イトコノコ
熱い背中 5
駅まで向かう途中、圭介は正直、面倒だと思っていた。確かに梅雨の朝に見たいとこの姿が気にかかってはいたが、腹は減っていたし、部活で汗をかいていたので早く風呂にも入りたかった。
けれども叔母があまりにも狼狽しているので、仕方なく探しに行くと申し出たのだ。漠然とした不安を感じる一方で、圭介は確かな苛立ちも感じていた。高校生にもなってあんな風に親に心配をかけるべきではないと、自分の日頃の行いは棚に上げて、ひとり憤っていた。
ずっと独身を貫いていた叔父が結婚すると言った時は、金澤家の全員が驚愕した。男子校を卒業して理系の大学に進み、男ばかりの職場で働いているという叔父は女性との出会いが極端に少なかったらしい。そんな弟を姉である圭介の母は常に心配していたが、ここ数年はもう結婚しないものだと思っていたようだ。ところが、そんな叔父がある日突然、結婚を宣言したのだ。しかも紹介されたのは、圭介と同い年の娘がいる女性だった。
新しい叔母は明るい人だった。圭介の母は商売柄もあって明るくおしゃべりだが、気さくな叔母も母と同じタイプのようだ。けれどもそんな叔母が、携帯を握りしめたまま小さくなって憔悴していたのだ。数回しか話をしたことはないが、圭介は叔母に対して悪い印象はない。いくら腹が減っていても、風呂に入りたくても、あの空気の中ではそれを口にすることはできなかった。
遠慮がちに圭介の背中を掴んでいる志穂子は、どこか饒舌だった。
新しくいとこになった志穂子は大人しく、圭介も無口な方なのでふたりで会話をしたことは殆どない。けれども聞いて欲しいのだろう。途切れ途切れの内容はたまに意図するところが見えなくなるが、それでも志穂子は自転車に揺られながら訥々と語り続けた。だから圭介は、ただ黙って耳を傾けた。
圭介は当初、志穂子が母親の再婚に反対しているのではないかと訝しんでいた。けれど、彼女があまりにもあっさりとそれを否定したので少し拍子抜けしていた。彼が志穂子に対して抱いていた苛立ちは、やがて戸惑いへと変わってゆく。
「今日は、わたしの誕生日なんだ……」
僅かな沈黙を挟み、思い切ったように志穂子が口を開く。先程叔母から聞いて知ってはいたが、何と答えて良いのか分からずに圭介は黙っていた。
「そして八年前の今日は、父と最後に出かけた日なの」
あまりにもあっさり言われたので、思わず問い返しそうになる。志穂子が何を抱えているのか、何を打ち明けたいのかをはかりかねて、圭介はじっと次の言葉を待った。
「父は、癌だったの。もちろん当時のわたしはそんなことは知らなかったけど、気づいた時にはあちこちに転移していたらしい。若いから進行が早かったらしく、余命は一年と宣告されたんだって」
そこで志穂子は言葉を区切ると、ほっと小さく息を吐いた。少し震えた声が痛々しくてかける言葉を探したが、気の利いたことは何も浮かばなかった。
「父は母とわたしとの時間を大切にしようと決めたらしく、まだ体力が残っているうちは何度か遠出をして、家族三人での思い出をたくさん作ってくれた。やがてどんどん体が衰弱していってからも、わたしの前ではいつも笑顔だった。わたしは学校が終わるとそのまま病院へ行き、面会時間が終わるまでずっと父と母と過ごしていたの」
「わたしが小学校二年の夏休みは、大半を病院で過ごしたわ。父も母も笑っていたから、わたしはいつか父が退院できるものだと信じて疑わなかった。そして夏休みも終わる頃に父が言ったの。今度近いうちに、久しぶりに皆で出かけようって。わたしは喜んで飛び跳ねて、じゃあ遊園地へ行きたいって言ったわ。友達が夏休みに家族で行ったと聞かされて、羨ましくて。でも、父は少し哀しそうな顔をして、わたしにごめんねと言った。お父さんはまだ元気になってる途中だから、そこまで遠くへは行けないんだって。完全に元気になったら、その時に行こうって」
努めて淡々と語ろうとする志穂子の様子に、圭介は喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
「結局それは、余命が僅かとなった父が、お医者さんに頼んで許可を貰った最後の外出だった」
こつんと、背中に軽く何かが当たる。志穂子が額を、圭介の背中に預けたようだった。泣いているのかと、圭介の心がざわざわと騒ぐ。けれども志穂子は、再びゆっくりと言葉を繋いだ。
「八月の炎天下には無理だけど、気温が低くなって父の体調が良い日ならという条件で先生が許可を出してくれた。その年は冷夏で、わたしの八回目の誕生日は秋を思わせる爽やかな風が吹いていた。母とわたしは一緒にお弁当を作って、父が入院していた病院の目の前にある公園に父を連れ出したの。家族三人でお弁当を広げて話をするだけ。たったそれだけだったけど、わたしは父と母と外にいられることが何よりも嬉しかった。いっぱい、これでもかというくらい父に甘えたわ。友達の話や学校の話を、もう何度も聞かせたのに父に得意気に語って。父はまるではじめて聞くかのように相槌を打ち、それが嬉しくてわたしはまた別の話をするの。はしゃぎ過ぎたわたしはやがて眠ってしまい、そこで記憶は途切れたけれど、父の膝の上で頭を撫でられた心地良さは今でも残っている」
