イトコノコ
手探りの関係 3
志穂子の母親が再婚したのは、今年の春、志穂子の高校受験が終わったあとだった。
母は志穂子が小学二年生の時に夫を亡くしたあと、工場に様々な部品を卸している小さな会社で事務員として働きながら、女手ひとつで志穂子を育ててくれていた。そんな彼女が、取引先の営業担当であった藤原和彦と心を通わせるようになったのはいつ頃だったのだろう。母が恋愛をするという発想をそもそも持ち合わせていなかった志穂子は知る由もなかったけれど、ふたりは徐々に距離を縮めていたらしい。
けれど、思春期の娘を抱えていた母には再婚する意思はなかった。もしかしたら、志穂子が大人になって結婚したあとならと考えていたのかも知れないが、少なくとも志穂子が学生の間は娘とふたりで生きてゆくつもりだったようだ。
そんな状況が一転したのは、去年の夏のことだった。志穂子が中学最後の夏休みを迎えてすぐ、母が倒れたのだ。本当は春頃から体調が思わしくなかったようなのだが、仕事を休むわけにはいかないと無理を通し、結局は倒れてしまったらしい。
知らせを受けた志穂子は、ただただ恐怖を感じていた。母までもがこの世を去ってしまったら、一体自分はどうなるのだろう。現に母が入院するというこの状態でさえ、志穂子は何をすべきなのか分からないのだ。志穂子はただ、いつも元気だと思っていた母が消毒薬の匂いがする病室で眠る姿を呆然と眺めながら、立ちつくすことしかできなかった。近所に頼れる親戚はおらず、途方に暮れた中学生の志穂子がやったことと言えば、田舎に住む祖母に電話をかけることだけだった。
そんな志穂子を支えてくれたのが、和彦だった。病院に運ばれた時は母の同僚の女性が付き添ってくれていたけれど、やがて血相を変えた和彦が飛び込んで来て、それから諸々の手続きを済ませてくれたのは彼だった。
聞けば違う会社の人だと言う彼が、何故ここまで親身になってくれるのだろうか。うっすらと予感しながらも、それを知って自分はどう反応したら良いのか分からないので、志穂子は気づかないふりをしてただ彼にすべてを任せた。
幸いにも、母の入院は三日で済んだ。検査の結果で特に大きな病気は見当たらず、これまでがむしゃらに働いてきたツケが回ってきた過労ということだった。もう少し自分の健康に気を配るようにと、医者と田舎から飛んで来た祖母にこってり叱られた母はすっかり落ち込んでいた。体力を過信して無理を続け、結果的に職場に迷惑をかけてしまったことに自己嫌悪を感じているらしい。
毎日一緒に暮らしながら母の異常に気づかなかった自分を責めながらも、大事に至らなかったことに志穂子は何よりも安堵していた。
退院後、志穂子と母が住む市営住宅まで車で送ってくれたのも和彦だった。
「うちの娘が、どうもお世話になりました」
閉め切った室内には、むわっとした熱気がこもっている。狭い部屋に和彦が荷物を運び入れると、エアコンのスイッチを入れる母の傍らで祖母が小さな体をふたつに折って頭を下げた。
「よその会社の方にまで迷惑をかけて、本当に申し訳なかったです」
「いえ。宮本さんには日頃お世話になっているので、少しでもそのお返しができたのなら良かったです」
「いんや、家族でも何でもない他人様にここまでやってもろて、お礼の言いようがありません」
冷蔵庫から麦茶を取り出しグラスに注いでいた志穂子も、そこでようやく祖母の様子がいつもと少し違うことに気づき始めた。
「母さん」
詰るように、母が祖母を睨む。
「娘には二度と他人様に迷惑かけんよう、強く言い聞かせますから」
母の抗議に気づかないふりをして、祖母は尚も“他人”であるということを強調した。
「……お母さん」
何と呼べば良いのか迷ったのだろう。少しの沈黙ののち、和彦はそう口にした。けれども、その呼びかけに祖母は答えなかった。
「母さん、いい加減にしてよ!」
苛々としたように鋭い声を発した母を、和彦がちらりと目配せして制した。不穏な空気にはらはらしながら麦茶ポットを抱えていた志穂子は、その一瞬のふたりの様子を盗み見て確信し、ようやく覚悟を決めた。
「僕は、美穂子さんを他人だと思っていません。今回の入院があって、ますますそれを痛感しました」
志穂子は息を止めて和彦の言葉を聞いていた。父以外の男の人が自分の母への想いを口にするのを聞くのは、娘として何とも言えない気分だ。ちらりと母を見やると、その横顔は志穂子が見たことのない女の人の顔に見えた。
