんやりと喉仏が動くさまを眺めていた律子は、そっと目を逸らした。
「辻内課長こそ十連勤、お疲れさまでした」
「ああ、さすがに疲れたな。今日は夕方まで爆睡してた」
「わたしも明日は思う存分寝るつもりです」
そんな風に、軽い調子で他愛のない会話を繰り広げる。自分はいつもと変わらない様子に見えるだろうか。心の奥に不安が掠めた。すると向かいの席でふたりの会話を聞いていた冴子が、驚いたように声をあげた。
「十連勤て、そんなに人が足りていないの!?」
どうやら現場でインフルエンザが流行していたことは、冴子の耳には入っていなかったようだ。辻内が三人の感染者が出たことを説明すると、彼女はその整った顔に同情の色を浮かべた。
「うわあ、この状況でインフル発症か。それは大変だったね」
「さすがにピンチでした。でも、矢野や他のメンバーがかなり無理してくれたので、何とか乗り切れましたよ」
一番厳しいシフトだったのは辻内だったくせに、そんなことは微塵も見せない。部下が頑張ったのだと、彼はいつものようにそう言うのだ。
「何だか変な感じ。壮吾もちゃんと課長なんだね」
やがて小さく笑うと、感慨深げな口調で冴子がそう呟いた。
「仕事に関しては頼りになる上司ですけど、桐谷課長から見ると変な感じなんですか?」
冴子の言葉に反応した真理が、興味津々といった表情で尋ねてくる。するとその物言いに、すぐさま辻内が抗議した。
「おい越野、発言の訂正を要求する。俺はプライベートでも頼りになる男だぞ!」
「ええー、プライベートはただの甘いもの好きのおじさんじゃないですか」
「おじさんとは失敬な」
「すみません、十連勤の最後の方はおじいちゃんでした」
結局いつもの辻内がいじられるパターンだ。まるで漫才のような真理と辻内のやりとりに、その場にいたメンバーは声をあげて笑った。
「何だ、やっぱり壮吾は壮吾ね。安心したわ」
「それ、どういう意味ですか?」
どうやら後輩が変わっていないようだと分かり、冴子は安心したように頬を緩める。彼女の言葉に辻内は、拗ねたような表情を浮かべた。
律子から見れば、辻内は入社した時から頼りになる先輩だ。時に励まし、時に諭してくれる、ずっと理想としてきた上司だった。けれども冴子にとっては可愛い後輩であり、辻内もまた、彼女には気を許したような表情を見せるのだ。
(来なければ良かったな……)
トイレに行くと断りを入れて席を立った律子は、洗面所の鏡に映る自分の顔を見つめながらそうひとりごちた。八連勤の疲れがくっきりと出た顔には、帰りたいという文字が浮かんでいる。ふたりの仲良さげな様子を目の当たりにする覚悟はしていたけれど、ここに来る前に立ち聞きしてしまった会話に心が砕けているので、笑顔を保つことすらままならない。
気合を入れるようにぺちぺちと頬を叩くと、律子は大きく息を吐いた。せっかく皆で楽しく飲んでいるのに、つまらなそうな顔を見せてはいけない。気合を入れてフロントに立つ時の笑顔を貼り付けると、律子は扉を押して外に出た。
「あれ、律子さん。あちらの席に戻らなくて良いのですか?」
トイレから戻ると、一番手前の席が空いていたので律子はさりげなくそこに座った。隣の浜崎が不思議そうに尋ねてくる。
「うん、浜ちゃんと三宅ちゃんと喋ろうと思って」
そう答えると、後輩ふたりは嬉しそうな表情を見せた。彼女たちとゆっくり話をしたいというのは本当のことだけれど、辻内と冴子が話している様子を見ているのが辛いというのもまた本音だ。だから素直に喜びを表されると、律子はちくりと罪悪感を感じた。
「ねえ律子さん、桐谷課長の前だと辻内課長が可愛らしく見えますね?」
「もともと子供みたいなところがありますけど、何だかすごく甘えているみたい」
そう言って、浜崎と三宅が小声でくすくすと笑い合っている。どうやら彼女たちの目にもそのように映るらしい。
「寺本マネージャーも含めて、あの世代は特に仲が良くてね。わたしは年の離れた末っ子みたいなものだったから、先輩たちの関係がすごく羨ましかったな」
