散らない向日葵
8. 出せない勇気、ゆえに約束されている別離
「ちょっと何これ。旅行代理店でも始めるの?」
昼食をとりに休憩室へやって来た律子は、テーブルの上に積まれたパンフレットを見やると呆れたようにそう口にした。
二階の端にある休憩室は、電気ポットと電子レンジが置かれたシンプルな空間だ。スーツの管理職は外に食べに出ることが多いが、制服組は着替えが面倒なので基本的にこの部屋で食事をとる。残業が多い時期はコンビニに頼るものの、律子はできるだけ弁当を持参するようにしていた。
「おお、すごい。アジアからヨーロッパ、オセアニアから北米まで網羅したラインナップじゃん」
乱雑に積まれたパンフレットは、さまざまな地域と価格帯のものを取り揃えている。律子は感嘆の声を漏らすと、電子レンジで弁当を温めている間にオーストラリアのパンフレットを開いた。
「働いてるとなかなか長期休暇がとれないし、再就職前に海外旅行に行きたいという話になったみたい。誰かが一冊持って来たら、次々とみんなが持ち寄ってこんな有様になったわけ」
律子よりも三十分早く休憩に入り、既に弁当を食べ終えている真理がそう説明する。彼女もページを捲っているが、古城の写真が見えるので恐らくヨーロッパのパンフレットだろう。
「なるほどね。確かにわたしも海外なんて長らく行ってないな」
「行けても国内か、せいぜい近場のアジアだもんね」
シフト制だと、連休をとると他のスタッフが連勤になる為になかなか長期の休みがとりにくい。だから再就職をすぐにせず、海外旅行などで英気を養おうと誰かが言い出したら、それがすっかり支持されたようだ。温まった弁当箱を取り出すと、律子は真理の向かいに腰かけた。
「こういうの見たら、旅行したくなるよね」
美しい海の写真に見入りながら、律子は憧れるようにそう呟いた。
律子らが自分たちの職場がなくなるとの宣告を受けてから、間もなく三週間が経とうとしていた。窓の外の街路樹はすっかり葉を落とし、師走の足音が聞こえて何やら気持ちが急いてくる。けれども律子の日常は、拍子抜けするくらいに穏やかだった。
「平和だなあ」
鮭の身をほぐしながら律子がひとりごちる。閉館を告げられた時はもっとばたばたと追われるのかと思っていたが、実際はその逆だった。もちろん旅行会社や法人契約を結んでいる近隣企業へ連絡をしなければならないが、それは年に何度か営業回りをしている辻内と寺本がすべて担っていた。律子の業務は団体予約を管理したり料金をコントロールしたりと、先の取り込みに関わることだ。従って春以降の受け入れがなくなってしまった今は、律子の業務は逆に減ってしまったのだ。
「律子はどうするつもりなの?」
食後のコーヒーを飲みながら、何気ない風を装って真理が尋ねてきた。閉館までまだ時間があるせいか、それとも現実を受け入れたくないからか。このホテルがなくなると社長に告げられてから、誰も春以降の身の振り方を口にする者はいなかった。
「うーん。この業界しか知らないし、次もまたどこか別のホテルで働くことになるかな」
「いや、仕事じゃなくて辻内課長の方よ」
この会話の流れでいうと絶対に仕事の話だと思ったのに、真理からはばっさり否定されてしまった。思わず律子は目を瞬いて、向かいに座る友人の顔を見つめる。
「仕事の方は、あんたならどこに行っても頑張れるだろうから、気にはかけているけど心配はあまりしていないわ。でも、恋愛の方は大いに心配してるのよ!」
「……」
付き合いの長い同期の意見は、嬉しくもあり耳が痛くもある。真正面から切り込んできた真理に対し、律子は視線を宙に泳がせた。
「律子はどうするつもりなの?」
もう一度、真理がゆっくりとそう尋ねる。
「どうも、しないよ」
どうしようもない。辻内が九州に異動になった時は、離れても同じ会社に勤めているという微かな繋がりだけは残っていた。研修などで辻内と同じホテルの人と一緒になった際には、それとなく様子を探ってみたりしたものだ。奇跡的に再び部下として一緒に働くことができたが、春以降は一切の繋がりがなくなってしまうだろう。
「あんた前に、同じ職場で毎日顔を合わせて気まずい思いをかけるから告白しないと言ったわよね?」
「……」
「ソレイユを辞めようが残ろうが、わたしたちは全員ばらばらになる。これはもういい加減、告白するタイミングでしょうが。想いを告げないと、今までみたいに当たり前には会えないんだよ」
律子が彷徨わせていた視線を戻すと、真理が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「告げても告げなくても、もう当たり前には会えないよ」
「何でそんなに逃げ腰なのよ。両想いかも知れないし、もしそうじゃなくてもあれだけ可愛がってくれているんだから、想いを告げれば前向きに考えてくれるかも知れないじゃない」
