散らない向日葵
1. 忙しい毎日、けれども愛しき日々
台風が通過した朝、雲ひとつない空は抜けるように青い。けれども早番の彼女が出勤すると、爽やかな秋空とは対極にある不機嫌な様子の男の姿がそこにあった。
「おはようございます」
タイムカードを押しながら、矢野律子はだらりと椅子に腰かけている上司にそう声をかけた。「ああ」とも「うう」とも判別のつかないくぐもった声が返ってくるが、気にせず引継ぎ帳を確認する。記載事項をチェックして脇にまとめられている帳票に目をやれば、つい二時間前の時刻が印字されていた。つまりは昨日の締め処理が行われたのは明け方ということで、律子は同情に満ちた視線を、屍のようになって微動だにしない上司に送った。
律子が勤めるのは、駅から徒歩すぐの場所に位置するビジネスホテルだ。ビジネスマンに尋ねれば誰もがその名を知っているであろう、全国展開する老舗のホテルチェーンである。お客様にとっての太陽でありたいという創業者の願いから、かつては太陽ホテルという名称で展開していたが、十数年前にリブランドしてソレイユホテルとなった。ソレイユとはフランス語で太陽という意味であるらしいが、なぜフランス語なのかは従業員の間でも謎である。
律子は自分のデスクの引き出しを開けると、この秋発売になったばかりのチョコレートを取り出し、寝ているのか起きているのか定かでない上司の机の上にそっと置いた。それから事務所の端にある鏡を覗いて身だしなみをチェックし、仕切り用のカーテンを開けてフロントに出た。
「矢野さん、おはようございます」
「おはよう。昨日はお疲れさま」
そう声をかけると、夜勤明けの滝は唇の端を微かに上げて薄く笑った。律子より四歳若い後輩は整った顔立ちをしており、いつもその表情を崩すことがないのだが、さすがに昨夜の疲れは隠し切れていない。
「すみません。僕が役立たずで、先輩方にご負担をおかけしました……」
すると隣から、申し訳なさそうに新入社員の小久保が口を挟んできた。配属されて来た時から子犬みたいだなと思っていたが、よほど落ち込んでいるのかしょんぼり垂れた耳としっぽが見えるかのようだ。律子がちらりと滝を見やると、彼は別に怒っているでもなく淡々と後輩を諭した。
「昨日はイレギュラーだから仕方ない」
「でも、課長が……」
ああそうか。落ち込んでいる小久保の言葉に、律子はようやく合点がいった。
「小久保くん。誤解してるかも知れないから言っておくけど、辻内課長のアレは怒ってるわけじゃないからね」
「え?」
「忙しくて仮眠がとれなくなると、いつもあんな感じだから。ちなみに八時になると、何故かスイッチが入っていつものテンションに戻るから気にしなくていいよ」
律子がそう説明しているとロビーの突き当りにあるエレベーターの扉が開き、キャリーケースを引いたビジネスマンが降りて来た。ほら仕事だよと言って後輩の背中をぽんと叩くと、子犬は慌ててゲストに向き直り、元気よく朝の挨拶をしながら頭を下げた。
秋台風は動きが速いと言われるが、昨晩の台風も例外ではなく、予想以上の速さで接近して抜けて行った。風雨が強まるのは夜半過ぎだと油断していたら思ったよりも早い時間から荒れ始め、おかげで昨晩は二十時以降の新幹線が運休となってしまったのだ。そうなれば帰れなくなってしまった乗客たちは、一夜を明かす為に宿を探さねばならない。律子の勤務するソレイユホテル本宮中央は新幹線の停車駅の最寄りではないものの、在来線で十分ほどでアクセスできる為に、新幹線が運休になると電話が鳴り止まなくなってしまうのだ。
もともと満室ならば予約の受けようがないのだが、昨日は月曜日ということで残室が多く、止まらない新規予約を入力しながらチェックインをこなさねばならなかった筈である。年に何度か訪れるこのような事態は、チェックインをどれだけこなしても新たに予約が入る為に終わりが見えず、精神的にも体力的にも削られてゆく。昨日は公休だった律子は、大雨警報と暴風警報が相次いで発令され遂には新幹線が運休になったというニュースを聞きながら、出勤でなくて良かったと密かに胸をなでおろしたのだった。
「あ、そうだ。引継ぎ帳には書き忘れてましたけど、昨日台風で帰れなくなった修旅団体が急遽入ってるんで」
「ええ!?」
飄々と告げる滝の言葉に、本日の到着リストを確認していた律子は思わず顔を上げた。
「中学生で、ひとクラスだけの学校なんですけどね」
「うわー、それは気の毒に」