「……去年からお付き合いしてるのよ、和彦さんと」
何も言わない祖母に対し、溜息まじりに母が言った。
「あんたは志穂子の母親なんだよ」
祖母が信じられないというように、娘の顔をまじまじと見つめた。これまで蚊帳の外にいた筈なのに、いきなり自分の名前が会話に登場して志穂子はどきりとする。
「誤解しないでください。彼女は志穂子ちゃんを常に一番に考えています。何度断られても、志穂子ちゃんを大切に育てている美穂子さんごと好きになったのだと、しつこく迫ったのは僕の方なんです」
一気にそうまくしたてると、和彦はそこで大きく息を吐いた。出会ってまだ四日だけれども、穏やかな人だと思っていた大人の男性が見せる熱情に、志穂子の心臓は早鐘を打っていた。
「もちろん一番大切なのは美穂子さんと志穂子ちゃんの気持ちです。けれど、僕が本気でふたりを支えたいと思っていることを知っておいてください」
志穂子の手の中にある麦茶ポットは、すっかり水滴だらけになっていた。身じろぎすることも躊躇われる空気の中、志穂子はそろりとサイドボードの上を見やった。写真立ての中の志穂子の父は、いつも通り優しげな笑顔を見せていた。
和彦の発言は、まるでプロポーズだった。祖母の隣で同じように唖然とした表情を見せていた母は、やがて赤く頬を染めて俯く。
「和彦さん、その話は……」
「今回はたまたま君の会社に納品に行って君が倒れたことを知ることができたけれど、本来なら僕にそんな知らせは来ない。もしも君に何かがあった時に、僕はそれを知らされることがないという関係は、僕にとって恐ろしすぎると今回のことで痛感したんだ」
狭い室内に、重い沈黙が流れた。エアコンが冷たい風を送る微かな音だけが聞こえてくる。
「志穂子は受験生やろう。あんたらも大人なら、もっと冷静になりなさい!」
「……別に、いいよ」
一喝した祖母に対して口を開いたのは、志穂子だった。
「お母さんが好きなら、藤原さんと結婚してもいいよ」
そう言って麦茶ポットの水滴を布巾で拭って冷蔵庫に戻すと、麦茶が注がれたグラスをそれぞれの前にそっと置いた。閉められた窓の外からは、蝉の声が微かに聞こえていた。
***
「こんばんは」
「おう」
黒いジャージに身を包んだ圭介に、志穂子はぎこちなく挨拶をした。圭介から、挨拶とも呼べない短い返事が返ってくる。志穂子はこの同い年の新しいいとこと、殆ど言葉を交わしたことがなかった。
彼は和彦の甥にあたる。つまり和彦と圭介の母親が姉弟なのだ。
母の再婚が正式に決まった際に金澤家の人たちとの食事会があり、その時に志穂子は圭介とはじめて会った。同い年だからと紹介されたものの、同い年だからこそ上手く喋れない。ただの同級生ではなく、血は繋がらないものの親戚というカテゴリーに入ってしまう微妙な近さに、志穂子は戸惑った。それでも、本物のいとこでも殆ど交流がない人だって世間にはたくさんいるし、別にぎこちなくても構わないと彼女はあまり気にしていなかった。しかし、母たちが決めた再婚後の新居は圭介の家と隣町で、志穂子が深く考えもせずに近いからと受けた高校は圭介と同じだったのだ。
「え……と、筍のおすそわけに来てたの」
圭介は、同い年のいとこが急にできてどう思ってるのだろう。しかも同じ高校に通って、迷惑ではないだろうか。志穂子はちらりと彼の顔を仰ぎ見た。
「どうも」
素っ気ない答の中に、感情を探ることは不可能だ。だからとりあえず、圭介とは関わらないでおこうと志穂子は決めている。恵たちと同中出身だと分かって、尚且つ美奈の片想いの相手だということも発覚した今、これからも必要以上に接触しない方が賢明なようだ。
「じゃあね」
「ああ」
そう言うと、志穂子は左足をペダルにのせた。右足で地面を蹴り、街灯が淡く照らす薄闇の中へゆっくりと自転車をこぎ出す。
「気をつけて帰れよ」
不意に背中にかけられた言葉に、志穂子は思わず振り返った。圭介はこちらを見向きもせず、自転車の前かごに積んでいた大きなスポーツバッグを肩にかけているところだった。
空耳だろうかと首をかしげるが、間違いなくあの低い声は圭介のものだ。志穂子はサドルから腰を浮かせてペダルに力を込めると、そのままスピードを加速させて我が家を目指した。
2011/10/20