真理のまくし立てるような説得の言葉のあとに、長い沈黙が落ちる。普段は意識していないのに、壁に掛けている時計からコチコチと秒針の音が聞こえる。やがてひとつ溜息を吐くと、律子はゆっくりと口を開いた。
「告げさせては、もらえなかったのよ」
辻内が好きになるのはあの人のような大人の女性で、見た目も中身も幼い律子のことを異性として見ることはない。あからさまに告白のタイミングを逸らされるくらいなら、自分の気持ちは封じ込んで信頼できる部下を装った方がいっそ近くにいられると思った。それが、かつて律子の下した決断だったのだ。
「それ、どういう意味なの……?」
律子の呟きに真理が反応したその瞬間、廊下をコツコツと鳴らす足音が近づいて来た。やがて休憩室の前で止まると、ゆっくりと扉が開く。
「お疲れさまです」
そう明るく挨拶しながら入って来たのは、レストランの学生バイトの女の子だった。一瞬の間をおいて、ふたりは挨拶を返す。そのまま律子が彼女と他愛のないやりとりをしていると、休憩時間が終わったのか真理が空の弁当箱を持って立ち上がった。
「じゃあ、ごゆっくり」
真理は腑に落ちない表情を浮かべていたが、第三者がいる中で追及するわけにもいかなかったのだろう。ふたりにそう声をかけると、やがて休憩室を後にした。
休憩を終えて律子が事務所に戻ると、何となくその場の空気に違和感を感じた。険悪なわけでない。けれども何か戸惑ったような、微妙な空気がそこには存在していた。総支配人とマネージャーの寺本が何やら話していたようだが、クレームでもあったのだろうか。律子はちらりとふたりの様子を窺った。
「矢野くん、ちょっといいかね?」
「はい」
律子が訝しんでいると、総支配人の方から声をかけてきた。
「寺本くんが年内いっぱいで退職することになった」
「え?」
何を言われれるかと心構えをする間は与えられず、総支配人はあっさりとそう告げた。どうやら寺本は、知り合いの誘いで隣県のホテルの宿泊マネージャーとして来月から勤務することが決まったらしい。ホテル業界は意外と横のつながりが強く、競合ホテル同士で情報交換会を定期的に開いていたり、旅行会社のフォーラムなどで顔を合わせたりと他ホテルの人と知り合うチャンスは多いのだ。マネージャークラスになるとそのような会に出席する機会は多く、きっと寺本もそこで知り合った誰かに声をかけられたのだろう。
「最後を見届けずに抜けることになって悪いな。閉館するホテルには人員補充などないと思うから、矢野たちには迷惑をかけることになるのに本当に申し訳ないと思っている」
寺本はそう言うと、体をふたつに折って深く頭を下げた。
「次が決まったんですね。おめでとうございます!」
真っ白になった頭の中で、律子は慌てて言葉を掻き集める。閉館を待たずして辞めることを決意したということは、きっと悪くない条件で再就職先が見つかったのだろう。
「ありがとう」
律子の言葉に、寺本がほっとしたように表情を緩めた。
やがて総支配人が寺本を誘い、昼食をとる為に外出した。事務所には律子ひとりが取り残される。普段は経理担当者と経理補佐である真理のふたりが事務所にいるのだが、閉館にあたり本社に引き取ってもらうことになる保管書類の整理の為に地下倉庫に行っていた。
誰もいない事務所内は、やけに広く感じられる。律子は見慣れた景色をぐるりと見渡した。
春以降の身の振り方を誰も口にしないのは、閉館までまだ時間があるからだと律子は思っていた。数ヶ月も先の話でどこか現実感はなく、だから具体的に考えられないのだと思っていた。けれどもそれは、律子が逃避していただけの話だった。寺本はとっくに現実を受け入れ、生活の為に新たなステージを探し出したのだ。律子は唐突にそんな事実を突きつけられて、寂しいような焦るような、愕然とした気持ちになった。
不意にシャッと音をたてて、事務所とフロントを仕切るカーテンが開く。我に返って振り向くと、後輩の三宅が段ボール箱を運び入れようとしていた。恐らく宿泊客宛てに届いたものだろう。部屋番号を書き込んだ預かり票を貼り付けている後輩の背中に、律子は慌てて声をかけた。
「遅くなってごめん。休憩行って来てね」
「はい」
休憩を回す為に律子がフロントに出ようとすると、彼女は遠慮がちに呼び止めた。
「律子さん……」
「どうかしたの?」
何を尋ねたいのかだいたい予想はつくが、律子はいつもの軽い調子で問い返した。
「あの、寺本マネージャーは退職されるんですか?」
きっと、一番長く寺本と働いてきた律子に先に告げる為に、上司たちは彼女らにまだ知らせなかったのだろう。けれど、どうしてもそういった雰囲気は伝わるものだ。ふと視線を感じて見やると、カーテンの隙間から浜崎もこちらの様子を窺っていた。