昨日はすべての交通機関が乱れており、急遽宿を探す羽目になったのだろう。過去にも同様の受け入れをしたことはあるが、生徒はもちろん、当然ながら先生と添乗員が大変なのだ。走り書きで必要事項だけ書き込まれた手配書を慌てて手に取ると、律子はざっと内容を確認した。
チェックインが殺到し、電話が鳴り続け、インターネット経由の予約も止まらない。そのような中、到着までの限られた時間内で修学旅行生の受け入れ準備を整えなければならないホテル側もまた、大変だった筈である。
「滝くんと小久保くんは仮眠とれたの?」
「一時間ずつもらいました。俺は別に要らないと言ったんですけど、課長が行けって」
「なるほど。若者に対してカッコつけたおじさんが、朝になって電池切れを起こしているわけね」
ふむふむと納得した律子に対して小久保が訂正しようと試みたようだが、内線電話が鳴り、そのあともチェックアウトが続いてすっかりタイミングを逃してしまっていた。
昨夜このホテルに宿泊したゲストの半数近くは、恐らく泊まる予定のなかった人たちだ。予定が狂った人々は一刻も早く帰らねばと、いつもよりチェックアウトが慌ただしい。
「おはようさん」
「おはようございます」
途切れることなく続いたチェックアウトの列の最後に、見慣れた常連客の顔があった。
「水野様、いつも通りお会社名で領収書をご用意しております」
ソレイユホテルではチェックイン時に支払いをしてもらい、夜のうちに領収書を準備して、チェックアウト時に渡すという流れになっている。律子が領収書を差し出すとそれを財布にしまいながら、おしゃべりな常連客はいつものように話しかけてきた。
「昨日の晩はチェックインがえらい行列になっとったで。あんなにロビーがごった返してるのははじめて見たけど、あれは台風のせいかいな?」
「お待たせしてしまい申し訳ございませんでした。新幹線が運休になりますと、ご予約とチェックインが集中いたしますので……」
どうやら水野はチェックインが殺到している時間帯に到着したようで、律子は慌てて頭を下げる。けれども人の好い常連客は、笑いながら左右に手を振った。
「いや、そういう意味で言うたんとちゃうで。それにな、いつもの背の高い兄ちゃん、あの人がえらいスピードで列をさばくさかい、そないに待てへんかったわ」
知ってる。律子は心の中でそう呟いた。きっと冷静で迅速に、けれども笑顔を忘れることなく、あの人は疲れたゲストを少しでも早く部屋へ案内すべく奮闘した筈なのだ。
「ほな、次は来月の三日に来るさかい、また一泊で押さえといてな」
「かしこまりました。いつものお部屋でご用意しておきます」
そう答えながら早速予約入力を完了すると、律子は常連客を笑顔で見送った。
「カッコ良かったんですよ」
「へ?」
やがてチェックアウトの波が一瞬途切れた瞬間、まるでその隙を見計らっていたかのように小久保がそう声をかけてきた。まったくその言葉の意味が分からずに、返却されたルームキーを戻していた律子はぽかんと新入社員の顔を見つめ返してしまった。
「カッコつけとかじゃなく、水野様が仰っていたように課長は本当にカッコ良かったんです」
どうやら小久保は、先程の律子のひとりごとを訂正することを諦めていなかったらしい。本気で言ったわけではないのになと、律子の冗談を真っ直ぐに受け止める若者に思わず笑みがこぼれる。隣を見やれば、小久保のOJT指導担当である滝は呆れたような苦笑いを浮かべていた。
夜勤は三人体制で行っているが、基本的には若手ふたりが遅番スタッフと共にフロントに立ち、インチャージと呼ばれるその日の責任者は事務所で入力作業を行ってゆく。けれどもフロントデビューして半年も経たない小久保に怒涛のチェックインを任せるのは酷な話で、代わりに上司が颯爽とチェックインをさばいていったのだろう。小久保の中には、フロントから下げられてしまった己をふがいなく思う気持と、イレギュラーな状況に冷静に対処する上司への憧憬の念が湧き上がったのかも知れない。
「よせやい。本当のことばかり言われると、照れるじゃないか」
不意にカーテンが開き、長身の男が入ってきた。律子が出社した時は屍のようになっていた筈なのに、新入社員の言葉に調子づいたのかすっかり元気になっている。
「ね、スイッチ入るでしょ?」
本人登場で固まった小久保に、律子がそう囁く。ロビーに掛けられている時計は、間もなく八時を指そうとしていた。
