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の記憶



09. 梅薫る日記


 十一月の冷たい風が、黒い髪を吹き上げる。雨音は右手で乱れた髪をおさえると、左手で厚手のカーディガンの襟元を寄せた。
「早く着きすぎたな」
 すぐ隣に建つ時計塔をちらりと見上げてひとりごちると、そのまま空を仰いだ。秋の終わりの空は果てが透けて見えそうなくらい澄み渡り、冷たい空気がぴりりと頬を刺す。良い天気だなと思いながら深呼吸をした瞬間、雨音は背後から声をかけられた。


「寒い中お待たせしてすみません」
 そう言いながら眼鏡の女性が、雨音の目の前にマグカップを差し出した。
「いえ、わたしが早く着きすぎてしまって……」
 恐縮しながら、雨音は小さく答える。
「わざわざ足を運んでもらってごめんなさい。本当は澤田さんの最寄駅の近くとかで待ち合わせたかったんだけど、どうしても文献を見てもらいたくて。お休みなのに、本当に申し訳ない」
 そう言って頭を下げると、女性は雨音の目を見てふんわりと微笑んだ。
「改めまして、長瀬史子です」
「あ、あの、澤田雨音です」
 消え入るような声で、雨音も女性に倣って自己紹介をする。
「ふふ、そんなに緊張せんといて」
 小さく固まっている雨音に、史子は柔らかい関西のイントネーションで安心させてくれた。

 史子からミカゼの妻についての記述が見つかったというメールが届いたのは、二週間前のことだ。
 はじめてのメールで彼女は雨音に直接会って話をしたいと言ってきたのだが、見も知らぬ人物といきなり会う勇気のなかった雨音は、多忙を理由にやんわりと断っていた。何かわかればメールで知らせるとあったものの、相手も忙しいだろうし、この先新たな情報を得られるとは正直期待していなかった。たとえ史子が精力的に調べてくれたとしても、文献に記述が残っている可能性の方が圧倒的に低いのだ。
 しかし予想に反して、意外な程あっさりと新しい情報を得ることができた。そして今度のメールでは史子は会おうとは言わず、判明した事柄だけを報告してくれた。そのメールに記されたミカゼの妻の名前を見て、雨音は驚愕した。そして自ら、会って話を聞きたいと史子にメールを送ったのだった。

「あまねちゃんって、どんな字を書くん?」
「雨の音、です」
「へえ、綺麗な音の響きやね。やっぱり、雨の日に生まれたん?」
「はい。難産だったらしく、父と祖母が雨の音を聞きながら、無事に生まれてくるのを祈ってくれていたと聞いています」
「そっか、ええ話やね」
 そう言うと、史子は目を細めた。化粧気のない肌はとても白く、縁なしの眼鏡の奥の瞳はとても優しい。
「やっぱり予想どおりやったわ」
「何がですか?」
 史子の呟きに、雨音は不思議そうに尋ねた。
「何となく、メールをくれた“澤田さん”は、雨音ちゃんやろうなあって思ってた」
「どういう意味ですか?」
 やはり意味がわからず、重ねて問い返す。
「先月末に市立図書館で開かれた講演会に、雨音ちゃん来てくれてたやろ?」
「え、長瀬さんも覚えてくださっていたんですか?」
「史子でええよ」
「じゃあ、史子さん」
 躊躇いがちにそう呼ぶと、史子は嬉しそうに笑った。

「そう言うってことは、雨音ちゃんもうちのこと覚えてくれてたんや?」
 あの講演会の受付で雨音に声をかけてくれた女性が、史子だということは会った瞬間すぐにわかった。いや、本当はここへ来る前からずっと、そんな予感はしていたのだ。
「根拠はないですけど、何となくそうじゃないかと予想していました」
 だから、待ち合わせ場所である県立大学の正門前に史子が現れた時も、やはりという気持ちで驚きはなかった。
「でも、受付と司会をしていた史子さんのことがわたしの中で印象に残っていたのは全然不思議じゃないですけど、史子さんはどうしてわたしのことを覚えてくださっていたんですか?」
「だって、歴史好きのおっちゃんばかりが集まる講演会に、可愛らしい女の子が混ざっていたら印象的やもん。もらったメールには苗字しかなかったけど、女性やろうなというのは文章から何となくわかったし、勝手に雨音ちゃんをイメージしてたんよ」
 にこりと笑ってそう言うと、史子は自分で炒れたコーヒーに口をつけた。彼女の説明になるほどと納得すると、いただきますと呟きながら雨音も目の前のマグカップに手を伸ばした。