「そうみたいだね。支配人と一緒に食事に出られたから、退職日とか細かい話を今頃されているんじゃないかな。たぶん、戻られたらふたりにも話があると思う」
今更、隠し立てても仕方がない。順にふたりの目を見つめると、律子はあっさりと認めた。
「そんなの無責任じゃないですか!?」
次の瞬間、浜崎が鋭い声をあげた。
「閉館の日は決まっているんだから、それに合わせて転職したら良いじゃないですか」
「それは違うと思う」
優しいがどこか適当で、いい加減な判断をしがちな寺本のことを、浜崎は頼りなく感じているのか厳しく評する節がある。けれど、今回の件に関して律子たちが口出しする権利はない。強い口調の浜崎を諫めるように見やると、予想に反してその表情は泣きそうだった。
「ごめん。休憩、後回しにしていい?」
「はい。フロントはひとりで大丈夫ですから」
三宅は女性社員の中で律子の次に社歴が長い。一番信頼できる人物で、今も律子の意図をあっさりと理解してくれた。本当はチェックインが始まる時間までに休憩を回したいのだが、このような状況を放置するわけにもゆかず、律子は浜崎に対して事務所に入るようにと指示した。
誰もいない事務所でふたり向き合うと、律子は若い浜崎を諭すように静かに声をかけた。
「確かに浜ちゃんの言うとおり、閉館の日に合わせて四月以降に転職できれば理想だと思う。だけど、求人なんてそう都合良く自分に合わせたタイミングで出るわけじゃないんだよ」
「それは分かっています」
「良い条件の求人があれば、閉館前でもそちらに行くのが当然でしょう? 四月以降に同じ条件の求人が見つかる保証なんてないんだから」
「でも、マネージャー職に就いているんですよね? 十年以上もこのホテルに勤めているんですよね? だったら最後を見届けたいと思うのが普通じゃないんですか!?」
閉館までは皆と一緒にいられると、律子だって先程までは能天気にそれを信じて疑わなかった。けれども、そんな綺麗ごとではない。今後の人生を左右するのだから、感傷にばかり浸っていてはいけないのだ。
「そんなことは関係ないの。寺本マネージャーには奥様もお子さんもいるんだから、今回の選択は当然でしょう。わたしだって、本当に良い条件があれば同じ決断をするよ」
たぶん、いや絶対にしない。律子のすべてはここにあるのだから、最後まで見届ける気持ちはきっと何があっても揺るがないだろう。けれど、寺本以外にも妻子がいる社員はおり、彼らはきっと既に現実を冷静に受け入れている。だから律子は、自分に言い聞かせる為にもきっぱりとそう宣言した。
浜崎は、ただ黙って律子の言葉を聞いていた。やがて、すんと鼻をすする。
「でも、ソレイユホテル本宮中央はなくなっちゃうんですよ。もう二度と、同じメンバーで働くことはできないんです。だから少しでも長く一緒に働きたいと、そう思っているのはわたしひとりだけですか?」
「浜ちゃん……」
「寺本マネージャーは管理職になれるくらいの人ですから、四月以降でも良い条件で再就職できるに決まってます。律子さんだって、他の先輩方だって、きっとすぐに新しい職場を見つけられる筈なんです」
「何言ってるの。浜ちゃんこそ若いんだから、すぐに見つかるよ。三十路のわたしの方がきっと不利だわ」
浜崎がもう一度、すんと鼻をすする。俯いてからもう一度、再びすんと鼻をすする。いつしかぽろぽろと涙が溢れ出して、けれども浜崎は声を絞り出すように訴えた。
「そんなわけないじゃないですか。律子さんは経験豊富で、何を聞いても即答できるくらい色んなことをご存知です。でもわたしは、まだ基本的なことしかできない。もっともっと教えて欲しいことはいっぱいあったのに、こんな半人前じゃあこの先どうなるか分からない……」
いつも勝気な後輩は、そう声を詰まらせた。律子は三十路の自分は不利で、二十代の浜崎らの方が有利に転職できると内心羨んでいた。けれども彼女らにとっては若さなど武器とは思えず、経験の浅さがずっと不安だったのだ。この状況で何の心配も抱かない者などいる筈はなく、若さを羨ましいと思った自分の浅はかさを律子は恥じた。
社長の口からこのホテルがなくなることを告げられたあの日、彼女は終始冗談を言って周囲を笑わせていた。それはきっと、不安を打ち消す為だったのだ。律子はすぐさま彼女を勇気づける言葉を探したけれど、どんな台詞を吐いても気休めにしかならない気がして、結局できたのはただ黙って浜崎の手を握ることだけだった。
若い後輩がこんなにも思い悩んでいるというのに、励ましの言葉ひとつ出てこない。あの人ならばきっと、何気ない言葉でもって落ちた気持ちを掬い上げてくれる筈なのに……。律子は無力感を抱きながら、ただ黙って浜崎の手を強く握りしめていた。
2017/01/23