通常は深夜に締め処理を済ませて順番に仮眠をとるのだが、月に何度か、チェックインの数が多く到着も遅いと明け方までナイト業務がずれ込むことがある。そのような時でもこの人は、自分の仮眠時間を割いて必ず部下を休ませる。ただ、そこまでは格好良いのだが部下たちが仮眠を終えると電池が切れて、早番のスタッフが朝七時に出勤する頃には魂が抜けたようになっているのだ。律子が新入社員の頃に挨拶しても無視されるので怒っているのかと思い、その不機嫌に見える様子に少々怯えたりもしたというのも今は笑い話だ。けれど、それは体力を回復しているだけでチェックアウトがピークを迎える八時頃には再びスイッチが入ると知ってからは、朝の挨拶も返せないくらい疲労困憊している上司を束の間そっとしているのだ。
「そう言えば、これまで小久保が課長と一緒のシフトになった日は、稼働が低い日が多かったかも」
「そっか。だから満室の日の明けは極悪人の顔してるの知らないんだね」
淡々と語る滝に淡々と返すと、隣から長身の男がものすごい勢いで突っ込んでくる。
「おい、誰が極悪人だ!?」
「課長です」
「即答するな! 指さすな!!」
即答した律子と黙って指で示した滝が、同時に突っ込まれる。一方、小久保は先程まで屍だった上司の変貌ぶりに大いに戸惑っていた。
「小久保、昨日はすまなかったな」
さておふざけは終わりだと、律子は再び業務に戻ろうとしたのだが、不意に上司が口調を変えて新入社員に詫びた。律子も滝も、謝罪を受けた小久保も、理由が分からずに揃って上司を見つめた。
「無理矢理フロントから下げてしまって悪かった」
「い、いえ。僕はトロいから当然です」
「別にトロくはない。焦らずきちんと確認しながらやってくれているから安心している。ただ昨日は特別な状況で、急に帰れなくなって宿もなかなかとれなくて、イライラしながら到着した人が大半だった。あの状況では少しでも早く案内しないと、些細なことが大クレームに繋がるんだ」
場数を踏んで新人は成長する。けれど、身内を育てる為にゲストに我慢してもらうわけにはいかない。経験を積めなどと悠長なことを言っていられない、昨日はそんな状況だったのだ。
「分かっています。次同じ状況に当たった時は、課長のように対応できるよう頑張ります」
子犬が成犬のように、凛々しくそう答える。その姿に上司は嬉しそうに目を細めた。
「俺レベルになるのは大変だけど、励めよ。後ろに下げはしたけれど、結構な数の電話応対や予約入力を全部ひとりでこなしてくれて、既に立派な戦力だ」
「本当ですか!?」
ああ、ずるいな。律子は思った。この男はこうやって、いつも部下をその気にさせるのだ。
「滝も俺ほどじゃないが、なかなかのものだったぞ」
「それはどうも」
「ちぇっ、おまえは可愛げがないな。小久保の純粋さを見習え」
「はいはい」
軽く上司をあしらって、朝食会場へ向かおうとするゲストに笑顔でおはようございますと声をかける滝に対し、長身の男はいじけてキーボックスの前にしゃがみ込む。そんな上司の背中に向かい、律子はきっぱりとした口調で言い放った。
「鍵のチェックはわたしがやります。課長は事務所に戻ってください」
これまで色んな人と働いてきたが、役職が上がれば必要最低限の時しか表に出てこない人が多い。けれどもこの人は、シフトに入っている日は律子たち一般社員と同じようにきちんとフロント業務をこなそうとするのだ。若い頃より体力も衰えているくせに、なんて可愛げのないことを心の中で思いながら、律子はそっと溜息を吐いた。
「何だよ、邪魔者みたいに言うなよ」
「邪魔です」
「おい矢野、言葉を選べ。俺のハートは繊細なんだぞ」
「イケメン課長と一緒にフロントにいると、ドキドキしすぎて仕事が手につかないので中に入ってください」
「そうか、それなら仕方がないな」
律子はその気になった上司の背中を両手で押して、仕切りのカーテンの向こう側へと追いやった。
「エージェントからの契約書の蒔き直し、まだ手をつけてないでしょう?」
「ぐぬぬ、おぬし何故それを……」
「何年の付き合いだと思ってるんですか。いつもフロント業務優先して、事務処理を後回しにするんですから」
きっちりとフロント業務をこなしたあとは、課長としての仕事が残っている。こうして律子が無理矢理にでもデスクに座らせないと、いつまで経ってもこの人の残業は減らないのだ。
「さすがは俺の弟子だな」
「教官のご指導のおかげです」
上司がそう言ってにやりと笑うので、律子も得意げに笑みを返した。
「さてと、りっちゃんのチョコレートで元気もらったし、もうひと頑張りしますか」
ああ、ずるい。律子はそう思った。辻内壮吾という人は、何気ない一言でいつも容易く人の心を掴むのだ。
「はいはい、頑張ってくださいね」
些細な言葉に喜んでいることが何だか悔しくて、律子はわざと素っ気なくそう言うと、さっさとフロントへ戻って行った。
2016/11/23