「で、本題やねんけど……」
 そう言うと史子は立ち上がり、本棚の奥へと消えた。史子の提案により雨音は彼女が学ぶ県立大学までやって来たのだが、正門で待ち合わせたあとで連れられたのは彼女の研究室だった。他の院生との共同スペースのようだが、土曜日だからか部屋には誰もいないらしい。史子の柔らかい雰囲気に緊張も薄れ、雨音は興味津々で研究室を見まわした。
「うちは京都生まれやねんけど、祖父が歴史好きでなあ。よう無理矢理、一緒に地元の史跡巡りさせられたんよ。最初は興味なかってんけど、気づいたら大学院にまで進んで歴史の勉強してたわ」
 びっしりと本が並ぶ背の高い棚越しに、史子が語りかけてきた。
「大学時代に根本教授の授業をはじめて受けた時は、胡散臭いお爺やなあと思ってんけど、ゼミに入りいつの間にかすっかりその胡散臭い研究の手伝いをするようになっててん。人生どうなるかわからんなあ」
 根本教授とは、先日の講演をしていた人物だ。言いたい放題言うと、史子はノートパソコンと付箋が貼られた数冊の本やファイルを抱えて戻って来た。どうやら雨音が座っている手前のスペースが応接間のような役割を果たし、本棚で隔てられた奥が、各学生の机が配されている研究スペースになっているようだ。
「はい、これが雨音ちゃんも読んだ、うちのサイトに載せてある本」

「ばいこう、にっき…?」
 史子に差し出された本を受け取り、雨音は躊躇いがちに口にした。もとの色は赤だったのだろうか、年数を経て茶色く変色した表紙には『梅香日記』とある。
「ばいか、と呼ぶねん」
「ばいか……」
 小さく呟くと、雨音はそっとページを捲った。黄色く変色したページには古語が並び、高一レベルの古典の知識では到底読解できない。雨音は眉間に皺を寄せ、うっと言葉を詰まらせた。その表情を見て、史子がくすりと笑う。
「作者は藤原常平。このあたりの地域、当時は宇美と呼ばれててんけど、ここを治めていた地方役人や。自宅に立派な梅の木があって、春には見事な花を咲かせ周辺にその香りが漂っていたことから、彼の家は梅香殿と呼ばれてたらしいわ」
 史子の話を聞きながら、雨音は大きな屋敷の庭に立つ梅の木を想像してみた。

「梅香殿の主が書いた日記やから『梅香日記』やねんけど、この常平がなかなか赤裸々な人物でな。この日記には地方役人の中央への不平不満とか、女性との色恋とか、部下への嫉妬とかも書かれていて、なかなか人間味が溢れていて面白いんよ」
「へえ」
 史子にそう言われると、急に小難しい古典書が面白そうな読み物に見えてくるから不思議だ。
「常平は好奇心旺盛な人でな、自分の領地に風を操る一族がいることを知ると是非とも会いたいと言って、無理矢理に野分氏の長である千風を呼びつけたんよ」
 いよいよ話題が確信に近づき、雨音の心臓がとくりと鳴る。
「宇美の東の森、この大学よりも更に山手になるんやけど、そこにひっそりと風の一族は住んでてん。野分千風という人物は多くの書物を読み、文学から政治まで、あらゆることに精通している博識家やったらしくてね。常平はすっかり彼に心酔してしまったんよ。最初は気まぐれで屋敷に呼びつけるくらい役人的な上から目線やってんけど、その後は師と仰ぎ、自ら千風の屋敷へ通っていたらしいわ。まあ、身分に拘ることなく人物を判断できるところが、常平の憎めへんところやねんけどね」


 その後も、史子は『梅香日記』について、高校生の雨音にでもわかるようにかいつまんで説明してくれた。
 原本は戦火に焼かれ、現存していないこと。今、雨音が手にしている本は、江戸時代の歴史家によって編纂されたこと。室町時代の生活を知るには貴重な文献だが、文学的にはまったく評価されていないこと。

「藤原常平という人は思いついたことをだらだらと書く癖があったみたいで、話は飛ぶし文章は幼稚やし、室町時代について研究している人間にとっては貴重な資料やけど、文学作品としての評価は皆無や。まあ、そもそも日記やねんし、常平だって後世に文章力が云々と批評されるのは迷惑極まりないと思ってるやろうけど」
 史子の説明に思わず雨音は吹き出した。確かに勝手に日記を読まれた挙句、文章が稚拙などと扱き下ろされるなんてたまったものではない。
「文章が下手くそでも、彼が日記を書きとめてくれたお陰でうちらは当時を色々知ることができた。だから、常平様様やな」
 茶目っ気たっぷりにそう言うと、史子はすっかり冷めてしまったコーヒーを口にした。

「色々知ることができたと言うのは、たとえば、風や水や火を操る一族がいたという事実ですか?」
 僅かな沈黙のあと、思い切って雨音尋ねてみた。鼓動が早まるのを感じながら、史子の眼鏡の奥をじっと見つめる。
「そうやね」
 あっさり肯定すると、史子が微笑した。
「それらしい言い伝えはいくつか残っていたけれど、どれも物語の域を越えへんかった。でも常平の日記には、名前も住んでいた場所も年齢も風貌も、どんな会話を交わしたのかさえ詳細に記されている。疑いようのないリアリティが、そこにはあるんよ」

