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の記憶



11. 水仙と睡蓮


 それから数日間は、穏やかな日が続いた。夢を見ることもなく、いつもと変わらぬ時間が過ぎていった。
 凪とはあの日以来、言葉を交わすことはなかった。もっとも、これまでもふたりが会話をすることは殆どなかったので、それもある意味いつもと同じだった。


「ただいま」
 図書委員の当番で帰りが遅くなった雨音が玄関のドアを開けると、強い花の匂いがした。ふと見やると、下駄箱の上の一輪ざしに白い水仙の花が活けられていた。
「おかえり」
 リビングに入ると、いつもは帰りの遅い父とアルバイトで家にいることの少ない兄が、珍しく一緒にテレビを見ていた。
「あれ、ふたり揃っているなんて珍しいね」
「でしょう? 雨音が帰って来たのかと思ったら、お父さんだったからびっくりしたわ」
 夕食の支度をしている母が、カウンターキッチンから顔を覗かせる。
「大きな仕事が一段落ついて、やっと定時で上がれるようになったんだ」
「じゃあ、しばらくはずっとこの時間?」
「ああ、そうだ。お父さんが早く帰って来たら悪いか?」
「そんなことひと言も言ってないじゃん。お母さん、お父さんの被害妄想ひどいよー」
「はいはい。ごはんにするから、雨音はさっさと手を洗って着替えて来なさい」
 手際よく料理を盛りつけている母に適当にあしらわれ、雨音は仕方なく洗面所へと向かった。

「家族全員が揃ってごはん食べるのなんて、何だか久しぶりだね」
 豆腐の味噌汁をすすりながら、雨音が言った。ここ最近は母とふたりのことが多く、四人揃っての食事は何だか新鮮だ。
「そうよ。大輔はバイトばかりで、この頃全然うちにいないんだから」
「急に人が辞めて、人手が足りないんだよ」
 不満そうに言う母に、兄の大輔は首を竦める。
「そんなこと言ったって、大輔の本分は学業でしょう?」
 説教したくても当人はいないという日々が続いていたので、母はここぞとばかりに攻撃を始めた。
「そう言えば、お母さん」
 苦笑いを浮かべる兄と目が合い、ふと玄関に花が飾られていたことを思い出した雨音は母の小言を遮った。先月のバイト代で大輔がケーキを買ってくれたので、そのお礼の助け舟だ。
「玄関の水仙、いい匂いだね」
「ああ、もうすぐおばあちゃんの命日だからね」
 話題が逸れて、兄があからさまにほっとした表情で父と顔を見合わせる。一方、雨音は母の答の意味がわからずに問い返した。
「どうしておばあちゃんの命日だったら水仙なの?」
「あら、雨音は知らなかった? 水仙はおばあちゃんの一番好きな花なのよ」
 その瞬間、何かが雨音の脳裏を掠めた。けれどもそれは本当に微かなもので、雨音は何に引っかかったのかわからなかった。

「この時期に水仙は、少し早いんじゃないか?」
「そうなのよ。毎年おばあちゃんの命日に飾ってあげたいなとは思うんだけど、なかなか花屋さんになくてね。今年は商店街でたまたま見つけたから、買って来ちゃった」
 母の話を聞きながら何気なく仏間に目をやると、仏壇の前にも玄関にあるのと同じ白い花が供えられていた。
「そう言えば、確かじいちゃんもあの花好きだったよな?」
 大輔が思い出したように言う。物心がつく前に亡くなった祖父についての記憶を、雨音は持たない。
「そりゃそうよ。だって、おじいちゃんは水仙の花を持っておばあちゃんにプロポーズしたんだもの」
 ええーと、思わず雨音と大輔が声をあげた。
「おいおい、何で父さんが知らないことを母さんが知っているのだい?」
 自分が知らない両親の慣れ染めを知っている妻に、父親も驚いた表情で箸を止める。
「あれはおじいちゃんが亡くなった時かしら。男性陣はお線香を守るとか言ってお酒飲んで酔っ払っていたけど、女性陣は台所でずっとばたばたしててね。やっと一段落ついて親戚のおばさんたちとお茶を飲んでいたら、先に休んでいた筈のおばあちゃんがひょっこり下りて来てたのよ。それで、みんなでおじいちゃんの思い出話してたの。そうしたら、おじいちゃんとの馴れ初めとかプロポーズとかの話になってね。みんなで女学生のようにきゃっきゃ言いながらふたりの昔話を聞いていたわ」
「それで、おじいちゃんはおばあちゃんに何て言ってプロポーズしたの?」
 雨音が身を乗り出す。家族全員が母に注目した。

「僕は水仙の花が一番好きですって」
「どういうこと?」
 大輔が不思議そうに尋ねた。
「それまでにずっと、おじいちゃんはおばあちゃんのことを水仙の花のような人だと言ってたそうなの。それである日突然、水仙の花を抱えて家までやって来てね。僕は水仙の花が一番好きです、だから僕と結婚して下さいってプロポーズしたんですって」
「きゃー!!!」
「じいちゃん、やるなあ!」
 兄妹が歓声をあげる。
「だからね、おばあちゃんも水仙が一番好きな花なんだって」