そう言って笑うと、律子はカシスオレンジを口にした。乾杯のビールは既に飲み干し、二杯目だ。奥の席では真理と滝が、冴子に色々と尋ねている。辻内が制止しようとしているので、きっと良からぬことを聞き出そうとしているのだろう。
「わたしは辻内課長と律子さんの関係に憧れていましたよ」
奥の席で繰り広げられている攻防戦を笑って眺めながら、やがて浜崎がそうぽつりと告白した。
「え?」
「律子さんは辻内課長のことを尊敬されていて、辻内課長は律子さんのことを信頼している。わたしも早く誰かに頼られる存在になりたいなと、ずっと憧れていました」
「ああ、それすごく分かる!」
浜崎の言葉に、三宅も同意する。思いもよらぬ後輩たちの言葉に、律子は大いに戸惑っていた。
「何よ、ふたりとも嬉しいこと言ってくれて。焼き鳥食べる?」
後輩からの予想もしなかった告白が照れくさくて、それと同時に鼻の奥がツンとするくらい嬉しくて、律子は照れ隠しに串盛り合わせがのった大皿を差し出した。お腹が空いているのだろう。ふたりは大皿に手を伸ばすと、旨そうに焼き鳥を食べながらビールを飲んだ。そんな可愛らしい後輩の姿を眺めながら、律子はカシスオレンジの入ったグラスを空にする。疲れのせいかいつもより酔いが回るのが早く、体がふわふわとしているが、嬉しい言葉を貰ったこともあり何だかそれが心地良かった。
「わたしはずっと、今の環境が変わるなんて考えたことがなかったんです。この二年間で色々教えていただきましたけど、まだまだ知らないことは山のようにあって。少しずつ成長しながらいつかは律子さんみたいになれたらと、密かに目標にしていたんです。なのに、いきなりホテルがなくなるとか言われて、そこではじめて皆と働くことは当たり前ではなかったのだと気づいたんです」
与えられた環境を、当たり前に感じていたのは律子も同じだ。失う時になって、それがどれだけ大切であったかに気づかされた。
「最初、社長から閉館の話をお聞きした時は、全然実感がなかったんです。でも、寺本マネージャーが年末で退職されると決まった時、本当に皆がバラバラになってしまうのだと急に怖くなって。あの時は、子供みたいに駄々をこねてしまってすみませんでした」
寺本が去ると知った時、浜崎は全員で閉館を見届けたいと言って泣いた。本人もそれが間違っていると知りながら、それでも彼女の中の不安が大きくて、そう口にせずにはいられなかったのだ。
「見事な駄々のこねっぷりだったよね」
「三宅さん、それは言わないでください。これでも反省しているんですから」
その場にいた三宅が後輩をからかう。浜崎が居心地悪そうに顔を赤らめるのが面白くて、律子は三宅と顔を見合わせて吹き出した。
やがて三人で笑い合っていると、追加で注文したドリンクがやってきた。今度はカシスグレープフルーツを頼んだ律子は、それを口にしながら三宅の薬指に目をやった。
「三宅ちゃんは、良かったね。知らない土地での生活は慣れるまで大変だと思うけど、頑張ってね」
「知り合いがいないので不安もありますけど、彼と一緒なのできっと大丈夫です」
三宅はつい最近プロポーズを受け、ホテル閉館後は彼の転勤先で新婚生活を始める予定になっている。そう言ってのろけた後輩の顔は幸せそうで、律子は眩しいものを見るかのように目を細めた。
「ところで浜ちゃんは最近どうなのよ? 前にコンパしたクールなイケメンとは続いているの?」
「律子さん、それは聞かないでください。わたし、今は恋愛よりも仕事ができる女を目指そうと決めたんです!」
そう高らかに宣言して、浜崎がビールを呷る。彼とは何度か飲みに行っていたようだが、どうやら今回も続かなかったらしい。酒には強い筈だが彼女もまた少し酔っているのか、ジョッキを片手に熱弁をふるい始めた。