「あの……」
 雨音の脳裏に、微かな疑問が掠める。
「うん?」
 史子が優しく促した。
「常平が師と仰いだ千風という人物は、本当に風を操ったのですか?」
 野分千風という人物と、その息子の弥風が実在したのは恐らく間違いないのだろう。けれども、本当に彼らは風を操ることができたのだろうか。常平が噂を信じているだけだという可能性はないのだろうか。
「雨音ちゃんは、風や水や火を操る力を持った人間はおらへんかったと思う?」
 そう尋ねると、史子は雨音の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「わかりません」
 雨音は素直に答えた。

 正直、突拍子のない主張だと思う。
 自然と共存していた時代、そのような人間がいてもおかしくはないのかも知れない。だけどそれは常識の範疇を超えていて、受け入れることは容易ではない。人は、目に見えないものを信じることが一番難しいのだ。

「二月のある日の日記やねんけどな」
 そう言うと、史子は付箋が貼ってあるページを開いた。
「毎年、常平の屋敷では梅の花が満開になると花見の宴が催されていたらしくてな。その年は千風も招かれていたんやけど、前夜から春の嵐が吹き荒れて、せっかく美しく咲いた花が全部散ってしまいそうになったらしいんよ。それどころが、枝も折ってしまいそうなくらいの強風に、庭の梅の木を何より大切にしていた常平はひどく落ち込んでしまってな。悪天候で外出もままならないから、もちろん花見は中止やし。せやけど強風の中、ふらりと千風が梅香殿を訪れてん。驚く常平をよそに、梅の花を見せて下さい言うて、庭を一望できる部屋まで上がり込んだらしいんや。そこで、僅かに枝に残った梅の花を見た千風が称賛の言葉を述べると、風が嘘のようにやんだと言うんや」

 史子は淡々とそう説明すると、付箋が貼られたページを開いたまま雨音に差し出してきた。もちろん原文を見ても雨音に読解はできない。けれど、雨音は黙ってそのページを凝視した。
「後にも先にも、常平が千風の力を目の当たりにしたのはその時だけということや。偶然かも知らん。お調子者の常平が、作り話をしているだけかも知らん。それでもうちは、この記述が嘘やとは思われへんのよ」
 本を持つ手が微かに震える。心臓が早鐘を打つ。
 何故だかわからないけれど気持ちが昂ぶり、雨音は泣きそうになってしまった。

「人が自然を操るなんて、最初聞いた時はそんなアホなとうちも思った。だけど色んな文献を読んでみて、今はそんな一族が存在したとしても不思議はないかなと思ってる」
「そうですね」
 小さい声で、けれどもはっきりと雨音は史子の言葉を肯定した。
 幼い頃に祖母から聞かされた物語が実話だったかも知れないということは、不思議だけれど、雨音の中では意外なくらいすんなりと受け入れることができていた。


「常平という人は、水の一族についても記しているんですか?」
 暫く黙って色褪せたページに視線を落としていた雨音は、やがて本を閉じると静かに史子に問いかけた。
「それがな、水の一族についての記載はないねん」
 史子の言葉に、雨音は軽く落胆した。風の一族について予想以上に詳しく記されていたので、水の一族についても同じくらいの情報があるものとばかり思っていたのだ。
「もともと彼らは、人を避けるように森の奥でひっそりと暮らしててん。たまたま藤原常平という人物が風の一族に興味を持ち、野分千風という人物と交流を図った。そしてそれを詳細を文章に残していた為に、風の一族についての情報量が多いだけやねん」
「じゃあ、水と火の一族についての記録は残ってないのですか?」
 雨音の質問に、史子は曖昧に笑う。
「うん、そうやね。火の一族は、まあ、ちょこちょこ残っているんよ。支配欲の強い一族やったらしく、頻繁に権力者と組んだりしてたみたいで、たまにちらっと歴史書に名前が出たりしてるかな」
 こくりと雨音は唾を飲み込んだ。
「謎が多い火と風と水の一族の中で、特に謎なのが水の一族やねん。彼らは徹底して文書を残さなかったし、歴史の表舞台から一切その存在を消していたから、正直うちらも殆ど何も知らへん。風の一族は野分という姓を名乗っていたけど、水の一族が姓を名乗っていたのかすらわからへん。ただ、スイ族と記されている文献が残されていて、たぶんそれが水の一族を指してるのだろうというのが通説や。あと、スイ族は女系だということだけはわかってるかな。代々、女性が一族の長に就いていたみたいや」

 雨音は史子の説明を聞きながら、膝の上で軽く握っている手が汗ばんでいるのを感じていた。幼い頃に聞いた物語の世界が、今、ものすごい速さでリアルに迫って来ている。
「それで、風の一族と水の一族の政略結婚は本当にあったんですか?」
 急かすように雨音は問いかけた。
「それは、わからへん」
 史子の答に、雨音は大きく息を吐いた。
「千風の息子である弥風が結婚したのは確かや。ただ、相手の出自も年齢もすべてが謎に包まれているんよ。常平も祝いの品を贈ったみたいやけど会ったことはなく、詳しいことは何も知らんかったみたいやわ」
 静かな研究室には、史子の穏やかな声だけが聞こえる。
「弥風が妻に娶った女性の名前が、センという名だったこと以外は……」



2010/11/20

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