「なんだか不思議だね」
 風呂からあがった雨音はリビングのソファに腰かけると、ミルクティーを飲みながら誰へともなく呟いた。
「何が?」
 大輔が読んでいた雑誌から顔を上げる。
「いや、おじいちゃんとおばあちゃんにもドラマがあったんだなあって」
「ああ。じいちゃんがあんなに気障だとは思わなかったな」
 仏壇に飾られた写真を見やり、感心したように大輔が言った。
「水仙の花かあ……」
 何だか祖母が羨ましくて、思わず雨音が呟く。すると、にやにやと笑いながら大輔が言った。
「雨音の場合、水仙じゃなくてチューリップだろ?」
「へ、何でチューリップなの?」
 雨音はまったく意味がわからず、きょとんと目を丸くすると兄に問い返した。
「だってさ、昔おやゆびひめを読んだあと、雨音は自分もチューリップから生まれたんだって言い張っていたからさ」
「なっ、そんなの言ってないもん!」
「いや、言ってたね。“あまねはあかいちゅーいっぷからうまれたもん”って。あの頃は可愛かったなあ」
「いやあ、もうっ! ちょと年上だからって、子供の頃のことを持ち出すなんか卑怯だよ」
 恥ずかしさを誤魔化す為に、雨音は兄の背中をぽかぽかと叩いた。

「その話には続きがあるんだぞ」
 やがてテレビを見ていた筈の父も、そう言ってにこにこと笑いながら兄妹の会話に入ってきた。
「お父さんまで、もういいよ」
「いいじゃん、いいじゃん。で、続きって何?」
 これ以上子供の頃の恥ずかしい話を蒸し返されたくない雨音だったが、結局は兄に抑え込まれてしまった。
「ある日、おやゆびひめみたいにチューリップの中にいる自分の絵を描いてくれって、雨音がばあちゃんにせがんだんだよ」
「おまえ、おやゆびひめに憧れすぎだろう」
 隣で呆れたように笑っている兄を、雨音はじろりと睨む。
「何を思ったのか、ばあちゃんは睡蓮の花の中で眠っている赤ん坊の雨音を描いたんだよ。いやあ、雨音は怒ってね。“こんなおはなじゃない。あまねはあかいちゅーいっぷからうまれたの”って言って、遂には泣き出したんだ」

 隣で大輔は笑い転げていたが、雨音は笑うことも怒ることもできなかった。胸の奥が、ざわざわする。
「どうしておばあちゃんは、チューリップじゃなくてわざわざ睡蓮を描いたの?」
 恐る恐る、雨音は父に尋ねた。
「さあなあ。雨の日に生まれた雨音は水に縁のある子だから、水に咲く睡蓮が雨音の花だよって。水はかけがえのないものだから、水に縁のある雨音は何よりも大切な子なんだよって、そんなこと言ってたな」

 視界がぐらりと歪んだ。全身から血の気が引く。
 雨音は何とか立ち上がると、半分以上ミルクティーが残ったマグカップをキッチンに持って行った。
「何だ、もう寝るのか?」
「うん、眠くなってきちゃった」
 強張った笑顔で父に答える。
「何だよ、拗ねるなよ」
 兄の軽口には答えられなかった。残ったミルクティーをシンクに流すと手早く歯を磨き、平静を装って二階へ上がる。震える手でドアノブを握ると、自分の部屋の扉を開けた。
 真っ暗な部屋に入った瞬間、雨音は足元から崩れ落ちた。

「お、ばあ、ちゃん……」
 喉の奥から嗚咽が漏れる。震える雨音の指先に、もはや温もりはなかった。
 祖母の好きな花が水仙だと知った時に心の端を掠めた何か。それは“水仙”と“スイ族のセン”という音の響きだった。
 本当はずっと前から知っていたのかも知れない。ただ、気づかないふりをしていただけかも知れない。

 自分がレンであることを。祖母がセンであることを。
 そして――

 祖母はスイ族のセンであった自分に、その音の響きからか祖父の言葉からか、水仙の花を重ねていた。そしてレンである雨音には、睡蓮の花を重ねていたのだ。
 しかし、その事実を知る前から、雨音は無自覚のうちに自分の過去に気づいていたように思う。
 あの、あまりにもリアルな夢を見始めた時から。いや、祖母がレンと弥風の物語を聞かせてくれた、幼い頃から……。



「ねえ、レン。レンはセンにとって水なんだよ」

 あどけないセンの声が、雨音の脳裏に響く。
 上手く呼吸ができなくて、思い切り空気中の酸素を求めて息を吸った。ごほごほと咳込み、声にならない声が漏れた。



2010/12/01

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