かける言葉が見つからなくて、圭介はただ、ゆっくりとペダルを踏んだ。志穂子に少しの衝撃も与えないように夜道に目を凝らしながら、注意深く自転車を走らせることしかできなかった。
「久しぶりに父と過ごした町を訪れて、何も変わっていないことにすごく安心した。 父と手を繋いで歩いた道も、母に内緒でお菓子を買ってもらった駄菓子屋もちゃんとそこにあって、わたしの記憶の中の景色と変わらなかった。でも一軒、見慣れないお店ができていたの」
その話は先程も聞いたけれど、新しい店ができていたことになぜ志穂子がそこまで動揺しているのか、圭介には見当がつかなかった。
「毎日見た景色なのに、そこに何があったかすぐには思い出せなかった」
志穂子は必至で抑えようとしていたけれど、微かに震えたその声は次第に湿り気を帯びてゆく。圭介のシャツを握る手に、ぎゅっと力が込められた。
「そうやって、いつか父との思い出も忘れていくんじゃないかと思ったの。環境が変わって、月日が経って。そうしたら、わたしの記憶も、だんだん薄れていくんじゃないかって……」
恐くなったのと、最後は消え入るような声で志穂子は圭介の背中に縋った。
(ああ……)
圭介は夜空を仰いだ。昼間空を覆っていた雲はどこかへ行ってしまったのか、頭上にはくっきりとした輪郭の三日月が浮かんでいた。
家族を失うという痛みを、圭介は少しも理解していなかった。もちろん幼くして父を亡くした志穂子のことを気の毒だと感じてはいたけれど、もう八年も経っているし哀しみは癒えているものだと思っていた。血の繋がらない人と住むのは大変そうだけど、嫌なら三年だけ我慢して大学生になれば家を出たら良いのだと簡単に考えていた。叔父は穏やかな人柄だし、慣れれば母娘ふたりで苦労していた頃よりも楽になるだろうとさえ思っていたのだ。
「ひとりで抱え込むなよ」
長い沈黙が続いたのち、ようやく圭介は口を開いた。
「叔母さんに自分の気持ち言えよ。叔父さんだって、ちゃんと受け止めてくれる」
「できないよ。お母さんは今までずっと働き詰めで、あの人に出会ってやっと安らぎ見つけたのに、そんな幸せに水差すようなことできない」
先程まで声を震わせていたのに、この期に及んで志穂子は頑なだった。そうやって母に心配かけまいと、父のいない寂しさをずっと隠してきたのだろうかと、圭介は胸が痛くなった。
「ちゃんとお母さんの幸せを願っているのよ。子供じゃないんだから、そんなこと言えない」
「まだ子供だろ」
子供のように強がる志穂子が痛々しくて、つい圭介は声を荒げた。甘えたら良いのにと、叔母も叔父もそれを望んでいると傍目で見ていたらよく分かる。けれども志穂子は必死すぎて、そのことに気づいていないのだ。
「……分かってる。早く大人になりたいのに、こうやって皆に迷惑かけて、結局わたしは子供なんだって分かってるよ」
圭介が責めていると思ったのだろうか。志穂子は弱々しく、そう呟いた。違うと、圭介は心の中で叫ぶ。そうじゃなくて、無理に大人であろうとしなくても良いんだと伝えたかったけれど、上手く言葉にすることができなかった。
「じゃあ、俺に言えよ」
やがて圭介がそう呟いたのは、無意識だった。
「あんたはまだ高校生で、子供じゃないけど大人でもない。俺も同じだから、良いだろう?」
背中で志穂子が固まっているのは分かったけれど、気にせず圭介は言葉を繋いだ。
「俺なら大体の事情は分かってる。あんたが母親の幸せを願ってるって言うのなら余計な心配はしないし、そんなに父親との思い出をたくさん持っているのなら下手な同情もしない。聞くだけしかできないけど、ひとりで抱え込むくらいなら俺に吐き出せよ」
「……ううっ……」
背後で小さく嗚咽が漏れる。背中に強く額が当てられ、汗臭い筈のTシャツがぎゅっと握りしめられた。泣かせてしまったと狼狽したが、やがて途切れ途切れにありがとうという言葉が聞こえてきて安堵する。
吹き抜ける夜風は涼しかったけれど、背中は確かな熱を持っていた。
「志穂子」
ようやく家の明かりが見えてきた所で、圭介は背後で声を殺して泣いているいとこの名を呼んだ。
「昨日のことでも、意識していなければ忘れていることはたくさんある。八歳の頃の記憶がそんなにも鮮明に残っているのに、今更それが消えるわけないだろう」
ついに志穂子は、堪えきれずにしゃくりあげる。子供のように泣く志穂子の様子に痛みと安堵を感じながら、さてこの状況を母にどう説明しようかと、窓から漏れる橙色の明かりを眺めながら圭介は頭を巡らせた。
2011/11/21