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十二の月を



みつめる春


< 卯月 >

部活の試合で左足から靴を履いたら勝ったことを思い出し、今朝も左足から靴を履く。
福引で三等が当たった時は前髪を上げていたので、今日も前髪を上げてみる。
横断歩道を渡る時は右足から踏み出し、白いラインの上だけを歩き、同じ時間の同じ扉から電車に乗る。
とにかく思いつく限りのゲンを担いで、あとはひたすら神様と仏様とイエス様に祈った。
(どうかお願いします)
願い事をする時だけ縋るなんて我ながらゲンキンだと思うけど、最後は自分の力で頑張るから、だから頑張るチャンスを下さいと。
自分でも呆れるくらい緊張しながら人垣を掻き分け、そして真っ白な模造紙に書き出された名前を見つめる。
(どうか、どうかお願いします……!)

自分の名前の斜め上に彼の名を見つけたその瞬間、心拍数が上がる。頬が上気する。
ゆっくりと息を吐きながら空を見上げると、薄紅色の花弁が春の風に舞っていた。
校庭のソメイヨシノが満開だったことに、今、ようやく気がついた。





< 皐月 >

水曜日の午後、わたしは密かに幸せを噛みしめる。
お弁当を食べ終わると、ぞろぞろと民族大移動がはじまるのが毎週水曜日のならわし。もともとわたしたちの高校は文系と理系によってクラス分けがされているが、三年になると週の半数が選択科目だ。水曜の五限と六限は特別授業で、英語科志望のわたしは他のクラスの英語科志望の生徒たちと一緒に、この教室で英語の長文読解の授業を受ける。
「いいなあ、あんたは教室移動がなくて。わたしなんか七組だから、階段を上るのが面倒くさい」
友人たちはぶつくさ文句を言いながら、皆それぞれ古文やら日本史やらの問題集を持ってのろのろと教室を出て行く。代わりに別のクラスの人たちが、英語の辞書とテキストを抱えて入って来た。それを機に、わたしも席を移動する。選択授業の席は、クラス順且つ出席番号順に指定されているのだ。

窓際一番うしろの席の椅子をそっとひく。腰かける瞬間、いつも少しだけ緊張する。
彼がいつも座っている席で、彼がいつも見ている景色を見ているのだという微かな喜びが体を支配する。

あまりに寒いオトメ思考と、一歩間違えば変態になりかねない危険性は、しっかりと自覚済みだ。
恥ずかしくて口が裂けても友達には言えないけれど。それでも、同じクラスになってまだ挨拶すらまともにできない距離の遠さを感じているわたしにとって、水曜日の午後はささやかな幸せを感じられる時間なのだ。
つい先日までピンクに染まっていた桜の木は鮮やかな緑の葉をつけ、その色は日ごとに濃くなってゆく。
開け放した窓から爽やかな風がそよぎ、少し火照った頬を掠めた。





< 水無月 >

灰色の景色。しとしと降り続く雨。肌に纏わりつく湿気。
六月は一番嫌いだ。毎年のことながら、今年も憂鬱な季節の到来に盛大な溜息をつく。
ぼんやりと窓の外の誰もいないグラウンドを眺めていると、不意に背後から名前を呼ばれた。

「これ、さっき視聴覚室に忘れてたよ」
目の前にいる想い人からそう差し出されたのは、わたしの使い慣れたブルーのシャーペンだった。
「へ? あ、ありがとう」
第一声の間抜けな声。更に裏返ったお礼の言葉。
何の前触れもなく呼びかけられたことに動揺し、その自分の動揺っぷりに更に動揺する。顔が一気に火照る。そうして、はじめて名前を呼ばれたことに思い至った。ちゃんと自分のことを認識してくれていたのだという、ささやかな喜びが込み上げる。

「あれ、違った?」
テンパっているわたしを訝しそうに見られたから、慌ててシャーペンを受け取った。
「ううん、わたしの。ありがとう」
「間が空いたから、別の奴のだったかと焦った」
「や、いきなり呼ばれたからびっくりして。名前覚えてくれていたんだって」
思わずぽろりと本音を零す。
「え、だって新しいクラスになってもう二ヶ月じゃん。いくら俺だってクラス全員の顔と名前くらい覚えるぞ」
「ごめん、そう意味じゃなくて。喋ったことないし席も離れてるし、選択授業も違うし。わたしなんて視野に入っていないと思っていたから」
自分でも何が何だかわからなくなって、しどろもどろに弁解する。日頃のネガティブな思考が最悪な形で現れ、死ぬほど後悔した。

「え、じゃあ俺の名前覚えてないの?」
「まさか、覚えてるよっ!!」
覚えていないわけがない。思わず声が大きくなった。
「喋ったことないし席も離れてるし、選択授業も違うけど、覚えてるんだ?」
そう言って彼は悪戯っぽく笑った。
「スミマセン……」
「てゆうかさ、去年の委員会で一緒だっただろ?」

まともに喋れなくて恥ずかしくて、わけわかんないこと言って恥ずかしくて。
恥ずかしくて恥ずかしくて、黙ってじっとしてるのが耐え切れないくらい恥ずかしくて。
そして、嬉しい……。
誰もいなければ、きっとわたしは雨の中を叫んで走り出していただろう。
相変わらず灰色の景色で、相変わらず雨はしとしと降り続け、相変わらず湿気が肌に纏わりつくけれど。
今日この瞬間、六月がわたしの一番好きな月になった。



2008/01/18

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