「わたし、何度もこの仕事向いてないんじゃないかなって思ったんですけど、最近少し面白いと感じられるようになったんです。前に律子さん、仰いましたよね? ホテルは二十四時間常に稼働しているから、良いサービスを提供するにはひとりだけの頑張りではどうにもならない。些細なことでもきちんと引継ぎをして、お客様に関する情報をスタッフ全員が同じように共有できるホテルこそが良いホテルなのだと」
「……」
「それを聞いて、下っ端のわたしの役割も重要なんだって気づいたんです。ちゃんと引継ぎして、引継ぎされて。アウト時にゲストにありがとうって言われたらそれが一番嬉しいなって、心からそう思えるようになったんです」
確かに最近の浜崎は、目に見えて成長していた。以前のように不満を顔に表すこともなくなり、常に考えながら仕事をするようになっていた。それはあの日の律子の言葉に繋がっているのだと、彼女はそう言うのだ。
「り、律子さん!?」
次の瞬間、浜崎と三宅が同時に焦ったような声をあげた。ふたりの様子に、律子は自分の頬が濡れていることにはじめて気づく。けれども一旦溢れた涙は、なかなか止まってはくれなかった。
「律子さん。わたし何か失礼なこと言ったのなら、ごめんなさい」
違う、逆だ。おろおろと謝る浜崎に、律子は大きく首を振った。
「……嬉しかった、の」
「律子さん?」
「わたしその言葉、聞いて、ソレイユの入社決めて。ずっとその言葉、大事にして。だから、嬉しかったの……」
話しているうちに感情が昂って、上手く言葉にならない。後輩の前でみっともないと思いながらも、律子は自分の声が涙に滲むのを抑えることができなかった。
就職活動をしていた学生時代、会社説明会で先輩社員が語ってくれた言葉に感銘を受けて、律子はソレイユホテルへの入社を決意した。その時からずっと、あの人の背中だけを見つめていた。そして憧れの人に追いつきたいと必死で追いかけていた自分の姿を、後輩もまた目指してくれていたと言うのだ。
離れたくない、ずっと一緒にいたい。これからもこの仲間たちと、ソレイユホテル本宮中央でより良いサービスを目指したかった。
「ふっ、くう……」
ついに喉の奥から嗚咽が漏れる。不安も不満も、嫉妬も寂しさも。これまで抑え込んでいた様々な感情が、ないまぜになって溢れ出す。律子は止まらない涙を押さえるように顔を覆った。
「律子、大丈夫?」
いつの間にか傍に来ていた真理が、そっと肩を抱き寄せてくれる。律子はこくりと小さく頷いた。
「お水飲む?」
「……今日は、帰る」
やがて呼吸を整えると、律子はそう小さく告げた。
「連勤だったから、疲れてちょっと酔いが回ったみたい。せっかくの飲み会なのに、台無しにしてごめんなさい」
離れた席の人たちも、律子の異変には気づいているだろう。楽しい飲みの場で突然泣き出して、きっと場が白けてしまっただろう。恥ずかしくて申し訳なくて、律子は俯いたままそう詫びた。
「送るよ」
「ありがとう。でも、大丈夫」
そう言って真理から体を離すと、できるだけ泣き顔を見られないように顔を伏せたまま財布を探り、五千円札を取り出す。それからダウンジャケットを掴むと、律子は立ち上がった。
「本当にみんな、ごめんね」
その瞬間、ぐらりと足元が揺れた。さほど酒に強い方ではないが、グラスビールとカクテルの計三杯くらいならいつも平気だ。今日は乾杯のビールのあとにカシスオレンジを飲んだが、三杯目のカシスグレープフルーツはまだ半分以上グラスに残っている。それなのに酔いが足にきているのは、自覚しているよりも体が疲れているのかも知れない。
「俺が送る」
すると高い位置から聞き慣れた声がして、腕をぐっと掴まれた。
「だ、大丈夫です!」
「そんなにふらふらして、ひとりで帰せるか」
面倒見の良い辻内ならば、酔った部下が心配になるのは当然だろう。でも、今は一刻でも早く辻内から離れたかった。好きな人にこれ以上醜態は見せたくない。律子は掴まれた腕を振り払うと、もう一度頭を下げて店を飛び出した。
2017/05/26